第38話 逃げた先で


 ダンスホールから逃げて、ザワメキから遠のく方へ走る。

 冷えた空気がタキシードから露出した部分を刺すように感じた。

 無我夢中で走って、たどり着いたのは講堂の非常階段。

 知らぬ間に選んでいた場所にツバサ自身が呆然とした。

 手すりを掴みながらしゃがみ込む。


「ここ」


 息が切れた。

 吐息が白い煙になって登っていく。

 走っていた時は感じなかった冬の気配にツバサは目を細めた。


「……どれだけ、悠里が好きなんだか」


 この学園のそこかしこに悠里の面影を感じる。

 それはツバサが初等部から積み重ねた想いの結果だった。

 その中でも、この講堂と非常階段は印象深い。

 初めて悠里のために動いた芸術祭。悠里の前でボロボロ泣いてしまったのは恥ずかしったのだけれど。


「プロム、どうなったかな?」


 走った分だけ体は疲れていて、昔のことを思い出させる。

 見上げた空には星が見え始めていて、緊張でわからなくなっていた時間の流れを感じた。

 最後に見えたのは悠里のドレス姿だけ。顔は怖くて見ることができなかった。

 さくらや紗雪、俊介と龍之介もどう思っただろう。


「みんな、楽しんでるといいけど」


 空を見上げたまま呟く。うつむけた瞬間に、何かが零れ落ちそうで怖かった。

 華やかな音楽も聞こえてこない暗闇。

 不思議と聞こえないはずの音楽が聞こえる気がした。


「逃げちゃったなぁ」


 じわじわ、じくじく。寄せては返る後悔がツバサの胸にこみ上げる。

 悠里を一人にしてしまった。もっとも彼女にマイナスの視線は向かないだろうから、そこだけは安心している。


「まだ、戻れるわよ」

「……悠里、追いかけてきて、くれたの?」


 帰ってこないと思っていた返事が返ってきた。

 重い扉を静かに閉めて、悠里が近づいてくる。

 プロムのままの格好でここまで来るのは大変だっただろう。

 緑から水色に変わるような布地が、光のない場所ではトーンを暗くした。

 裾を持ち上げながら歩く悠里に思わず手を差し出した。


「当然でしょ」


 手が重なる。冬の気温は寒いくらいなのに、悠里の手は熱かった。

 よほどツバサを探してくれたからだろう。

 離そうとした手のひらをそのまま繋がれてしまい、ツバサは悠里の顔を見上げた。


「パートナーを放っておくなんて、酷い人ね」

「ごめんね」


 悠里は静かに笑っていた。

 怒ってもいい、怒鳴ってもい。詰ってくれた方が百倍楽だったかもしれない。

 一番大切な時に、ツバサは逃げ出してしまったのだから。

 後悔があふれ出した。


「ふふ、いいのよ」


 悠里は繋いだ手だけ力を入れていた。

 表情は穏やかで、何を考えているか読めない。

 女のツバサとして彼女の前にどう振る舞っていいのかわからなかった。


「怒ってる、よね?」

「いいえ」


 下から伺うように見る悠里は新鮮で。

 普段とは違うドレスだから、いろんなことが相まって心臓の音が体の中で響いていた。

 だけども、そんなツバサのことなんて知らぬ風に悠里は首を横に振った。


「ただ、なんで今さら男装がバレたのかしら」

「うん、ほんと……って」


 ほんとそれ。青髪へのイラつきは絶えない。

 悠里の言葉に素直に頷きそうになったツバサは驚きに目を見開いた。

 男装。悠里はそう言った。

 つまり、彼女はツバサが女だと前から気づいていたのだろうか。

 また違う感情がこみ上げ、鼓動が早くなる。


「知ってたの?」


 ツバサは聞いた。


「知ってたわ」


 悠里は頷いた。

 そこに気負いはない。

 知っていることを、普通に知っていると言っただけ。

 だけどツバサの頭の中は大混乱だ。

 今まで、どんなことがあっても男として扱われていたのに、悠里本人に女としてバレていたなら。

 今までの自分を振り返る。恥ずかしさがこみ上げてきた。


「いつ?」

「別荘で遭難した時」


 ということは中等部の時だ。

 あの時はあの時で、海斗との許嫁の話があったり、悠里が心配だったりで一杯いっぱいだった。

 気付けば朝倉家の別荘に戻っていて悠里に泣かれた。

 さくらや紗雪にも心配をかけたようで、俊介さえしばらくそっとしてくれらいだ。


(どのタイミングで?)


