第2話
プツンとマイクが入る音に、ツバサは現実に引き戻されたように体を震わせた。
今、自分が何をしていたか。それに気づいて愕然とする。
ただひたすら同年代の少女に見惚れていた。
しかも、笑顔ではない。血の気が引いているような壮絶な何かをまとった顔。そんなものに見惚れてしまうなど、どうかしている。
そう思っても、さっきの横顔はちっとも消えてくれなかった。
ツバサは無理やりイメージを振り払うように首を横に振り、悠里に声をかけようとする。
「悠里さ」
その声が届く前に、スピーカーから音楽が流れ始める。これはパーティーのアナウンスを流すときだけの措置だった。
実際のダンスで使う曲を演奏するための楽団も指定された場所に控えている。彼らと曲の打ち合わせをしたのもツバサだ。
どんな曲が流れるか、どれくらいに山場が欲しいか、すべて朝倉と悠里を前提に考えていた。
今更それに気づくほど、ツバサの中でこのプロムパーティーの主役はその二人しかありえないと思っていたのだ。
ツバサと同じようにスピーカーから流れ始めた音楽に皆が少しだけ上を見上げた。
悠里だけ、先ほどと同じ姿勢で固まっている。
「ついに入場だな」
「最初はシオンの王子さまよね」
ついに始まるパーティーに会場がザワメキ始める。
プロムキングとクイーンは本来であれば、誰でも参加できるものだ。だが、学園の催しということを踏まえ、立候補制にしてあった。
もちろん、参加する際のドレスの準備などは自腹になるので参加する生徒は限られてくる。参加しない生徒は気軽なもので、見物を決め込むものがほとんどだ。
「キングは間違いなく朝倉だろうなぁ」
「調宮さんと踊れるだけで羨ましいぜ」
周りの声は聞こえてくるのに、なぜかツバサは悠里に声をかけるタイミングを失っていた。
悠里はこのアナウンスが始まる頃には入場口にいなければならない。
何度も確認した。
彼女自身も覚えているに違いない。
だけど、それでも、悠里はセットされた黒髪を背中に流したまま、候補たちが入場する扉を見つめて目を離さななかった。
(行く気がないのか、行けないのか)
ツバサには判断できなかった。
どうにかそっと悠里との距離を縮める。その動きで、悠里はやっとツバサのことをちらりと見た。
無表情。氷の女帝と呼ばれるようになった理由の一つだ。先程の震える横顔も見間違えだったのではないかと思えてしまう。
だが、確かにツバサは見たのだ。
「プロムキングとクイーン候補たちの入場です!」
会場の熱気を受けたように熱のこもったアナウンスが流れた。
入場口からダンスのためのエリアまで赤い絨毯が引いてある。
毛足の長いこのパーティのときだけ使われる特別なもの。
その上に悠里の海を思わせるような深い青い色をしたドレスは映えただろう。
髪飾りも月をモチーフにした綺羅びやかなもので、人魚姫がそのまま陸に上がってきたら、こうなるのかもしれないとツバサには思えた。
「きゃー」
「かっこいい」
開かれた扉から気合の入った男女のペアが次々と登場する。
ツバサは彼らと、彼らを見つめる悠里を交互に見つめた。
それぞれお揃いの色にしたり、花を飾ったり、趣向が凝らしてある。
基本的に申し込んだ順だが、朝倉と悠里は最後、トリを飾る予定になっていた。
予定通りの人数は吐き出された後、朝倉が現れる。その隣にはしっかりと人影が立っていた。
「あれ? 調宮さんじゃない?」
そして、それが誰か騒ぎ始める。
朝倉の隣にいるべき少女は、ツバサの目の前にいるのだから。
自分のことを言われたわけでもないのに、ツバサの動悸は嫌に早くなった。
わずかに体を小さくして周囲を伺う。いつここに悠里がいるのがバレるのかヒヤヒヤした。
その間にも入場は進み、赤い絨毯の上を我が物顔で朝倉と別の少女が歩いていく。
「おいあれ、石川だよな」
石川里奈。
高等部になったから転入してきた珍しい少女。
肩より少し長いくらいの栗毛とその下の大きな瞳がクルクルと動く活発なっ少女だった。
彼女と朝倉の接近は噂になることはあったが、悠里の位置に滑り込むことなど微塵も想像していなかったツバサにとっては、噂でしかなかった。
