第7話

 ツバサは机の上に体を投げ出すように頬をつけた。

 机の冷たさが気持ちいい。

 久しぶりに子供に戻ってみたら、驚くくらい代謝が良くて、動けば暑くなる。

 その分、体力の消耗も激しかった。


「うぁー……」


 外からはまだ俊介たちがボールを追いかける声がした。

 元気だなぁと呆れ半分、感心半分に音を楽しむ。

 目を瞑って体力を回復していたツバサに、隣から声がかかった。


「大丈夫? 柚木くん」

「うん、俊介はすごいねぇ」


 悠里は休み時間も机に座っているか、図書室に出かけている。

 今日は教室に残っていたようで、フラフラのツバサを気にかけてくれたようだ。

 机の上で本を読む姿勢は変わらず、視線だけがツバサに注がれていた。

 こういうところが優しい。だけど、気付かない人が大半だ。

 声をかけられてツバサは顔だけを悠里の方に向ける。


「毎回付き合う必要はないと思うけど?」

「まぁ、せっかく、誘ってくれてるし」


 本に栞を挟んで、悠里がツバサの机側に体を向き直す。

 同じ制服を着てあるはずなのに、まったく違うように見える。

 窓から吹き込んだ風がカーテンと悠里の髪の毛を揺らす。

 ああ、キレイだなとツバサは和やかな気持ちになる。

 俊介が誘ってくれることで、男の子にもうまく馴染むことができる。女の子とは前とは違っても、察することはできた。

 何より。


「こうやって調宮さんとこに逃げるときもあるから」


 今、ツバサがここにいるのは悠里を助けるためだ。

 あの神様はその方法までは教えてくれなかったけれど、きっと前とは違う方が良い。

 そのために動くことで、悠里の違う面が見れるのはツバサにとっても役得だった。

 だって前はこんなふうに机を並べて悠里を隣から見上げるなんてできなかったから。


「……柚木くんは、ズルいところがあるわね」

「そうかな? 初めて言われた」


 ツバサの顔も少し緩んでいたかもしれない。

 悠里は呆れたように一度息を吐くと、ぷいと前を向く。

 その頬が少し赤いのをツバサは見逃さなかった。


(かわいい)


