第14話 傷と手当
まだ春先だと言うのに、ギラギラとした日差しがグラウンドに突き刺さっていた。
照り返しの日差しだけで痛いような気分になる中で、悠里は男子に混ざりサッカーボールを追いかける。
クラスのチームワークを深めるために球技をする。
そんな慣習をツバサは恨みたくなる。
「っ」
暑い、息が苦しい。その上、ボールを奪われる。
滑り込むような動きをツバサは見ることもできなかった。
慌てて止まったせいで前につんのめる形になった。
「ごめんね、柚木」
土煙の向こう側でも、その声の持ち主が誰かは一目瞭然だった。
すぐさまツバサの下から喧騒が離れていく。
顎先まで滴った汗をツバサは手で拭った。
じんじんする膝はわずかに血をにじみ始めていた。
「はぁ、すごっ」
「ドンマイ、柚木」
息を整えようと立ち止まったツバサの隣をクラスメートが通り過ぎていく。
軽く肩を叩く彼は汗の一つもかいていない。
それを体力の差とみるか、授業への必死さの違いとみるか。
どちらにしろ自分が置いていかれていることに変わりはない。
ツバサはジワリジワリと見え始めた男女差に唇を噛んだ。
「朝倉に取られても気にすんな!」
あの後、すぐに海斗がシュートを決め、ホイッスルが鳴った。
クラスメートたちは口々に声をかけてくれる。
痛みが強くなってきた膝にツバサはジャージでグラウンドを見回す体育教師に声をかけた。
「すみません、保健室行ってきます」
「一人で大丈夫か?」
「はい」
歩けないわけでもない。
むしろ一人になりたい気持ちの方が強かった。
試合はまだ続けるようだ。海斗たちがボールを片手にこちらを見ていた。
それに気づいた教師がホイッスルを手にする。
「チャイムが鳴ったら、そのまま教室に帰っていいからな」
「はい、ありがとうございます」
ピーッと甲高い音が響くのを聞きながら、ツバサは傷口を洗うために水道に向かった。
体操着をまくり上げ、皮が擦りむけている部分を洗う。
水の冷たさに頭が少し冷える。
あらかた綺麗になってからツバサは中に向かった。
「失礼します」
じんじんしてきた膝を庇うようにゆっくり歩いていたら、保健室に着いたと同時にチャイムが鳴った。
次は昼休みだ。人が溢れる前に目的地にたどり着けて良かった。
ホッとしたツバサだったが、扉を開ければ人はおらず、不在の立て札が置いてあった。
「不在」
ふぅとため息を零しつつ、自分で消毒の準備を始める。
男に見られるようになってから保健室にはよく通う羽目になった。
男と女の違いというか、活発なわけではないツバサでも生傷は絶えず。
悠里に呆れたように付き添われながら、保健室で処置してもらった。
そんな懐かしい想い出が頭の中を過ぎり、目頭が熱くなるのを誤魔化すように、ツバサは傷口に消毒液を振りかけた。
「つぅ、しみる」
シュワシュワと泡が消えていく。
垂れた分だけ拭き取り、染み込むのを待った。
ツンと消毒の匂いが鼻をさし、ツバサは特徴的な紋様の天井を見上げた。
「朝倉はすごいなぁ」
独り言は静かな保健室に染み込んでいく。
彼のスペックの高さは知っていた。
生徒会長で、全校生徒の尊敬を集める人物だったのだから。
ぼんやりと保健室の床を見つめていたら、戸が開く音がして、ツバサはそちらを見た。
「ツバサ?」
「悠里? どうしたの?」
入ってきた人影にツバサは驚きの声を上げた。
悠里は一直線にツバサのもとへスタスタと歩いてくる。
その姿は具合が悪そうにも、怪我しているようにも見えなかった。
目の前に来た悠里は血が滲む膝に視線を落とした。
「教室に行ったらいないから、宮本くんが教えてくれたわ」
ああ、そういえば、もう昼休みだ。お昼は一緒に食べているが、わざわざ迎えに来てくれることは珍しい。
よくも悪くも、調宮悠里という人は目立つのだ。
申し訳なさに下手な笑顔を浮かべながら、ツバサは怪我した足を少し上げた。
「転んじゃって」
悠里の表情に変化はない。
その無表情の下で、悠里が心配しているのをツバサはわかっていた。
「珍しいわね、この頃、怪我なんてしなかったのに」
「あはは……」
悠里が僅かに眉をしかめた。
ツバサは苦笑するしかない。
男として生活を始めた頃は怪我ばかりだった。
その時期を共に過ごした悠里だからこその言葉だ。
悠里はツバサの前に椅子を持ってくると手を伸ばした。
「貸して」
「え?」
キョトンとツバサは悠里を見つめ目を瞬かせる。
何を貸せばいいのか分からなかった。
悠里はそんなツバサを放って、脇に置いてあった消毒液たちへ視線を投げかける。
「先生、いないんでしょ? やってあげる」
「えぇ、いいよ。お昼だし、ご飯先に」