 思い出す限り、悠里の反応に変化はなかった。

 可能性として一番高いのは、やはり意識を失っていた間だろう。

 力が抜けそうになる膝を叱咤して、ツバサは手すりに額をつけた。


「はぁ〜……言ってよぉ」


 どうりであれ以来、距離が近いと思った。

 女の子同士なら普通の距離感は、男女だと注目の的になる。

 手すりにもたれたまま悠里を見上げれば、珍しく眉を下げた顔が見えた。


「ごめんなさい。他の人は、なぜか女の子だって気付かないし」

「それは」


 口ごもりつつ話す姿も珍しい。

 ツバサはもっともな悠里の疑問に口を噤んだ。

 神様だか悪魔だか分からない存在に、男に見える呪いをかけられてました。

 なんて、友人が言ったら確実に引く。

 答えないツバサに悠里はちらちらと視線を落としながら言った。


「何か、事情があるんだろうと思って」

「悠里は察しが良すぎるね」


 そして、思い切りが良すぎる。

 女のくせに男の振りをして、悠里に近づいた人間と思われてもおかしくないのに。

 ツバサは大きく息を吐いた。


「じゃ、女の子だって知ってるのに、朝倉との許婚解消してくれたの?」

「ええ」


 わたしの好きな人は、どうやらとても男らしい人のようだ。

 ツバサはためらいもなく言いきった悠里に、どんどん作っていた壁が崩れていくのを感じる。

 念のため、ツバサは首を傾げながら尋ねた。


「朝倉もわたしが女の子だって、知ってたり……?」

「それはないわね」


 あの場所だからわかった、という事でもないらしい。

 あっさりとした悠里の反応に、自分の方がおかしいのかと疑問符が頭を過り始める。

 とうとう直球で聞くくらいしか頭が働かなくなっていた。


「悠里は、わたしが女の子でも良かったの?」

「最初は戸惑ったわよ」


 悠里はわずかに視線を遠くへ飛ばす。

 その横顔は震えていなかった。涼やかで美しい横顔が悠里に焼き付いていく。

 繋がった手の強さは少しも変わらない。


「でも不思議ね」


 ふっと悠里の唇が弧を描く。

 もっと見ていたくなる横顔が、ツバサを振り返った。

 音を立てそうなほど視線がぶつかる。


「ツバサがツバサなら、もう何でもよくなっちゃった」


 そんなのもう、殺し文句じゃないか。

 ツバサは顔に熱が上がってくるのを止めることができなかった。

 頭が沸騰して沈黙したツバサに悠里は気づいていないように言葉を続ける。


「石川さんも転入してくるし」

「石川さん?」


 もう返すだけで精一杯。

 里奈が悠里に何かしたとは思えなかった。

 悠里の視線が鋭くなる。


「ベッタリだし、石川さんもツバサのこと褒めるんだもの」

「いや、それは」

「それは?」


 転入生だし、同じ公立出身だし、里奈自身コミュニケーション能力が高いし。

 そういった言い訳は悠里の圧力に口に出すことさえ憚れた。

 どうやら、あの時から妬いてくれていたらしい。


「なんでもないです」


 ツバサに言えたのはそれだけ。

 どうやら思わぬ形で、海斗と里奈の距離を縮めることに協力していたようだ。

 ぼんやりと思考を飛ばしていたツバサの手を悠里が引っ張った。


「ほら、戻るわよ」

「え?」


 今さら、この格好で?

 その想いが伝わったのか悠里はいつものツンとした表情に戻ると言った。


「男とか、女とか、どうでもいいプロムパーティーを皆してくれてるわ」


 男とか、女とか、どうでもいい、プロムパーティー。

 今日は思いもよらぬ言葉をたくさん聞く日のようだ。

 伝統を重んじるシオン学園でそんなものが開催される日が来るとは。

 もうツバサは苦笑するしかできなかった。

 悠里が少しだけ頬を膨らませた。


「それとも、ツバサは私をクイーン争いに加えない気かしら?」


 ほんと、ずるい。

 悠里はツバサの弱点をしっかりと把握している。

 そんなことを言われたら、逃げたのをなかったことにして戻らないわけにはいかなくなってしまう。


「……クイーンが一番似合うのは悠里だよ」

「ありがとう。嬉しいわ」


 花がほころぶような笑顔。それだけで、なんかどうでもよくなった。

 クイーンが一番似合うのは悠里だとツバサは思っている。

 そして、それを一番見たいのも自分だとツバサは知っていた。

 結局、悠里の隣にいたいだけなのだけれど。


「お、戻ってきたぞ」

「調宮たちのご帰還だ」


 手をつないだまま戻ってきた二人は、生暖かい視線に迎えられた。

 男も女も関係なく、好きなパートを踊り、好きな人と組んだ。

 これ以来シオン学園のプロムパーティには新しい伝統が加わった。

 誰でも、誰とでも、自由な服装で、何も気にすることなく参加できる。

 それが新しい学園の校風にもつながっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る