奇病少女と死にたがり少年③



 八時を少し過ぎた頃、ドアベルの音とともに扉が開いて、中からエプロン姿の初老の男性が現れた。看板の点灯に出てきたであろう彼は、僕たちを見て微笑むと「お客様ですかね、寒いでしょうから中へ」と、仕草で中へと僕らを誘う。


 入った店内は暖房がよく効いていて、冷え切った指先に一気に血液が巡っていくのを感じた。グラスとコーヒー器具の並んだカウンターに、小さなテーブル席が三席。

 店内はレンガと木材で作られていて、モダンな雰囲気がいかにも喫茶店といった感じだ。


 僕たちから一歩遅れて店内に戻ってきたマスターらしき男性に「お好きなお席へどうぞ」と言われた彼女は、迷わずにカウンター席に座ると自分の隣の席をポンポンと叩き、僕に座るように促す。


 革張りの椅子に腰掛けると、マスターがカウンター越しにおしぼりとお冷やを置いてくれた。

 彼女は、いつの間にやらメニュー表を開き釘付けになっている。僕は、メニュー表を見ずに、マスターにホットコーヒーを注文する。


「もっと、色々あるよ?」


「いいんですよ、コーヒー好きなので」


 僕が素っ気なくそう答えると「そっか」とだけ呟いて、メニュー表に目を戻し、唸る勢いで悩んでいる。


 数分の熟考の末に、彼女がいちごのモンブランとダージリンティーを頼むと、マスターの承諾の声を最後に、店内に沈黙が下りる。

 しばらくそれを共有した後に、お冷やの氷が溶けるカランという音を合図に、言葉を切り出したのは彼女だった。


「まずは、よく来てくれたよね。来ないかと思ってた」


「それは、気分の問題で?それとも生死の問題で?」


「半々かな」


 彼女の苦笑いと、サイフォンの立てる気泡の弾ける音が重なる。程なくして、僕の前に湯気を立てた琥珀色の液体が置かれる。

 冷ますために、一度と息を吹きかけると一口分を口に含んだ。軽い苦味と酸味が喉元を通り過ぎた。


「色々と聞きたいことはあるだろうけど、まずは君の名前が知りたいかな」


 僕がソーサーにカップを置いた時、彼女がこちらを向いてそう言った。


「…天野奏(あまのかなで)」


「なんだか、死ななそうな名前だね」


 彼女は僕の名前を聞いて、よくわからないことを言って笑う。やっぱり、よく笑う表情と夜に不自然に溶け込む雰囲気が、どこかちぐはぐだと思った。


「私は、佐藤湖凪(さとうこなぎ)」


「なんだか、死にそうな名前だ」


    意趣返しのようにそう言うと、また彼女はころころと笑った。なのに、なぜか僕は今までの彼女とはどこか違う気がして、じっと笑う口元を押さえた手を見つめたけど、違和感の正体がなんなのかは、終ぞわからなかった。


「これで、ようやく、心の中で『死にたがりくん』って、呼ばなくて済むよ。よろしくね、奏」


「僕もようやく、首絞め女と呼ばなくて済みますね、佐藤さん?」


 いきなり名前を呼び捨てにする彼女と、名字をさん付けにして、おまけに最後に疑問符をつけてしまう自分の差が、今のやりとりに如実に表れているなと思う。


「あ、佐藤さんはやめて。普通すぎて嫌いなの。それに、さん付けにすると某探偵漫画の女刑事みたいになるから」


 確か、日本で一番多い名字だと聞いたことがあるから、そういうものなのかと思う。後半の戯言は聞き流すとして。


「…湖凪、さん」


「ん、それでいいよ」


 一瞬の逡巡の後に名前を呼んだ僕に、湖凪さんは満足げだ。なんだかこそばゆいのを誤魔化すために、顔を隠すようにコーヒーカップを持ち上げた。

    ちょうどいい温度になったコーヒーを飲んでいる間に、湖凪さんのモンブランとダージリンティーが届いた。

 目を輝かせて、フォークで山の開発に進んだ彼女を、ぼんやり眺めながら待つ。半分ほど平らげて一旦の満足を得たのか、湖凪さんは「そうそう」と、思い出したかのような前置きで本題を話し始める。


