第15話
ツバサは縁側で涼むように大きく息を吐いた。
すっかり日が暮れた時間帯、目の前には池があるはずなのだが、暗闇に飲み込まれている。
道場からの明かりで池の縁に置いてある石だけが辛うじて見れた。
「あっつ……」
まだ春先だが既に桜は青々とした葉をつけている。
動けば汗が滴る。
これだけ動いても、まだ足りない。
汗が引くまで休んでいるように言われたツバサは、星の見えない空を見上げた。
「傷、どう?」
「今はすっかり……元々、擦り傷だしね」
静かに呼びかけられた声にツバサは答えた。
初等部から始めた合気道は、やっと体に馴染んできたところだった。
しかし、小さい頃から続けている紗雪にはとても適わない。
道場にいる紗雪は学校で見る姿より、大人っぽく、自身に満ち溢れているようにツバサには思えた。
「紗雪ちゃんの家で合気道教えてもらってて良かったよ」
男子と絡んで転んでも、大きな怪我一つないのは稽古のおかげと言える。
元々体格差があることを前提にして選んだのは正解だった。
紗雪が小さく微笑んだ。
「ツバサくん、すごく上手になったもんね」
「受け身って大切だよね」
いくら投げ飛ばされても受け身を身に着けてからは痛くない。
痛くなさすぎて投げられたのにも気づかないくらいだ。
まだツバサは人を上手く投げることはできないが、紗雪が自分より大きな男性を投げているのは爽快な気分になれる。
「紗雪ちゃんみたく、上手に力を伝えられるようになれればいいんだけど」
「わ、わたしはこれだけだし」
羨ましいと、純粋な憧れを半々にして紗雪に伝える。
今の自分では何もできないとツバサはわかっていた。
特に海斗という王道の正解を見てしまってから、その想いは深まるばかりだった。
「ダンスとかならツバサくんの方が上手じゃない?」
慰めてくれるのか、紗雪が隣に座りながら話を続けた。
ダンス。体育の授業で取り入れられている演目だが、創作ダンスではなく社交ダンスなのだ。
使うことが多いからという理由らしいが、シオン学園以外で使うところがツバサにはちっとも想像できなかった。
「あー、あれは背がないから、カッコがつかなくて」
「そ、そんなことないよ」
ツバサは当然のように男性パートだ。
社交ダンスではリードする側になるのだが、組む相手によっては、相手のほうが大きくなってしまう。
それでも上手い相手なら、リードされてるように踊ってくれるのだが、そんな人物はクラスに数人だ。
紗雪とは何度か組んだことがあったが、踊りやすいとツバサが感じている相手の一人だった。
「そう? ありがとう」
褒めてくれる紗雪に照れながらお礼を伝える。
ちなみに悠里はリードされてるように踊れる女子の一人だが、褒められたことは皆無だ。
さくらのように指摘しないだけ優しいのだろうかと考えて、ツバサは紗雪に話を振った。
「ダンスといえば、小野寺、この頃気合入ってるよね」
「なんか、発表会があるみたい」
「なるほど」
ダンス命で負けず嫌いなさくらなら気合も入るわけだ。
やっと汗が引いてきたツバサの後ろから、声がかかる。
返事を返して紗雪と連れ立って、道場の中に戻った。
寝耳に水な情報が海斗から齎されたのは、中学校の昼休みだった。
今日も悠里は教室に現れない。
この頃、なにか立て込んでいるらしく、朝の登校時間帯以外は会話することも難しくなっていた。
「発表会?」
「うん、悠里から聞いてないかな?」
もそもそとお弁当を取り出。机の上にそれだけが乗っている状態は少し寂しい。
と、そんなことを感じる間もなく、海斗がやってきたのだった。
お弁当が包まれる袋を開けていた手を止めて海斗を見上げる。
相変わらず、王子さまのように隅から隅まで整っている。
笑顔の海斗にツバサは唇を真一文字にしたあと答えた。
「この頃、忙しそうだから」
「そう。俺は許婚だし、招待受けてるから」
「へぇ、良かったじゃん」
わざわざ、それを言いにくる意味はわからないけれど。
止めていた手を動かす。
お腹も減ったし、この会話で期限も急降下中だった。
会話も終わりかと思ったら、海斗が去る動きを見せない。
「君のことだから誘われてると思ったよ」
なんだ、嫌味か?
