第31話
驚くほど晴れた日だった。
朝、流れてきたグループでのメッセージにツバサは家を飛び出した。
風が吹けばまだ肌寒い季節だが、長袖の制服で駆け抜けるには暑い。
焦る気持ちとは対照的などこまでも青い空が住宅街の合間を埋めていた。
「朝倉? どういうことか、教えて欲しいんだけれど?」
息を整えるのも煩わしい。
いるだろうとアタリをつけた生徒会室に目的の人物はすでに座っていた。
ツバサの姿を見ると資料を机の上に置いて呆れたように息を吐く。
「もう情報がいったのかい?」
その口調だけでクロ。
グループで回ってきた噂は根も葉もないことが多いのだけれど、今回は当たりだったようだ。
悠里からも海斗からも直接の情報はないのが寂しい。
ツバサは肩を竦めた。
「悠里関連は、みんな怖いほど教えてくれるんだよ」
「人の口に戸は立てられないか。下手な宣伝動画より、口コミが勝つのもわかる」
やっと息が整い始める。
大ごとだというのに、海斗の態度はどこか軽いもの。
悠里が傷ついている可能性があることにツバサは苛立っていた。もう一度、静かな声で彼の名前を呼ぶ。
「朝倉」
「ああ、もう、怖いって。俺はどちらかといえば振られた方だよ?」
ツバサの剣幕に、海斗は両手を上げて、まるでお手上げというように首を竦めた。
自分が𠮟られるのはお門違い。そう言っているようにも見えた。
ツバサはわずかに瞳を鋭くする。振られたというのは、大げさが過ぎるだろう。
「石川さん」
里奈のサポートは、ツバサと海斗で半々になった。一年ほどの期間ではあったけれど、二人の距離を縮めるには充分だったようで。
ツバサも、ツバサの周囲も二人が仲良さそうに話す姿は何度も目撃している。
悠里の震える横顔に一番関係している部分だ。見逃すわけにはいかない。
「君たちはエスパーか何かかな?」
海斗は深くため息を吐いた。
”たち“というからには、悠里にでも似たようなことを言われたのだろう。
ツバサはわずかに頬を引き上げる。
「朝倉は分かりやすいよ?」
彼自身が思っている以上に海斗は顔に出る。
悠里が緊張すればするほど表情に出ないのとは反対だ。
元々が皆の上に立つものとして振る舞っているので、感情が乗る部分は見えやすいのだ。
「はー……里奈とは、何もないさ」
海斗は諦めたように息を吐いた。
何もない、ことはないだろう。許嫁がいながら、一緒にいる時間は悠里より多かったのだから。
だけど、悠里自身はツバサといたので、そこまでは突っ込まない。
結局、ツバサは悠里が悲しまないならいいのだから。
「今までは?」
「今からは、自由の身だ。好きにさせてくれないかい?」
わざと今からを強調して返される。
ツバサとしても悠里が関係しないなら、わざわざ海斗の恋愛に首を突っ込む気はない。
友人として彼の性格はよく知っているので、幸せになって欲しいのだ。
「悠里が悲しまないなら」
「泣かないなら、とは言わないんだね」
ツバサの言葉に海斗はかすかに不思議そうに首を傾げた。
泣かない。それは悠里を言い表すのに適切な言葉じゃない。
「悠里は悲しくて泣くタイプじゃないから」
「君のそういうところが、ホント敵わないよ」
苦さと甘さを同時に味わったような顔をして、海斗が笑った。
「許婚は解消。俺と悠里はフリー」
流れるように告げられる言葉。海斗は少しだけ目を細めると、わざとらしく顔の前で両手を組んだ。
窓から差し込む光が逆光になり、海斗の顔に影が差す。
「さて、柚木の答えは何かな?」
わたしの答え。
ツバサは海斗からの問いかけに言葉を飲み込んだ。
柚木ツバサの答えはひとつしかないはずなのに。
「わたしは」
零れ落ちた言葉を遮るようにノックの音が響いた。
海斗とツバサの視線が扉に集まる。
扉の軋む音と共に生徒会室に入ってきたのは、話題の中心である悠里だった。
「失礼、ツバサがここにいるって聞いて」
「悠里」
ツバサは悠里の姿を確認する。
