第33話

 青葉の色が深まり、さらには梅雨の走りの季節になる。

 どこかモヤついた灰色の空と雨は、その前の青空を懐かしく感じさせた。

 窓を雨粒が打ち、パラパラとした音が響く。

 その音を存外気に入っているツバサは静かさを味わうように目を閉じていた。

 最終学年になり、悠里と海斗の許婚解消の話題も下火になってきていた時、その提案はなされた。


「ダンスの練習?」

「そう、プロムパーティーでも必要だし、芸術祭のためにもあったほうがいいかと思うの」


 部室や練習室が立ち並ぶ文化部棟の一室。

 珍しいところに呼び出されたツバサは悠里の発言に目をパチクリとさせた。

 どうりでレッスン室なわけだ、と一人納得する。


「わたしはダンス自信ないから、練習できるの嬉しいけど。悠里は忙しいよね?」


 ダンス。しかも悠里が言っているのは、社交ダンスと言われるようなクラシックなものだ。

 シオン学園に入らなければ、一生踊らなかっただろう。

 当然披露する場面も限られ、授業以上に踊れる気はしなかった。

 悠里の提案は嬉しいが、彼女の忙しさを知っている身としては心配になってしまう。


「あなたと踊れるなら、別に」


 悠里はツバサの視線を受けて、キョトンとした顔をした。

 それから首を傾げれば、雨の季節にも関わらず、艶を失わない黒髪が揺れる。

 本心からの言葉にツバサは言葉に詰まってしまう。


「うっ……不意打ちは禁止だって」


 あの日から、こうやって悠里はツバサに真っ直ぐな言葉を届けてくれる。

 撃ち抜かれるツバサは頬を赤くして、心臓を早くさせるしかない。

 たまに恋人らしい触れ合いの雰囲気になるのだけれど、まだ悠里に触れることは怖くてできなかった。


「ツバサはホントに紳士的ね」

「ごめんね」


 悠里が肩を竦める。

 ツバサは申し訳無さを滲ませて笑う。

 だって、ツバサは男じゃない。いつ女だとバレるかもわからない。

 その状態で、悠里に触るのも、触られるのも、怖かった。


「いいわよ、あなたは約束は必ず守る人だから」


 悠里はふーと息を吐き出して、ツバサの頬に指を滑らせた。

 そっとツバサも悠里の手に手を重ねる。

 この温もりを裏切りたくないと思った。


「ナニコレ、あたし、こんな人たちにダンス教える自信ないんですけど」


 突如響いた声にツバサは飛び退くように体を離す。

 声のした方に顔を向ければ、半眼でこちらを眺めるさくらがいた。口元に薄ら笑いを浮かべているのが怖さを煽る。

 慌てているツバサとは対照的に、悠里は驚きを微塵も出さずさくらへ目を向けていた。


「小野寺さん、いたの?」

「あんたが呼んだんでしょ」

「わ、わたしもいるよ」


 勝手に火花を飛ばし始める二人の間に入るように紗雪がさくらの後ろから顔を出す。

 片手を上げながら存在を主張するように小さく跳ねている。

 なるほどダンスの練習をするなら適任の人選だ。


「小野寺に紗雪ちゃん」


 名前を呼べば、さくらは呆れた顔のまま悠里から視線を背ける。

 悠里も知らぬ顔でツバサの隣に並んだ。

 扉の方からさらに聞き慣れた声がする。


「俺もいるぞー」

「俊介。プロムパーティーで踊るんだっけ?」

「キング争いには出なくても、踊れないと不格好だしな」


 顔をしかめながら告げる姿はメリットとデメリットのバランスを考えているようだ。

 俊介はずっとシオン学園にいる人間だから踊ることはできる。

 できるが、格好がつくくらいのダンスは習得しておきたい。そういうことらしい。

 俊介は人気のある人間なのでダンスを申し込まれることも多いだろう。


「龍ちゃんがいないなら、暇つぶしも考えないといけないし」


 面倒半分という顔で俊介が頭の後ろで手を組んだ。

 彷徨う視線は本当に暇つぶしを考えているのだろう。

 性格的にも壁の花は苦手そうだ。


「女の子ばっかりだと比率が悪いから」


 対してさくらの俊介の紹介はざっくりしたものだった。

 ツバサは苦笑するしかない。

 実際はツバサも女子のため、俊介だけが男なわけだが、それを知っているの自分だけだ。


「ツバサは芸術祭の脚本もあるでしょ?」

「いや、主演で生徒会副会長の悠里に言われても」


 心配そうな視線が悠里から向けられる。

 だが、このメンバーの中で一番忙しいのは、間違いなく悠里で。

 彼女が付き合ってくれるなら、ツバサが断る理由はなくなる。


「まぁ、調宮が練習するって言ったら、学校はすんなり施設を貸してくれるから楽よね」

「さくらちゃんだとバッティングしちゃうもんね」

「成績残してるんだから、貸してくれていいと思うんだけど」


 さくらが愚痴半分に呟く。

 元々部活で部室を借りることが多いさくらより、悠里の方が申請自体通りやすいだろう。

 俊介が頭数を数えるようにメンバーを見回した。


「つっても、これだと一人女の子余るぞ?」

「あたしは基本的に指導よ。ビシバシいくから、覚悟なさい」


 さくらは口角を上げて、強気な笑みを浮かべた。

 彼女の実力は部活を通して知れ渡っている。同じクラスのときに見たこともある。

 俊介はやる気に溢れたさくらの姿に顔の前で両手を合わせた。


「なーるー……お手柔らかにお願いします」


 こうやって始まった練習は思ったよりすんなり進んだ。

 まず、悠里のホールドが上手い。

 社交ダンスは基本的に男側がリードするのだが、悠里が上手すぎて自分が踊れる気分になったくらいだ。

 だけど、ツバサはさくらを見る。苦笑いが返ってきた。


「柚木!」

「どうしたの?」


 一回目の練習終わり、悠里は家の用事があると先に帰った。

 ツバサは悠里以外とも組んでみたが、そうなると途端に自分の下手さに天を仰ぎたくなった。

 と、さくらがツバサの側に駆け寄り、声を小さくする。


「たまに男パートの練習に付き合ってくれない?」

「はい?」


 さくらの男パートの練習ということは、ツバサは女側ということだ。

 できないことはないが、身長も同じくらいだし、さくらだったら両方踊れるだろう。

 だけど、わざわざツバサでなくてもいいのではないか。

 その思いのまま首を傾げていたら、さくらに肩を掴まれた。


「あんた悠里相手に踊るでしょ」

「うん、そうだけど」


 踊るというか、踊らされているというか。

 悠里の示す方に踊ってれば間違わない。そういう感覚に近い。

 さくらはツバサの答えに何度か頷いてから、神妙な声で告げた。


「体格やレベル差を考えると、絶対悠里にリードされることになるわよ」

「まぁ、仕方ないよね」


 今さら埋まるレベル差ではない。

 邪魔にならないように、悠里をクイーンにするつもりで努力はする。

 目下最大のライバルである海斗たちも、里奈がいることで同じようになるはず。


「そ、こ、で、ツバサが女パートを踊っておけば、どうリードされたいか分かるわよね」

「確かに」


 まるで押し売りのような態度だが、言っていることはわかる。

 そして、さくらがそうまでして男パートを踊りたい理由も察することができる。

 ツバサはさくらの肩越しに紗雪を見た。小さく頭を下げられる。

 ツバサは目だけで頷いた。


「代わりに、あたしが男パート踊ってあげるから。付き合いなさい」

「はーい、ありがとうございます」


 さくらの言葉に素直に頷いておく。

 さくらがやりたいと言えば、覆すことは難しい。長年の経験から分かっていることだった。

 先ほどとは反対にツバサがさくらの耳元に口を寄せた。念のためという奴だ。


「紗雪ちゃんと踊りたいんでしょ?」

「驚かせたいんだから、黙っててよ」

「はいはい」


 しーっと口元に手を当てるさくらに頷く。

 もう一度紗雪を見れば、困ったように笑ってくれた。

 紗雪は目立たないようにしているが感が鈍いわけではない。

 むしろずっと武道をしているからか、鋭いくらいの女の子だ。


(もうバレてると思うけど)


 ツバサは気合を入れているさくらを見ながら、これからのことについて考えていた。

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