「それで、昨日の話。聞きたいこと、いっぱいあるでしょう?なんでも聞いて。答えるよ」


「そうですね、色々あります。じゃあ…」


 そこまで言ったところで、言葉に詰まった。聞きたいことが多すぎるのか、考えがまとまらない。


「命を、あなたのために使うって、なんですか」


 数秒の沈黙の後、僕の口から出てきたのはそんな言葉だ。湖凪さんは顎に手を当て、言葉を選ぶように天井を見やる。


「命を私のために使う、はちょっと言葉の綾かな。私とできるだけ一緒に生きて欲しいの」


「一年間?」


「そう、一年間」


「…なんで、一年間なんですか」


 僕が一番気になっていたのはそこだ。僕の自殺を止めるための方便にしても、なぜ一年なんて期限を設けたのか。


「うーん、端的に言うとさ」


 彼女は、まるでケーキを目にしたときみたいな笑顔で、こう言った。


「死ぬんだよね、私。来年のクリスマスに」


 カランと、お冷やの氷が溶ける音が再度耳に届いた。今度はやけに響いて聞こえて、僕は言葉を紡げない。

 彼女は、変わらぬままの笑顔でいる


 絶句する僕に、湖凪さんは平然とした顔で紅茶を飲みながら僕を見据える。


「だから、一年。来年のクリスマスまで、私と一緒に生きてよ」


「…なんで、死ぬの?」


 そんな湖凪さんに僕が零したのは、奇しくも昨夜彼女が、僕に投げかけた言葉だった。なぜ、死ぬのか。


「んー、病気。余命一年の、大病だよ」


「余命宣告されたから、クリスマスに死のうとしてるってこと?」


 イマイチ、想像ができなかった。湖凪さんに巣食うという病気と、彼女の命の期限が、クリスマスに定められているということが、頭の中でうまく結びつかない。


「あはは、君じゃないんだから。自殺なんてしないよ。私は、正しく病気でクリスマスに死ぬことが決まってるの」


 「まあ、クリスマスなのは偶然だけどねー」と彼女は軽い口調で言うけれど、僕の頭は、はてなマークでいっぱいだ。


「まあ、実際に見ればわかると思うよ」


 そう言うと、湖凪さんはカウンターの向こうのマスターに営業時間を尋ねる。


「午前七時までの営業となっております」


 マスターはグラスを布で磨きながらそう答えるが、よくよく考えると、一風変わったお店だ。深夜営業の喫茶店だなんて。


「じゃあ、大丈夫だ」


「何が大丈夫なの?」


「場所を移さなくても、だよ。奏、明日も予定ないよね?」


「ないですけど」


「さっきから、微妙に敬語と砕けた口調が混じるね…むず痒いから、砕けた方でいいよ。それは、それとして、良かった。なら、朝まで付き合ってよ」


「朝まで?」


「そう、具体的には、朝の六時かな。そしたら、全部わかるからさ」


 決めかねていた口調が決まり、少し肩の力が抜けるが、それでも疑問は何一つ解消されない。

 明日の朝六時。そこで全てが明らかになると言うが、何が起きるのか検討もつかない。

 そもそも、今から約七時間この店に居座るつもりなのか、この人は。


 僕がそんな思いを込めて、マスターの顔をチラリと覗き見ると、彼はまるで「大丈夫ですよ」と言わんばかりに、一つ微笑みを返してくれた。


 逃げ場がなくなった僕は、乗りかかった船だと思い諦めることにした。


「分かった、朝まで付き合うよ」


「そうこなくっちゃ」


「それで、あと七時間も何するのさ」


「いくらでも話すことはあるよ、いくらでもね」


 夜が更けていくまで、湖凪さんと話をした。当然、僕は人と話す機会に恵まれていない人生だったから、話すのも言葉を選ぶのも下手くそだったけれど、湖凪さんは薄々察していた通り、僕とは真逆のおしゃべり側の人だった。


 色々な話を聞いた。「一年間、一緒に過ごす人のことぐらい知っておかないと」なんて湖凪さんは息巻いていたけど、まだ確約はしていない。

 

