夏⑧
ガチャリ。
その音が鳴った時、僕たちは思わず顔を見合わせた。そして、立ち上がると少し早足で玄関まで向かった。
「…なんだ、奏か?」
「…父さん」
玄関の開く音と共に我が家へと帰ってきたのは、確かに僕の父親だった。ツヤとハリのあるスーツ。そして、精悍さの中に疲れが浮かんだ顔。
何も変わらない。まるで、ハウスキーパーが整頓したこの家と同じだった。
「久しぶりだな…その子は?」
父は、僕の横に佇む湖凪さんに多少なりとも驚いたようで、目を丸くさせながら尋ねる。
「どうも、初めまして。佐藤湖凪といいます。こんな深夜にお邪魔してすみません。奏…くんとは仲良くさせて貰っていて…」
「ああ、構いませんよ。元々誰も居ないような家です。どうか、ゆっくりしていってください。奏、分かっていると思うがこんな時間に自宅へ帰すならきちんと送り届けなさい」
「あ、ああ」
父は靴を脱ぎ、曖昧に頷く僕の前まで来ると肩を一つ叩いた。気づけば、背丈はほとんど差異を感じられないほど近かった。
「最近、振り込んだ金がきちんと使われている様子だったが、そういうことだったか。大切にするといい。私が言えた義理じゃないがな」
「お金の動き…見てたんだ」
「はは、何を言ってるんだ。お前の家賃と生活費を毎月律儀に振り込んでるのは誰だと思ってる。一度も遅れたことなんてなかっただろう」
何も言えなかった。それは、戸惑いと驚きが混ざった感情が口を塞いだからだ。お金を父自ら振り込んでいるとは思わなかったのだ。てっきり、ハウスキーパーにでもさせているものだと思い込んでいた。
「まあ、まともな父親らしいことはしてやれんかったからな。せめて金くらいはと思ってな。だが、家賃以外全く減らないから少し驚いていた。使う機会ができたら何よりだ」
「…ありがとう」
父は薄く微笑むと、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを慣れた手つきで外す。そして、どうしたらいいか分からない僕をもう一度見て、視線を隣にずらした。
「佐藤さんといいましたか。親失格の言葉だとは思いますが、どうかこいつをよろしくお願いします」
「…はい」
最後にそれだけ言うと「少し疲れてまして、失礼します。ごゆっくりしていってください」と父は二階へと消えていった。
僕達が何も言えないだけの沈黙を抱えているうちに、二階からは物音一つ聞こえなくなった。
リビングへ戻った後、薄くなったアイスコーヒーを飲み終えてシンクに浸すと家を出た。玄関の閉まる音には気をつけた。日付を超える前のことだった。
夏風が沈黙を吹き飛ばせないまま、駅前までの道を辿った。手は繋いでいなかった。湖凪さんも、何か考えているみたいだった。
駅の灯りを目の前にするまで、ずっとそうしていた。車一つない駐車場を通り抜け、階段を上がって改札に向かおうとしたら、袖を引かれた。
「ねえ、奏。やっぱり、奏の中学校行こうよ」
「でも、終電…」
「タクシー呼べばいいよ。それに、ちょっとだけだから」
例の如く僕は言うことに逆らわず、駅の裏手側へ向かった。踏切を越えて、少し山の方へ。緩やかな坂道を登っていくと、古ぼけた校舎が見えた。
田んぼからは、カエルの声がする。けれど、それ以外は何も無かった。当然、門は閉ざされ、校舎には微塵も明かりが点いていない。
「特に変哲もないでしょ?」
「うん。でも、まだ玄関口じゃん」
「へ?」
湖凪さんは、言うが早いか長いスカートを翻して、門をひょいと飛び越えてしまった。唖然としていると、境界線の向こうでドヤ顔が手を振って待っている。
どうか、卒業生ということを話せば許されますようにと祈りながら、僕も門を飛び越えた。
来るはずもない来訪者に驚いたのか、近くの木から蝉が鳴いて飛び去った。どこへ行くのだろうか。
奇しくもそれは、まるで勝手知るかのように敷地内を進んでいく、湖凪さんの後ろ姿に思っていることと同じだった。