思わずそんな言葉が浮かんだ。
悠里は基本的に最低限の連絡しか寄越さない。
それは単純に忙しいのと、こちらを気づかっている部分が大きいのだ。
今までツバサが苦手そうな顔をする発表会だのパーティーだのに誘われたことはなかった。
「いや、聞いてないかな」
「そうなんだ。一緒に行こうかと思ったのに」
首を横に振る。
お弁当はご開帳目前まで解かれていた。
あとは手を合わせて、いただきますを言うだけだ。
と、やっと自分の席へ戻ろうとした海斗に一言だけ言葉を投げかける。
「悠里のこと、よろしくね」
すべて、それだけ。
ツバサは自分のいけない場所での悠里のことを頼んだ。
海斗が悠里を大切にしてくれていれば、自分はここに男として存在していない。
「ああ、任せといて」
口端だけで綺麗に微笑んでみせた海斗。
その顔はやっぱり上に立つ者の風格を感じさせるものだった。
「で、この男は結局、何に悩んでるのよ」
「別に悩んでないから」
放課後、机に手をついて外を眺めていた。
今日も悠里は授業が終わると一直線に帰宅した。
海斗が言っていた発表会の準備なのだろう。
華道から日舞まで悠里の習い事は多岐に渡りすぎて、なんの発表会なのかを考えることも難しい。
よほど呆けていたのか、教室に入ってきたさくらに開口一番そんなことを言われてしまう。
ツバサは少しだけ背筋を伸ばした。
「そんなにグデっとしてるのに?」
「……そう見える?」
「見える」
間髪入れない返事にツバサは笑うしかない。
さくらの歯に衣着せぬ物言いは、シオン学園では目立ってしまう。
だが、変に隠したり、裏で動かれるよりは付き合いやすい。
まして今のツバサは男として見られている。
中等部になっても変わらず話しかけてくれる女子の存在はありがたかった。
「さ、さくらちゃん」
紗雪が慌てたようにさくらの制服の裾を引く。
だが、さくらがそれくらいで止まるわけもなく、ツバサは悠里と海斗の話をほぼ全て聞き出されることになった。
「はぁ? 発表会に誘われてない? そんなことで悩んでるの?」
「だから、悩んでないって」
ツバサの前に椅子を引っ張ってきたさくらは横に座りながら、頬杖をついた。
その顔に浮かんでいるのは呆れたを100倍煮詰めたような表情だ。
気になることがあれば聞く。
主役がしたいなら、ライバルになりそうな子の下に突撃する。
そういう果敢さを持ったさくらには塵ほども理解されなそうだ。
紗雪はツバサとさくらの顔を眉を下げて交互に見つめている。
「ふーん、調宮のには連れていけないけど、あたしので良かったら来る?」
「小野寺の?」
さくらが紗雪をちらりと見ると、ツバサに言い放った。
予想外の言葉にツバサは目を丸くして聞き返す。
くるくると髪の毛先を指先に巻き付けながら、さくらは続けた。
「紗雪も誘ってるから、一緒に見に来ればいいわ」
さくらの言葉に紗雪を見れば、視線を向けられたからか、少しだけ頬を赤くした紗雪がいた。
さくらを見る。呆れ具合が少しだけ和らいで、仕方がない人間を見るくらいになっていた。
紗雪が囁くような声で誘ってくれる。
「ツバサくんも一緒なら、嬉しいな」
「……場違いじゃない?」
シオン学園の生徒が行う発表会を単純に考えてはいけない。
招待制のところからも想像できるように、発表会といいつつ懇親会が大抵ある。
そして、保護者はそちらメインで考えているような人も多かった。つまりは社交に近い。
社交。ツバサの苦手分野だ。
華やかな場所で見知らぬ人と話すことに、どうしても尻込みしてしまうのだ。
「大丈夫だよ」
紗雪がツバサの苦手意識を汲み取ったのか、優しく微笑みながら答えてくれた。
対するさくらは、大きくため息を吐いたあと、ツバサに念を押すように告げた。
「場違いにならない格好で来なさいよ」
「はーい」
場違いにならない格好が、どんなものか。
家で相談しなければならないだろう。
軽く返事をしたツバサにさくらは声を低くした。
「紗雪のこと、エスコートするのよ?」
「……はい」
ドスの利いた声にツバサはこくこくと頷く。
紗雪はただ嬉しそうに笑っているだけだった。
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