第36話 夢からさめて
最初の白とは違う。黒一色の世界に、ツバサは上も下もなく浮いていた。
かろうじて自分の体の輪郭は見ることができるが、それも曖昧で。
さっきまで確かに握っていたはずの悠里の体温がないことが何よりも寂しい。
自分以外に唯一存在している青髪の彼に、ツバサは唇を引き結びながら、尋ねた。
「時間切れ……?」
「その通り」
彼はやはり大きくなっていた。
身長はすらりと伸び見上げなければならない。
それでいて中性的な雰囲気は、そのままに彫像のような美貌をさらす。
口元に愉快そうな笑顔さえなければ完璧なのにと、ツバサは会うたびに思っていた。
じわりと滲んでくる焦燥感に蓋をするように青髪に詰め寄る。
「どういうこと? なんで、今、解けるの?」
「純粋に魔法が解ける時間だからだよ」
魔法。ツバサにとっては呪いだったけれど。
女でしかないツバサをずっと男として見させてくれたのだから、魔法なのかもしれない。
男として見られているからこそ、ツバサは悠里にすんなり近づくことができたのだから。
「シンデレラだって、時計の鐘が鳴るまでしか魔法はかからないよね?」
「悠里を助けるための時間は終わったってこと?」
ツバサの言葉に、青髪は不思議そうに首を竦めてみせた。
シンデレラで思い浮かぶのも初等部の悠里の姿で。
こんな時でも悠里を好きすぎる自分にツバサは呆れてしまう。
「君の願いは、調宮悠里をプロムパーティで悲しませないこと。そのためには一番楽な方法だったでしょ?」
確かにツバサの願いは叶えられた。
悠里の震える横顔を見ることはなかったし、あの姿を上書きできるくらい美しい姿を目に焼き付けることができた。
だけど、口惜しさが漏れていく。
「なら、なんで」
最後まで男でいさせてくれなかったのか。
せめてプロムパーティが終わるまで男でいさせてくれたら。
そうしたら、完璧な状態で悠里のプロムパーティを終わらせることができた。
そしたら、悠里をクイーンにすることだって、できたのに。
頭に浮かんでは消えていく願いを青髪が一蹴した。
「巻き戻した分しか魔法はかけれないんだよ」
なんて現実的。なんて合理的。
魔法と正反対に位置するような理性的な言葉にツバサは唇を噛んだ。
ツバサが初等部に戻ったのは、パーティが始まってしばらくした時。
キングとクイーンを決めるためのダンスが始まって少し経ったくらいだった。
海斗と里奈に突撃しようとした悠里を引き留めたのをツバサは覚えている。
「まぁ、良かったんじゃない? 調宮悠里は悲しんでない。君はあの横顔を見ないで済むし、彼女が死を選ぶこともない」
淡々と告げる声は、冷え冷えとして聞こえた。
そう、それはそうなのだが、どうしても釈然としないものがくすぶってしまう。
ツバサの様子に、彼は口角を大きく釣り上げた。
「それとも、それ以上の望みが柚木ツバサにはあったのかな?」
「それ以上の望み……?」
青髪の言葉をツバサは繰り返した。
それ以上、ツバサが悠里に求めることがあるか。
隣に立って、パートナーに選んでもらって、全ては男という前提だったとしても贅沢になってひまうのではないか。
ぐるぐると頭の中が混迷を始める。
そんな人間のことなど知らないと言うように、彼は大きく手を広げた。
「僕は満足してるよ。だって、大きな幸福と絶望を集めることができるからね」
幸福と絶望。
そうだ。青髪の目的は人を幸せにすることじゃない。
最悪。ツバサのの呟きは届くことなく、彼の姿は消えていく。
パッと電気がついた。
一瞬で戻ってきた光に、視界がハレーションを起こす。
目を細めていたツバサの焦点が合い始めると、こちらを見つめる悠里と視線がぶつかった。
「ツバサ……?」
「悠里」
悠里の反応は変わらない。
急な停電に首を傾げているが、その視線に変化はなかった。
だから、大丈夫かとツバサは一瞬安心してしまったのだ。
「停電?」
「なんで、柚木は男装しているんだ?」
音楽も止まっている会場では、様々なものが注目を浴びる。
ざわざわとした人の囁やきが少しずつ増え、その中の決定的な一つがツバサの耳に入った。
心臓が大きく音を立てる。
(マズい、バレた……)
いけるかと思ったのだ。
初等部から十年近く、男として過ごしてきた。
男としてついていくためにも、体を鍛えたり女の子っぽくならないようにしたり。
そういった積み重ねがあったから。
だが、魔法が解けたツバサは、ただ男の振りをしてダンスホールに立っている人間になってしまった。
「男装……?」
皆の呟きに悠里が呆気にとられたように呟く。
悠里は気づいていなかった?
なら、今気づいてしまったら。
ツバサの中の恐怖が膨らむ。無音の世界で、走る心臓の音だけが轟轟と鳴っていた。
「柚木、どういうことかな?」
「柚木くんって、柚木ちゃんだったの?」
男も女も、知り合いも知り合いじゃない人も。
全部の視線が自分に突き刺さる気がした。
困惑、戸惑い、からかい。そういった類の感情が場に溢れ始める。
ツバサはたじろぐように一歩下がってしまった。
「なんで男だと思ってたんだろ?」
「よく見れば線も細いし、髪は短いけど女の子だよね」
さざ波が集まれば大波になるように、ツバサへの視線も徐々に大きくなり始める。
好奇の視線が痛いほど注がれる。
元から目立つ場所に立っていたのも災いした。
「調宮さんは知ってたのか?」
「調宮さんと踊りたくて、男のフリしてたんじゃない?」
ついに話題は悠里にまで飛び火した。
図星をつかれる内容に、ツバサは大きく肩を跳ねさせた。
しまった。女のわたしには、やはり悠里の隣にいる資格は与えられていなかった。
「え、マジで?」
「ち、ちが」
驚いたような誰かの声に、ツバサは反射的に否定の言葉を出していた。
悠里と踊りたかったのは本当。男のフリをしていたのは、自分の意思じゃない。
「ツバサ?」
「悠里」
ツバサが上げた声に、一番反応したのは悠里だった。
名前を呼ばれただけ。
その声に含まれたものが分からない。
顔を見るのも怖い。もしそこに侮蔑の色があったら、ツバサは耐えることができない。
「ご、ごめん!」
駆け出していた。
悠里の顔を見ることもできず。
人混みの少ない方へ走り出す。
「え」
悠里の呆気にとられた声が背中に刺さった。
振り向けない。ひたすら床とドレスの裾を見て走る。
「逃げた」
「パートナー放って逃げるって」
走っている間もツバサへの好奇の視線は消えなかった。
痛い。苦しい。消えてしまいたい。
悠里の隣にいる資格なんて、なかったのに。
「調宮さんも色々準備してたのに」
「騙されてたなんて可哀想」
唯一、幸いだったのは、悠里を責めるような言葉がなかったことだった。
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