第23話 調宮悠里の戸惑い
雨は変わらず降り続いている。
彼の熱が雨に消されるようで、怖くなった。
悠里は急に話さなくなったツバサの身体を揺さぶる。
避けることもできない夏の雨に体温は奪われるばかりだったが、ツバサの異変にそれどころではなくなってしまう。
「ツバサ、ツバサ!」
呼びかけてもピクリともしない。
さっきまでは確かに話をしていたのに。
微睡みに引き込まれるように、ツバサは海斗の足音が消えると意識を失ってしまったのだ。
(いつも、人のことばかり)
ツバサは優先する。それが少し腹立たしく悠里には思えた。
奥に押し込められ、雨が当たらないところにいた悠里は唇を噛み締めながらツバサの体を引きずった。
同じくらいの背恰好のはずなのに重い。
ツバサでこれなら、海斗を支えたツバサはどれだけ重かったのだろう。
芸術祭のときと同じ。ツバサはするりと無理をする。
自分を頼ったはくれない。それが少し悔しかった。
「熱い」
できるだけツバサに雨が当たらないように、自分の上着も脱いで被せる。
冷え切った身体でツバサに触れる。思わず、顔をしかめた。
怪我のせいか、雨のせいか。
ツバサは発熱しているようだった。
「とりあえず」
どうすれば、いいのか。何をするのが最適か。
様々なことが頭を過る。
ハンカチで拭っては絞りを繰り返す。
意識がなくなったからか、ツバサの身体は小さく震えだしていた。
「んぅ……」
わずかに漏れる吐息としかめられた顔だけが、ツバサが生きていることを教えてくれる。
悠里はポケットに手をいれる。
そこには悠里にとってお守りのようなハンカチが入っていた。
だが、今回はこれが騒動の原因になってしまった。
「ハンカチなんて、探しに来なければ」
浮かれていたのだ。
朝、ツバサと一緒に楽しい時間を過ごすことができて、これ以上ないほど、調宮悠里という存在は浮かれていた。
浮かれすぎてハンカチを落として、この様だ。
自分の大切な人を傷つけることは何より辛い。
拭いても、拭いても、冷や汗なのか、雨なのか。
ツバサの体は濡れていく。
(ほんと、女の子みたい)
雨に濡れたせいで体の線がいつもより顕になる。
顔色を失った顔面はまるで美術室の彫刻のように見えた。
線の細い美青年。アルカイックスマイルが似合いそうな中性的な容貌。
ふと海斗に踏まれていた映像が頭を過り、悠里はツバサのTシャツに手をかけた。
「背中、大丈夫かしら」
傷がないか、確認するだけ。
言い訳のように胸の内で呟いた。
雨と泥のせいで元の色から大分変わっているシャツをたくし上げる。
白い肌にほっそりした腰。
そしてその上には白い布が巻かれていた。
悠里はその状態で固まってしまった。
「え……さらし?」
さらし。男の子も使うことはあるだろう。
だけど、わざわざ今、使う意味は分からないし、何より、ツバサの胸は膨らんでいた。
さらしを巻いていてもわかる双丘は悠里も見慣れているものだ。
ツバサの顔と胸を交互に見てから、悠里は息を吸った。
「ごめんなさい」
一息に謝って、そっとさらしの上から触れる。
手のひらに伝わってくるのは、確かな柔らかさだった。
指先が沈み込む感覚に、感電したかのように悠里は手を引っ込める。
「……やわらかい」
しないよりはマシと、ハンカチで体を拭き、すぐにTシャツを戻す。
頭の中はぐちゃぐちゃで、ツバサの熱が移ったかのように茹っていた。
先ほど揺れた指先を見つめる。
それから頭を冷やすように悠里は雨が降り続く空を見上げた。
「ツバサは、女の子?」
ふっとその答えは落ちてきた。
なぜか、なぜ、今まで疑問に思うことさえなかったのか。
悠里自身にもわからないが、女の子だと思ってしまえば、女の子にしか見えなくなる。
「じゃ、なんで」
男の子の振りをしているのか。自分をだましていたのか。
疑問が次々と湧き上がり、黒い感情を悠里に積もらせていく。
『柚木ツバサは調宮悠里の我儘を聞くためにいるんだから』
