奇病少女と死にたがり少年⑤

 白くて長い廊下を、彼の一歩後ろに付き従って歩く。院内は随分と広いらしい。


「すまないすまない。うっかり君に名前を教えるのを忘れたことに、恥ずかしながら先刻気づいてね。慌てて来たんだ」


 彼はそう言ってせせら笑う。僕は、それに曖昧に頷く。


「次から、彼女に会いにくるときは受付に僕の名前を出してね。改めまして、藤井悠太と言います」


 彼は、首から下げた名札を僕に見せる。そこには「内科医 藤井悠太」と書かれていた。やはりというべきか、彼は医者だったらしい。



「…天野奏です」


「じゃあ、天野君だね。よろしく」


「はあ…」


 僕の方は、先程の受付の女性に倣って藤井先生と呼ぶことにした。白衣を揺らして歩く彼に尋ねる。


「湖凪さんは、入院しているわけじゃないんですね」


「あー…一応、入院という扱いにはなってるんだけどね。彼女は特殊例だから、あんまり入院してることをデータに残すわけにはいかないもんで、受付に名前がないんだ」


「特殊例?」


「まあ、それについては、彼女が今から話してくれるさ」


 藤井先生もマスターみたいに笑って誤魔化す。それに不満を感じながら歩いた僕が足を止めたのは、右折や左折を繰り返した末にたどり着いた廊下の突き当たりだった。

 藤井先生は、そこに一つだけポツンと存在する病室のドアをノックした。返事はないけれど、彼はためらわず扉を開いた。


 踏み入れた室内は、病室にしては随分と広い。というか、正確な表現を心がけるなら、だだっ広いだろうか。それに、病室っぽくはない。どちらかというと、一人暮らしのマンションの部屋みたいだ。


 その部屋の窓際に置かれたベッドの上に、湖凪さんはいた。生きているのか不安になるほど規則正しいリズムの呼吸をして、そこに横たわっていた。


「さて、彼女が起きるまで、あと十分少々。彼女と話す前に、私と一つだけ約束をしてほしい」


「約束?」


「そうだ。君が今から彼女から聞く話を、絶対に誰にも漏らさないようにして欲しい」


 藤井先生は、極めて真剣そうな大人の顔で言った。


「正直な話をすると、僕は君に話すことにも反対した。今もそれは変わってない。でも、佐藤くんのわがままを無下にするわけにもいかないから、特例で許している。だから、ここで誓って欲しい。たとえ、君がこの話を聞いた後に佐藤くんとどうなろうとも、決して口外しないことを」


 迫力に押されて、思わず頷く。藤井先生は値踏みするみたいに僕の目を見つめると、もう一度「くれぐれもだよ」と言って、腕時計を確認した。


「そろそろだ」


 藤井先生がそう呟いた数秒後、湖凪さんは目を覚ました。目をこすることもなくゆっくりと上体を起こして、僕を視界に入れると、何食わぬ顔で「おはよう」と言った。


 そこには、あるべきものがあまりにも感じられなかった。


「さて、お話しよっか」


 あまりにも、人間味がなかった。


 異様さに二の句を継げない僕に、湖凪さんは少し恥ずかしそうな顔をする。


「やっぱり、寝起きを見られるの恥ずかしいねー」


  「私今化粧してないしー」なんて言って顔を隠す湖凪さんに、僕は何も言えない。後、僕の見立てだけれど、出会った時から化粧なんてものは一切していない。


「佐藤くん。話しにくいなら、僕から話そうか」


 そんな湖凪さんに、柔らかい声色で口を挟んだのは藤井先生だ。彼がそう言うと、湖凪さんは少し気まずそうな顔で「先生には隠し事ができなくて困るな」と呟く。

 そして、僕を向き直ると一つ頬を叩く。湖凪さんはいつもの笑顔を浮かべると、僕の目を見つめる。


「ごめんね、奏。随分先延ばしにしたのに、またちょっと逃げちゃった。でも、もう大丈夫。聞いてくれる?」


 その問いに、僕は頷く。はっきりとしたものではなかったけれど、何かに突き動かされるように、小さくとも確かに。


「何から話そうかな…まずは、私の病気について。私はね、一日の半分しか起きていられないの」


「半分?」


「そう。憎たらしいくらい、きっちりね。今は、朝の六時に一秒違わず意識を失って、十八時にきっちり、目が覚めるの」


 「今朝とさっき、奏が見たみたいにね」と、影が差した顔で湖凪さんは言う。一秒違わず意識を失い、一秒違わず目を覚ます。そんな病気があるのだろうかと、きっと実際に見ていなかったら僕はそう言っていただろう。

 でも、僕はこの目で見た。短針がきっちり六に重なると同時に、話している途中に崩れ落ちる湖凪さんを。寝起きの余韻もなく、まるで機械が起動するみたいに目を覚ます湖凪さんを。


 寝起きが悪いのが羨ましい。湖凪さんがそう言った意味が、今分かった。彼女には、寝ぼけた頭で夢と現実の境にいる権利が存在しないのだ。


 そして、もう一点。湖凪さんの言葉で気になる箇所があった。


「今は…?」


「そう、まだ今は半分で済んでるの」


「済んでる…?」


「そ。私の時間は、一ヶ月に一時間削られていくの。来月には十一時間に、半年後には六時間。そして、来年のクリスマスの零時には、起きてられる時間がゼロになって、私は死んじゃうの」


 湖凪さんは、指折り数えるような仕草をしながらそう言った。あまりの非現実さに、僕は現実の体現者であるはずの、医者の方へ振り返る。

 藤井先生の顔は神妙で、訂正することは何もないといった様子だった。


「便宜上病気って呼んでるけど、病気かどうかも分からないんだって。なにせ、体には一切の異常がなくて健康そのものらしいから」


「それで、余命一年…」


「そう。きっちりと私の命はクリスマスの夜、ジャスト零時に終わります。そして最悪なことに、起きてられるのが日中じゃなくて夜だから。もう、私はお日様を拝めないのです」


 彼女がそう言った時、僕の中にあった疑問が全て氷解した気がした。きっちり一年で死ぬという理由。そして、やけに夜が似合う理由。勘違いではなかったのだ、彼女は正しく夜の住人だった。夜にしか生きられないのだ。


「………」


 何も言うことができない。きっと、いくらでも言うことがあっただろう。でも、その全てが、死を望んだ僕の口から言っていいものじゃない気がして、言葉が紡げなかった。


 沈黙が下りた時間の中で、湖凪さんが藤井先生の方に目配せをする。それを見た藤井先生は何も言わず、ため息を一つ残すと病室から出て行った。


「さて、ここからが私にとっては本題かな。どうしても二人で話したいから、藤井先生追い出しちゃった」


「本題…」


「そう、本題。私と、一年間生きてくれるつもりになった?」


 湖凪さんは、僕の目を射抜いたままで言った。その目から逃げてはいけないと思って、見つめ返して、絞り出すように呟いた。


「僕は…」


 なんと続けるつもりだったのだろう。自分でも、分からなかった。そんな僕の言葉を継ぐように、湖凪さんは口を開いた。


「私ね、クリスマスの日に言われたの。前例に照らし合わせると、私は一年後に死ぬって」


 そう言った湖凪さんの声は、心なしか掠れているような気がした。


「クリスマスの日の十八時、信じられないくらいはっきりとした目覚めの後に、言われたの。残念だけど、君は件の病気だ。一年後に君は死ぬんだって。ちょっと前から、覚悟はしてたつもりだった。身体は至って健康なのに、気づいたら眠ってしまう。そして、意識を失うまでの間は、絶対に眠れない。そんなおかしな体になった時からね」


 僕はその言葉に、刑の執行を待つ死刑囚を思い浮かべた。もしかしたら、違う病気かもしれない。そんな微かな希望にすがりながら、彼女は生きていたのかもしれない。

 けれど、その小さな願いはクリスマスの日に潰えた。


「そして、クリスマスの街に飛び出して、走って、走って。イルミネーションなんか、全部忌々しくて。暗い方へ、走ったの」


 きっと思い出しているのだろう。息継ぎを忘れるように言った湖凪さんは、手をゆっくりと持ち上げると、僕を指差す。


「そこで、奏。君に出会ったの」


 そんな先で、彼女は僕に出会ったのか。一体、どんな気持ちだっただろう。死の現実から逃げた先に、死のうとしている男がいたのだ。


「死に出会ったと思った。最初は思ったの、私は生きたいのに、生きたいけど死ぬのに、目の前で、それをあっけなく手放そうとしてる人がいる。なんて、不公平なんだって」


 湖凪さんの目が少し鋭くなる。僕は、なんとなくいたたまれない気分になる。


「ムカついて、邪魔してやろうと思って、声をかけた。でも、振り返った奏を見て、びっくりしたの。ああ、死が人の形をして立ってるって」


「死が?」


「そう。奏の顔には、悲壮感も感慨も何もなくて。ただ、死の前に立ってた。それが、私には死の体現に見えたの。私は死が怖くて仕方なかったのに、なんだか奏を見てると、それが和らいだ。だから、私はその時思ったの。私が死ぬまで、ずっとこの『死』に隣にいてもらえばいい。『死』と、親しくなって慣れようって」


 ああ、この人は僕が思うより変な人だと、そう思った。死を飼いならそうとするために、死をそばに置こうとするなんて。


「奏が、生きる理由も死ぬ理由も無いって言ったから、ちょうどいいと思った。生きる理由も死ぬ理由も、同時にあげる。私に殺されるために生きて欲しいなんて、そんなことを思ったの」


 きっと、僕もおかしいのだ。今の湖凪さんの話を聞いて、こう思った。人生で初めて必要とされたな、なんて。そんなことを考えて、舞い上がったんだ。

 だから、僕は。


「だからさ、生きてよ。クリスマスに私に殺されるまで、私が必要とするから生きてよ」


 そんな言葉と共に差し出された手を、僕は取ったのだ。死へ向かう二人での旅路に出かけることを決めたんだ。


 歪でも構わない。そんなことは知っている。だけど、僕はその手を取った。

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