現実になって現れても、現実感がない。
悠里の方が億倍キレイで、万倍努力している。ツバサはそう思った。
「嘘だろ? プロムキングとクイーンはコサージュとブレスレットの交換を」
朝倉の胸元にはオレンジの花。里奈の手首には同じオレンジの花をあしらったブレスレットがあった。
対して、悠里の手元にあるべきブレスレットはない。
「そういえば、調宮さん、貰ってなかったな」
「事前から振られてたってことか?」
こそこそと散りばめられる悪意に、ツバサは自分のことじゃないのにムカムカした思いがこみ上げる。
面白おかしく口端だけで笑いあう人たちの誰が悠里のことを知っているというのだ。
チクチクと小さな針に囲まれたような状態の中でも悠里はひたすらまっすぐ朝倉たちを見ていた。
その横顔が赤い絨毯に向かって歩き出し、ツバサは慌ててその手をとった。
「悠里さん!」
「っ」
振り返った悠里は強く、強く唇を噛み締めていた。
何も言わない。言えない。
誇り高すぎる彼女は負けたことを認められない。
それはツバサにとっても同じで、だからこそ、朝倉たちに突撃させるなどという悠里に相応しくないことはして欲しくなかった。
「わかります、わかりますから」
言えることはそれだけ。自分が情けなくなってくる。
曲がりなりにも転入してから、ほとんど同じクラスとして過ごし、生徒会まで一緒だというのに。
悠里に何を言えばいいのかも分からなかった。
「そ、それでは誘いの言葉から始めてください」
会場のザワメキとその原因に気づいたのか、アナウンスが少し上ずる。
その言葉にどこか浮ついていた会場の視線が一気に朝倉たちに集中した。
ツバサは悠里の手をとったまま、悠里を見る。
「里奈」
「はい」
名前を読んだだけで会場がざわりと大きくなる。
朝倉が名前を呼んだことで、里奈が選ばれたことがはっきりしたからだ。
ペアのドレスとタキシード、優しい視線と言葉。
女子の理想を体現したような姿で、朝倉は里奈に向かい手を差し出した。
「俺と一緒に踊ってくれますか?」
「もちろん! 嬉しいな」
里奈は少しの躊躇もなく、なんの影もない笑顔で朝倉の手を取った。
幸せそうに微笑み合う二人は物語のハッピーエンドにいるように見えて、ツバサは蚊帳の外という言葉の意味をこれ以上ないほど実感する。
同じ空間にいるのに、現実とは思えなかった。
「あの噂ほんとだったんだ」
「まさか、ここでこうなるとは」
二人が踊り始めたことで、またザワメキが広がる。
忙しなく悠里を探して多くの瞳が動いた。
ツバサは一歩前に出る。少しでも見たくないものを見ないで済むようにしたかった。
「調宮さんもショックでしょうね」
「でもこれでプロムクイーンも決まりね」
「王子さまと踊っておいて勝てないわけがないもの」
よくもそうズケズケと物が言えるものだ。
ツバサはこみ上げる吐き気を必死にこらえた。
誰よりもショックなのは悠里なのだ。
朝倉をとられ、クイーンになるための練習も発揮さえされず、こんなところにツバサと立ち尽くしているのだから。
「さぁ、皆さんも参加して下さい」
やけっぱちのようなアナウンスが響き、周りで見ていた生徒たちもダンスの輪に加わる。
その中心は朝倉たちだ。
恐る恐る悠里を振り返れば、それより早くバラの香りが隣を過ぎようとして、ツバサは雲を抱くような気持ちで手を伸ばす。
「悠里さん!」
「ツバサ」
人生でこれほど悔しかったことがあっただろうか、とツバサは息を呑んだ。
振り向いた悠里は泣いていなかった。
ただその瞳の奥に怖いくらいの傷を見た気がして、今彼女の手をとってプロムクイーンにできない自分が悔しくてしかたない。
ああ、わたし、悠里さんにクイーンになって欲しかったんだ。
そんな単純なことに、ツバサは今更気付いた。
「なんで」
わたしにはその資格がないのだろう。
そんなことを思った瞬間に、ツバサの視界は白い光に包まれた。
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