ふとリフレインしたツバサの言葉と表情。
あれに嘘があるとは思えない。だけど。
揺れる気持ちのままツバサの顔を見つめる。
雨の音だけが響いていた空間に、徐々にざわめきが滲み始めた。
「おーい、大丈夫か?」
「私は大丈夫よ! ツバサが熱を出しててっ」
ツバサを隠すように悠里はどうにか立ち上がった。
上から覗き込んでいるのは、カッパを来た海斗だ。
後ろには鈴木や他の大人の姿も見える。
切り替えなさい。悠里は自分に向かい、そう呟いた。
「今、参ります。少しお待ちを」
「お願い、します」
鈴木が梯子をかけ数人の大人が固定する。
テキパキと道が作られていく様子を悠里はツバサの隣から眺めていた。
ポケットの中でお守りのハンカチを強く握りしめる。
悠里はツバサから視線を離さず、久しぶりに思える朝倉家の別荘まで戻ったのだった。
「ツバサ、大丈夫かしら」
「朝倉家が全力でケアさせてもらう」
別荘に入るとすぐに悠里とツバサは、別々の部屋に連れていかれそうになった。
男女も、重症度も、違うのだ。もっともな判断だろう。
だけれど、ツバサが女だと知ってしまった悠里は、どうしても確かめたいことができてしまった。
「嫌、離れたくない」なんて、自分の人生で言うとは思っていなかった言葉まで口にして、ツバサと同じ部屋を確保した。
(どういう事なのかしら)
そこでの結果は更なる混乱を悠里に齎した。
誰も、ツバサのさらしに気づかない。
いや、気づいているのかもしれないが、女だと思わないのだ。
全身びしょ濡れで泥だらけだったツバサは服を脱がされ、全身を温かいタオルで拭かれた。
流石に下着までは脱がされなかったけれど、見ればわかるし、触っているなら確実だ。
だけど、誰もツバサが女だとは口にしなかったし、男扱いも変わらなかった。狐に化かされた気分だった。
「悠里、君も怪我をしてただろう?」
「ツバサに比べれば軽症だわ」
海斗の言葉に、悠里は唇を引き結んだ。
自分の怪我はねん挫だけ。
発熱もなく、湿布と包帯だけで済んでいる。
だからこそツバサの傍にいることができた。
「柚木は悠里のことが本当に大切なんだな」
「……友達よ」
何とも答えに困ってしまう。
ツバサは大切だ。だけど、今朝と今とで悠里の中のツバサはがらりと変わってしまったのだ。
どうにか答えられたのは、その単語だけだった。
「友達、か。それほど想える友達がいるのは羨ましい」
海斗はそれを別の方に捉えた。
きっと悠里がツバサを好きだけれど、海斗という許嫁の手前、そう言ったと思われている。
だけど、違うのだ。説明はできないし、説明したところで理解してもらえないだろうけれど。
海斗は悠里の混乱に気づかず話を進めていく。
「けれど、あいつはモテるだろ?」
海斗がそう言った瞬間、扉の方が騒がしくなった。
「ツバサくん!」
「柚木、見つかったの?」
紗雪とさくらの声。
どちらもツバサへの心配に溢れている。
苦い。何度目か分からない、感情。
朝だったら、まだ素直に認められただろうか。
悠里にも分からなかった。
「油断してると離れていくよ?」
「あなたには、言われたくないわ」
どの口が言うのか。
ツバサが離れる。紗雪やさくらと一緒にいる。それだけで虫唾が走るほど嫌だった。
海斗の言葉に、悠里は脊髄反射のように反論していた。
海斗は悠里の剣幕にも驚くことなく、にっと笑った。
「俺は、柚木ほど君を大切にできない」
知っている。これはあくまで家同士の約束。
お互い、良い子ちゃんなだけなのだ。
悠里は海斗を睨むように見上げた。
「君も、そうじゃないか?」
その問いに対する答えを悠里は持ち合わせていなかった。
ツバサが女の子だったとして、少しも消えてくれない執着を、悠里はどうしてよいかの持て余していたのだ。
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