場所は膝で、手も届く。大した傷でもないし、忙しい悠里には自分のことをして欲しかった。
悠里はツバサの言葉を途中で遮り、名前を呼んだ。
「ツバサ」
頑なに動かない悠里の姿に、ツバサはすぐに降参した。
準備していた一式を渡し、処置しやすいように少しだけ体を寄せた。
ふわりと悠里から花のような、それでいて甘すぎない香りが漂ってくる。
「はい、はい。優しくしてね」
「もう」
汗臭くないかな、と過った想いを打ち消すように、ツバサは悠里に軽い口調で言った。
悠里も唇を少し尖らせつつ、手を動かす。
「中等部になって、どう?」
「んー、朝倉って凄いね」
悠里が傷口に集中していた。
何となく上から見下ろすのは気まずくて、保健室の中をうろうろと視線を彷徨わせる。
海斗の名前が出たことで悠里の手が一瞬止まったが、すぐに動き出す。
「海斗くんは、何でもできるもの」
「悠里から見ても、そうなんだ」
視線を合わすことなく会話を続ける。
二人だけの空間に、昼休みに入った廊下の喧騒が遠い世界のように聞こえた。
ツバサの言葉に悠里は刹那、顔を上げすぐに戻す。
「ツバサが張り合う必要はないと思うわ」
「あはは……そうなんだけど、ね」
海斗と張り合えるとは思っていない。
能力的にも家柄的にも、持っているものが違いすぎる。
それは同じ男として扱われることでよりはっきりしていた。
だけど、少しでも背伸びしたくなるのは、きっと悠里を知ってしまったからなのだ。
「私も小さい頃からよく言い聞かされてたわ。海斗くんのようになりなさいって」
「へえ」
悠里の口から海斗の話を聞くのはこれが初めてだった。
思ったより昔から交流があったようだ。
まぁ、許婚なら当然かもしれないが。
そんな想いが自然と口から流れていってしまった。
「羨ましいなぁ」
「え?」
驚いたようにツバサを見る悠里に、やっちゃったと苦笑する。
どうにか誤魔化すために言葉を続けたーーそれが悠里にどういう反応をもたらすか、ちっとも考えていなかったのだけれど。
「確かに、悠里と朝倉はお似合いだね」
「っ」
「いたいっ、痛いって!」
言った瞬間に悠里の表情がわかるほど歪む。
驚きと不快を混ぜ込んだようなそれ。同時に消毒していた綿球を強く押し当てられ、軽く足が浮く痛さが走った。
ツバサの叫びに悠里は慌てて力を緩めてくれた。
「あら、ごめんなさい」
少し視界が滲んでいた。痛みで目尻に溜まった涙を指で拭う。
こんなに悠里が動揺するところを初めて見た。
嬉しいわけではなさそうな顔に、ツバサはおずおずと尋ねる。
「お似合い……嫌なの?」
もし、そうだとしたら、ツバサは大きな方向転換をしなければならない。
悠里は海斗と一緒に踊りたいと、プロムパーティーを過ごしたいと思っていたから。
「釣り合うよう、努力していたわ」
悠里は淡々とした口調で答えた。
消毒していた手は進み、大きな傷パットを当てられる。
慣れた手つきで、そっと押し当てられたところで、悠里は動きを止めた。
「でも、今になって」
「ツバサくん、大丈夫……あ」
ふたりの視線が絡み合い、音が消える。
悠里の答えを待っていたら、戸を開ける音とともに闖入者が現れた。
「紗雪ちゃん」
紗雪は中に入った瞬間に状況を察したらしく、一歩引いた。
それでも後ろの扉は静かに閉められているあたり、育ちの良さを感じる。
「ご、ごめんね。中々、教室に帰ってこなかったから」
「心配かけて、ごめんね」
申し訳無さそうに謝る紗雪に、ツバサは微笑んで首を振る。
その間に悠里は使った道具を片付け、立ち上がっていた。
「はい、終わり。今日は一緒にお昼食べれないから、それを伝えに来たのよ」
「え、そうなんだ」
「ええ」
残念な気持ちを伝える間もなく、悠里は入口に向かった。
さっきまでの言いかけた言葉はもう聞くことができないだろう。
悠里は紗雪の側によると僅かに口元を和らげる。
「星野さん、わざわざありがとう。これからも、よろしくね」
「う、うん」
それだけを言って、悠里は保健室から出ていった。
ツバサは手当してもらった部位に注意しながら体操着を下ろす。
先ほどよりは痛くない。
傷自体というより、悠里と話せたからだろう。
現金な自分が仕方なくて苦笑する。
「なんか、ごめんね。ツバサくん」
「気にしないで」
悠里の代わりに中に入ってきた紗雪が申し訳無さそうに頭を下げた。
ツバサは紗雪にむかい小さく首を振り、教室に戻ることにする。
悠里の後ろ姿が目に焼き付いて離れなかった。
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