「プール…流石に閉まってるよね」
「プールに入りたいの?」
「うん、暑いから、残念。実はネタバレだけど、アドベントカレンダー、八月分にプールに行きたいって書いたんだ。まだ出てないから、きっと近日中に行くことになるよ。」
僕は深夜でも入れるプールを探しておくことを決意した。
「でも、なんだかいい気分。私を知らなくて、私も知らない奏は、ここで中学生してたんだね」
「本当に、ただ通ってただけだよ」
「この時から、死ぬことにしてたの?」
「そうだよ。でも、勇気がなくて死ねなくて。ずっと言い訳ばっかりしてた。もう一度桜が見たい。夏祭りの景色が見たいってね」
その言い訳が尽きた夜、僕はあなたに出会ったんだ。色の無い真っ黒な海の反対側を見れば、真っ黒に色付いたあなたがいた。
「じゃあ、今はもう言い訳はないんだ」
「ないよ。湖凪さんっていう理由があるだけ」
そう答えると、湖凪さんは空を見て笑った。笑い声もなかったけど、確かに笑った気がした。
「ね、まだ終電に間に合うね。駅に戻ろう」
「…そうしよっか」
湖凪さんが見上げていた空では、やけに光る月が僕達を見ていた。
駅に戻って電光掲示板を見ると、電車は十五分後だった。その時刻以降の電車は表示されていない。終電だ。
誰もいない駅のホーム。ベンチに並んで座る。きっと何か話すことがあった。けれど、蛙の大合唱が、なんと無くそれを許さなかった。
やがて、蛙の息継ぎの時間に、不思議なほどの一瞬の静寂の合間を縫って、湖凪さんの声は響いた。
「ねえ、奏」
反対側へ向かう、電車の来訪を告げるアナウンス。遠くで踏切の音がした。けたたましくもあるそれをかき消すように、彼女は言った。
「あなたが好き」
その言葉が鼓膜を震わせて、意味となって体に馴染むのに時間がかかった。そして、馴染んでしまえば、それは筋弛緩剤のように僕の体を硬直させた。
到着する列車。それが去っていくまで、僕は動けないでいる。
「嘘じゃないよ、何よりも本当。あなたが好き。臆病な私に勇気の言葉をくれるところが、お母さんの味を思い出させてくれるところが、ずるい私が抱きしめても全部許してくれるところが、残りわずかだけど、命を背負ってくれるところが…大好き」
あんなにも眩しかった月光が、雲に覆われたのか、徐々に地上に届かなくなっていく。
「だからこそ、いつも奏を見てるから分かるよ。最近、ずっと何に悩んでるの?」
「それは…」
見抜かれていた。僕の薄っぺらい虚勢など。火照った顔から、熱が失われていくのを感じる。
「真美に言われたこと?」
その真っ黒な瞳に、見抜かれているどころか見透かされているのだと知った。僕は観念して、ポツポツと言葉を選んで心中を空気に晒す。
「真美さんに言われてから、ずっと考えてた。僕は、湖凪さんの何なんだろうって。何になりたいんだろうって」
ずっと迷路の中にいる夏だった。未だ答えは出ない。熱に浮かされて、頭が働いていないのだろうか。
「私は奏にとって何なのか…か。確かに、この世に二つとない状況かもしれないからね」
湖凪さんは、後ろ手を組みながらフラフラとホームを歩く。揺蕩うスカートが夜に紛れて、ブーツのヒールが鳴らす不規則な音と絡んで意識をクラクラさせた。
「でもね、奏。何かになる必要はないよ。まだ、引き返せるよ」
「何を…」
「もう一度言うよ、奏。私はあなたが好き」
「僕は…」
何を言おうとしたんだろう。そんなことも分からないまま、口走ろうとした言葉を、口を抑えて制された。
「その先は、まだ言わないで。まっさらな奏になってから、また聞かせて?」
「まっさら…」
「私はね、出会ったクリスマスの日。正直、誰でもよかったんだ。きっと、あそこに立っていたのが奏じゃなくても、私は声をかけて、一緒に生きてってお願いしてたんだと思う」
闇夜の中で風に吹かれて揺れる稲穂達に、漣を立てる海を幻視した。あの始まりの場所を、想った。
「でも今は奏じゃなきゃだめ。短い余生だけど、奏と以外は嫌なんだ」