 そんなことを思えるようになったのも、新しい発見だった。

 それにしても、これから男として生きるならば、体力が必要だ。

 体育の授業は男と女で問答無用で違うのだから。プールの授業はシオン学園にはないのは救いだった。


「体力欲しいなぁ」

「運動か何かしてみたらいいんじゃない?」


 顔を手でどうにか支えるようにしながら、悠里と会話を続ける。

 ツバサのどうしようもない呟きに悠里はもっともな意見をくれた。

 体力をつけるとなれば、走り込みか。

 ある程度、体をうまく動かせるようになっていたい。


「調宮さんは何かしてるの?」

「運動は乗馬だけね」

「乗馬……」


 それはまたお嬢様の王道だ。

 ツバサの脳裏では習い事の枠にさえ入っていなかった。

 運動という括りで乗馬なのだから、運動以外の習い事は多いのだろう。


「それは馬が好きだから?」

「そんな感じよ」


 悠里は軽く肩を竦めるだけ。

 乗馬も楽しそうだが、自分がしている姿はまったく想像できなかった。

 悠里が乗っている姿はありありと想像できるのに、不思議なものだ。


「運動……武道の家元ならクラスにいると思うわ」

「そうなの?」

「田中くんに聞いてみたら?」


 乗馬と来て、武道になる。運動からそう意識を飛ばす小学生は少ないだろう。

 野球やサッカー、スイミングを飛ばして武道になるのが少し面白かった。

 まだギシギシいう体を机から引き剥がし、ツバサは悠里に微笑んだ。


「そうするよ。ありがとう」

「いいえ、これくらいお礼を言うほどのことでもないわ」


 それだけ言うと悠里はまた本を手に取り、読書を再開する。

 休み時間は未だ少しある。

 俊介たちが帰って来るのを待ちながら、どう声を掛けるか考えることにした。


「星野さん」

「え、柚木、くん」


 そんなやり取りをしたのが昨日のこと。

 俊介は悠里の言った通り、誰が武道の家元か知っていた。

 というのも、俊介自身、礼儀を身につけるため、そこに通わせられていたかららしい。

 その家こそ、星野家。

 星野紗雪という、武道をしているとは思えない大人しそうな女の子だ。


「ごめんね、急に話しかけて」

「ううん、大丈夫」


 ツバサは逃げるように身を引く紗雪に小さく頭を下げる。

 紗雪のことは知っていた。もちろん、今ではない。

 高等部になるまでの間に体育祭の実行委員が被ったのだ。

 表舞台には立ちたがらない彼女だったが、一度だけ模擬演武として型を見せてくれた事があってーーギャップに驚いた。


「あの、今度、星野さんちに見学に行っていいかな?」


 距離を詰めすぎないよう注意しながらツバサは紗雪に尋ねた。

 紗雪は黒いストレートの髪を2つに結って、前髪も瞳に少しかかっている。

 その前髪の下で紗雪の瞳が右左と動いているのが見えた。

 耳をそばだてなければ周りの喧騒に消されそうな声が紗雪の口から漏れてくる。


「うちに?」

「俊介から星野さんの家は合気道をしてて、星野さんもすごく運動が得意だって」


 あまり仲の良くないクラスメイトのことを把握している悠里も流石だが、紗雪のことをきちんと覚えている俊介も流石。

 上流階級の人間は人のことを覚えるのが得意なのかもしれない。

 ツバサの言葉に、紗雪は小さく首を横に振った。


「いや、そんなことないけど」


 まぁ、彼女ならそう答えるだろう。

 これは予想の範囲内とツバサは慌てず息を吸った。

 ここで「まぁ、得意だけど」なんて言ってきたら、紗雪の中身もあの神様に入れ替えられていると思っただろう。

 じっと紗雪を見つめたまま、待つ。

 右左と瞳の動きは激しくなり、やがて諦めたように肩を落とした。


「その、見学は大丈夫だと思う、よ。毎日稽古は入ってる、から」

「ホント? それじゃ、なるべく早く行くね」

「う、うん」


 やった、と声を出さずに喜ぶ。

 紗雪の手を握り、上下に大きく振る。

 その動きに合わせてか紗雪が目を白黒させた。


「柚木くん、そう気軽に女の子の手を握らないほうがいいと思うけど」


 その様子を見ていたのか、呆れた悠里の声が後ろから響いてくる。

 すっかり忘れていた。

 今のツバサは男なのだ。

 意識しないと、女だった時のままで行動してしまう。

 ツバサはパッと手を離し、そのまま両手を合わせて謝る。


「あ、ごめん。星野さん」


 いつの間にか後ろにいた悠里にも目でお礼を言う。

 小さく肩を竦めたまま、ツバサと紗雪のやり取りを悠里は見つめていた。

 待ってくれている。それだけで嬉しい気分になれるから不思議だ。

 紗雪を驚かせないよう、ゆっくり手を振りながら悠里の隣に移動する。


「また連絡するね」

「う、うん」


 紗雪はツバサと距離が取れたことで少しホッとした様子だった。

 申し訳ない気持ちを抱きつつ、悠里と席に戻る。


「良かったわね」

「うん、調宮さんのおかげだよ。ありがとう」


 特に最後の方は、完全に浮かれていた。

 男子と女子が手を取り合って喜んでいたら、いらぬからかいを受ける事になってしまう。

 特に俊介はこういう話が好きな部分がある。気をつけようとツバサはもう一度心に決めた。

 悠里はツバサを見ると口角をわずかに引き上げた。


「あんなに泣いてたのにね」


 からかいの言葉。ツバサは苦笑するしかない。


「それは言わないでよ」

「冗談よ」


 悠里の口から冗談が出るなんて。

 良くも悪くもツバサが男らしくない男として行動している影響が出ているのかもしれない。

 前はこれほど悠里がクラスメイトと絡んでいる姿は見られなかった。

 少しでも変わったことが嬉しくて、同時に始まる男としての体力作りに少し落ち込むツバサだった。

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