制服に一筋の乱れもない。綺麗に伸ばされた黒髪に枝毛もない。
顔色も普段通りで、むしろ少しすっきりしているようにさえ見える。
それだけでほっとした。良かった。
ツバサは尖らせていた神経が丸くなるのを感じた。
「悠里、遅いよ」
悠里の登場に表情を緩めた海斗は、席を立つとツバサの肩をぽんぽんと叩いた。
ツバサとしても要件は終わったも同然だ。
悠里が海斗を見る視線に、特別なものは何も含まれていないように見えた。
「君の相方を回収してくれ。噛みつかれて困ってる」
「何で噛みつかれたの?」
「許婚解消の話だよ。さっさと誤解を解いてもらわないと」
ぽんぽんとツバサの前で軽口が交わされていく。
ちらりと悠里の視線がツバサを見止めるも、すぐに戻された。
ツバサは何も言わず、すでに元許嫁になった二人を見ていた。
「ああ、わかったわ。ツバサ、行きましょう」
「……いいの?」
海斗の言葉に悠里はすんなりと頷いた。
あまりにあっさりとした態度に、ツバサの方が気になってしまったほどだ。
悠里は眉一つ動かさずに頷く。
「許婚の解消はホント。詳しいことは別な場所で話すわ」
「わかった」
そう悠里から言われてしまえばツバサに反論する術はない。
少なくとも悠里も許嫁の解消にショックは受けていないようだった。
いつの間にか席に戻った海斗に悠里が言葉をかける。
「邪魔したわね」
「頑張ってね」
「ありがとう。そっちもね」
それだけのやり取りを経て、悠里は踵を返す。ツバサもその後ろをついていく。
生徒会室の重い木の扉が閉まった。まだ生徒の姿は少ない。
元々三年生がいない上、朝も早い時間だから当然だろう。
人影のほとんどない廊下を歩く。
無言の背中に声をかけられないまま、気づけば講堂の非常階段まで来ていた。
いつかも見た階段からの景色。小春日和の様相を呈している中庭を悠里はじっと見つめていた。
「悠里」
どう声をかけて良いかもわからず、ツバサは彼女の名前を呼んだ。
端正な横顔に悲しそうな色は見えない。
それでも不安になってしまうのは、前の記憶の影響かもしれなかった。
「許婚は解消されたわ。私も海斗も自由。自由に相手を選べる」
「……うん」
風が悠里の黒髪を撫でていく。
綺麗な光景にツバサは目を細めた。
たまに、普通の会話の最中であっても、目を奪われる瞬間が訪れるときがある。
それが自分自身が悠里のことを好きだからなのか、ただ美しすぎるものに目を奪われているだけか。はたまた両方か。ツバサには分からなかった。
「褒めてくれないの?」
「え?」
黒髪を手で押さえながら、ほんの少しだけ悠里が振り返る。
不安と恥ずかしさと、何か。わずかに眉間に皺が寄っていた。
悠里の問いかけにツバサは虚を突かれた。
「私はあなたのために、頑張ったのよ」
まっすぐ告げられた言葉。
赤く染まり始める頬は、ツバサの中の何かにじわじわと火を着ける。
悠里が海斗との許嫁を解消した理由が、すっと胸の真ん中に落ちてきた。
「それとも、私じゃ、ツバサの隣はダメかしら?」
ふわりと弱々しく投げかけられた言葉に突き刺される。
「ダ、ダメなわけ……ないでしょ!」
そんなことを言われたら、もう駄目だった。
悠里の隣に立ちたくて、その背中を支えたくて、もがいてきた。
ダムがはち切れたように感情の奔流がツバサの中を駆け巡り、涙となって溢れ出す。
悠里の前だと泣いてばかりだ。
「やっぱり、泣き虫ね」
いつかのように、悠里が頬にハンカチを当ててくれる。
涙で歪んだツバサの視界の先で、同じような顔で悠里が笑っているのが見えた。
ツバサは悠里の手をハンカチごと握りしめた。
「悠里のことだけだから」
「あら、それは嬉しいわ」
もう片方の手で涙を拭われる。
クリアになった視界に輝く笑顔の悠里がいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます