奇病少女と死にたがり少年④

状況が理解できず、立ち尽くす。昨日から、驚きで頭が真っ白になる出来事が多すぎる気がする。


「大丈夫ですよ」


 そんな僕の頭の空白を埋めてくれたのは、後ろから聞こえた優しい声。ハッとして振り向くと、マスターが湯気が上がるカップを両手に持ちながら、僕を見ていた。


 彼は、手に持つカップを、僕が座っていたテーブルと、そのひとつ横に置くと、僕に座るように促す。


「寝起きに、驚かれたことでしょう。温かいものでも飲んで、一旦落ち着かれては?」


 カップの中身は、カフェオレだった。勧められた通りに飲んでみると、ミルクたっぷりの甘さと、少しの苦味で、頭が温まり冴え渡っていくのを感じる。


「すいません…驚いてしまって」


「無理もないことでしょう。私も、あなたが寝られた後に詳細を聞かされなければ、こんなに冷静ではいられなかったでしょうから」


 彼も、カップに口をつけ喉を鳴らしながらそう言った。年の功かと思っていたけれど、湖凪さんから聞いていたのか。


「湖凪さんから、なんて聞いてたんですか」


「それは、あなたが握りしめている紙が今夜教えてくれるでしょう」


 マスターは好々爺めいた笑顔で、僕の追求をかわす。僕はようやく白衣の男から渡された紙を思い出し、開いて確認した。


「中央病院、総合受付」


 ノートの切れ端のようなものには、そう書かれていた。そして、その言葉の下に小さくて綺麗な字で「受付で、僕の名前を言って下さい」とも。


「…あの、あの白衣の人の名前、聞いてないんですが、マスターさんは聞いてますか?」


 紙を広げてマスターに見せると、彼は「いいえ、私も聞いてませんね」と苦笑する。

 まあいい。湖凪さんの名前を出せばなんとかなるだろう。書かれた場所は病院。そして彼女は病気だと言っていたことから鑑みるに、入院しているのだろうから。


「ありがとうございます。落ち着きました」


「それは良かった」


 僕は、それだけ言うと立ち上がる。帰ろうと思った。一度、シャワーでも浴びて約束の時間までに、頭を落ち着けて整理したいことがあった。


「長々と、すいません」


 僕がそう言って財布を取り出そうとすると、「お代はもうお連れの女性に頂いていますので。カフェオレは、サービスです」と、僕が足元に置いていた紙袋を渡されながら、にこやかな笑顔で言われた。


「また来ます」


 僕は、お為ごかしなんかではなく、本心からそう告げて店を出た。湖凪さんには、きちんとマフラーもお金も返さないとと、頭のメモに刻みながら。


 ドアを開けると、冬特有の張りつめたような爽やかな冷気と、起き抜けの太陽に迎えられた。

 目が眩しさを訴え、目を細める。寒さと、煌々とした太陽の照りが釣り合っていない。まるで、先刻横抱きで運ばれていったあの人みたいだと思う。


 二人で歩いた道を、一人で駅まで戻った。家に着く頃には眠気も倦怠感もなかったけれど、シャワーを浴びてろくに髪も乾かさずにベッドに倒れ込む。僕の意識はいつしか沈んでいった。


 僕の脳裏には最後の最後まで、倒れていく湖凪さんと、それを抱きとめた男の姿が映っていた。


 また、昨日と同じような時間に起きた。寝癖だらけの髪とおぼつかない足取りで冷蔵庫から天然水を取り出して、一気に飲み干した。


 数時間ぶりに寝癖直しのためにシャワーを浴びて、遅めの昼ごはんを食べた。それからはまた、意味もなく川面を見ながら、布団を干したり、部屋の整理をしたりした。


 疑問符を解消するために赴いた場所で新たな疑問を与えられて、僕のあまり優秀ではない頭は一杯一杯だった。だから、頭を一度空っぽにしてしまうには、意味のないことをするのが適していた。それだけだ。


 中央病院とやらをマップ上で検索する。どうやら、あの駅から喫茶店とは反対方向に十分ほどの場所にあるらしい。


 時計を見ると、時刻は四時を過ぎたところだった。今から出発すると、約束の五時半より早く着いてしまうが、遅れるよりはいいだろう。支度をすると、彼女と出会ってからの数日間、毎日と言っていいほど行き来している場所へ向かい始めた。


 駅にたどり着くと、マップを頼りに中央病院へと向かう。程なくして、僕の眼前に真っ白で巨大な建物が現れた。巨大というよりも、広大が正しいのかもしれない。


 車で埋まった駐車場を突っ切り、自動ドアをくぐる。するとそこには、病院特有の無味乾燥な清潔感溢れるロビー。消毒液の匂いが充満していた。

 決していいイメージは連想させない香りを数年ぶりに感じて顔を顰めながらも、大きく掲げられた『総合受付』という看板の前に進んだ。


「ご用件をお伺いします」


 受付の前で仏頂面でつっ立ち、なんと言ったものだろうかと少し言葉を選んでいた僕を見かねたのだろう。受付の人が、そう声をかけてきた。


「あ、えっと、入院してる人のお見舞いに来たんです」


「その方のお名前を、お伺いしてもよろしいですか?」


「えっと、佐藤湖凪です。多分」


「少々お待ちください」


 受付の女性はパソコンの画面に目を落とし、何かを打ち込んでいく。待つこと数分だろうか。彼女は、不思議そうというよりも訝しげに近い顔で、首を傾げて僕を見る。


「申し訳ありません、当院には『サトウコナギ』という方は、入院されていないようなのですが」


「え?」


 受付の女性のその言葉に、微かな驚きを覚える。湖凪さんは、ここに入院しているわけではなかったのか?


「申し訳ありません。もう一度お調べしますので、何科に入院されているかなど、ご存知ありませんか?」


 そう言われてしまっては、僕は言葉に詰まるしかない。湖凪さんが何科に入院しているのかはおろか、入院しているかも知らないのだから。


 僕のその態度を怪しんだのか、受付の女性はじっとりとした視線を投げかけてくる。どうしたもんかと思っていると、背中側から声がした。


「あ、ごめんごめん。もう来てたのか」


 声の主は、湖凪さんを抱えて出て行った白衣の男性だった。今朝よれていた白衣は新しいものになっているし、疲れたような表情ではないが、確かに彼だ。


「藤井先生」


「君、すまなかったね。彼は、僕のお客さんなんだ。もういいよ、ありがとう」


 藤井先生と呼ばれた彼は女性にそう告げると、僕の背中を叩いた。


「さて、少し早いけど行こうか。佐藤くんが待ってる」

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