終電を告げるアナウンスが鳴った。きっと、もうすぐ迎えが来る。また聞こえる踏切の音。
「でも、それは私のわがままだから。奏に選んでほしいの」
湖凪さんはそう言って僕に近づくと、腕に巻かれた腕時計を外した。彼女といる時は、肌身離さず持っていた誕生日プレゼント。
「あの時あげたマフラーはないから、代わりにこれを。これで、私が入れた投票は一旦無効ね」
あなたのために生きて、あなたに殺されるという、僕が生きるための免罪符。出会った日にあなたから与えて貰ったもの。それが、少し腕が軽くなる感覚と共に失せていった。これで僕は、あの日の、ただの生きる理由のない死ぬ直前の僕だ。
「これで、奏はまっさらだね」
寂しそうに。祈るように。そして、少し何かに縋るような顔で湖凪さんはそう言った。
「例えば…うーん、私に付き合ってるせいで学業方面やばそうだから、一浪くらいはするのかな?それでも、大学に入るの。薬学部はやめといたほうがいいよー、退屈だからさ。バイトして、暇があったら実家に顔を出すの。きっと、あのお父さんならきちんと話せば分かり合えて、少ないながらも家族の時間ができるよね」
いつか僕が想像した、湖凪さんが病気にかからずに僕と出会わなかった世界。それによく似た、湖凪さんのそばにいない僕の未来。
「大学三年生くらいかな?ちょっとだけ、私のことが忘れられない日々の中で、素敵な人と出会って。就職して、同棲して。社会人三年目くらいで、結婚して。元気な子供にも恵まれて、年老いていって。あの独りの海とは真反対の、温かなベッドで家族に看取られながら死んでいくの」
それは、まっさらな僕にならあり得てしまう、温かな未来。でも、どんなに望んでも湖凪さんには訪れない、残酷な未来。
「私と出会ってから少し変わった奏なら、私の何かじゃなくても、まだ何者にでもなれるよ」
月明かりが、より一層弱くなって。僕は、湖凪さんがどんな顔をしているのか確かめられない。確かめようとしない、自分の臆病さが嫌だった。
「お父さんにとっての、孝行息子。誰かにとっての、素敵な恋人。誰かにとっての、威厳ある父親。社会にとっての、欠かせない人」
誰かにとっての未来の僕。湖凪さんはそれを、指折り数える。指一つ一つの先に何かを見ているように、慈しみながら。
「そんな、今の奏に待ってるかもしれない普遍的な幸せ。きっと、今の奏なら私以外にも、君が生きる方に票を入れてくれる人が現れるよ」
遠くから、踏切の音が聞こえた。僕らの最終列車がやってくる。
「それを捨てて、私に殺されてくれる?私と手を繋いで、一緒に向こうまで逝ってくれる?偶然出会って票を入れただけの私と」
湖凪さんが、数えた幻想を爆ぜさせるように手を開いてそう言った時、眩いヘッドライトと耳障りなブレーキ音を伴って、列車がやってきた。
「私には時間がないから。そうだなー、夏が終わるまでには答えを聞かせて」
開いたドアへと歩き出す湖凪さんの背中に、追い縋るように手を伸ばし、名前を呼んだ。
「湖凪さん!」
「大丈夫。一人で帰れるわ」
ドアが閉まっていく中で振り返った、うっすらと微笑んだ口元からそんな声が聞こえた。ドアが閉まる直前、彼女が何か言った気がしたけれど、車掌の発車注意の声にかき消されて聞こえなかった。
一人だけを乗せて、電車は去っていく。僕を残して去っていく。呆然と佇む僕の口から漏れたのは、場違いな一言だった。
「ああ、父さんとの約束破っちゃった」
ホームの階段へと歩き始める。自分の足元しか見えなかった。
でも、ただ一つだけは分かった。月明かりさえ見放した、こんな夜の中で、たった一つだけ。
ヘッドライトに照らされた彼女は、泣いていたのだ。
湖凪さんを乗せた列車が去っていく時残した土埃と、触れられた手首から香った気がした微かなもの。
その日僕は、夏の匂いを知った気がした。
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