 例えば、僕より二歳上の十九歳であること。大学生だったこと。


「だった?」


「そう。今日、奏と待ち合わせする前に辞めてきたの」


 そんな爆弾発言で、僕を絶句させたりもした。湖凪さん曰く「死ぬって分かってるのに、わざわざ学費を払う必要もないでしょ」だそうだ。


 両親とは死別していること。去年、育ててくれていた祖母も亡くなってしまったこと。


「なのに、まさかすぐ私も逝くことになるなんてねえ。向こうで怒られるかも」


 そんな、反応に困ることを言って湖凪さんは笑う。ちなみに、僕は全く笑っていない。


 甘いものが好きなこと。ファッションがモノクロなのは、実は僕と会ったクリスマスからで、それ以前はそんなことはなかったこと。


「理由はまた話すよ。でも、やっぱり美人だと、どんな系統のファッションも似合っていいね」


 繰り返すが、僕は全く笑っていない。


 これから死ぬまでに知る楽しみがなくなってもよくないからと、次は僕のことを話せと言われた。

 繰り返すが、僕は話すのが得意ではない。だから、たどたどしかった上に、そんなに話すほどのことがある人生でもなかったから、見所もなかった。


 親と離れて一人暮らしをしていること。その親と折り合いがよくないこと。


「ご両親と仲良くないの?」


「仲良くないというか、ほとんど関わりがないんだよ」


 そこそこ裕福な家庭に育った。ただ、その弊害で両親は僕に構う時間が随分と少なかった。

 初めは少ないながらになんとかしようとしていたらしいが、僕が小学生の高学年になる頃には、ほとんどゼロになっていた。


 僕がそれを辛いと思わない子供だったのが、唯一の幸いだろうか。そんな、寒々しい家だったから、僕は高校入学とともに家を出た。

 両親は、僕が見つけてきた川のほとりの家を、何も言わずに契約してくれた。それからは両親に一度しか会っていない。


「それをなんとも思ってないのも凄いね」


「そう?早めに諦めてしまっただけだよ」


 最初から価値を知らなければ、失っても惜しくない。僕にとっては、それだけの話だった。


 人と関わらず、関われずに生きてきたこと。それも、特段に辛いとは思えずにいたこと。


「奏は強いね。人と違うのに、平然といられるなんて」


「きっと、元からおかしかったので、死の方と仲良くしようなんて思ったんですよ」


 そんな話を一通りし終わった時、時刻はすでに深夜三時を回っていた。元から生活リズムが無茶苦茶な僕でさえブラックコーヒーの力を借りても少し意識が朦朧としているのに、湖凪さんはケロっとしている。


「あれ?もしかして眠い?」


「まあ、少し」


「じゃあ、寝れるなら寝ていいよ。六時の少し前に、意地でも起こしてあげる」


「大丈夫」


「ほんとかなあ…」


 実際、半分くらいは虚勢だった。その、残り半分の強がりが完全に剥がれて、僕が机に突っ伏したのは、四時前だったんじゃないかと思う。


 「仕方ないなあ」という、湖凪さんの声が聞こえた。そのあとに、マスターと湖凪さんが、何やら会話していた気がした。


「ーーー迷惑ーーかけーーす」


「いえーー仕方ーーーことーーす」


 そんな会話の終わりに、電話の発信音が聞こえた。


「もしもしーーー先生?ーーーそう。だからーーーーに来てーーー状が出るかーーー多分」


 そんな、凪さんの声と共に、意識は途絶えた。


 それから、どのくらい経っただろうか。肩を揺すられた。意識が一気に浮上する。少し霞んだ世界には、少し見慣れてきた湖凪さんの姿。そして、エプロン姿のマスター。そして、もう一人いた。


 少しよれた白衣を身に纏った、背の高い生真面目そうな人物だ。湖凪さんの横で、少し不満げに立っている。

 僕が「誰だ」と言う前に、湖凪さんが人差し指を僕の唇に当てて、それを制した。


「奏、寝起きが悪いね。羨ましいよ。もう、六時の三分前だ」


 寝ぼけた頭の中で、寝起きが悪いのが羨ましいと言う言葉の意味を考えているうちに、長針が、ちょうど頂点に達した。

 その数秒前、湖凪さんが「見てて」と言った。きっと、そのあとには「ね」と続くはずだったのだ。


 言葉を言い終わることなく、湖凪さんは糸の切れた人形みたいに力が抜けて、空中に四肢を投げ出した。


 慌てて僕が彼女の体を支えようとした時、白衣が翻り、彼女が倒れるのを防いだ。まるで、彼女が倒れるのが分かっていたかのように。


「はー、この子は本当に…」


 白衣の人物は、嘆息しながら彼女を横抱きに抱えると、首をやれやれと言うように横に振った。

 やがて、視線が呆然とする僕と絡むと、彼は困ったように後頭部を掻いて、白衣のポケットから一枚の紙を取り出し、僕に渡した。


「今日の、あー、五時半過ぎがいい。その時間に、この紙に記された場所に来て。彼女の言葉を使うと、答え合わせだそうだ」


 彼はそう言うと、彼女を抱えたまま店を出て行った。残されたのは、寝起き特有の霞と、ドアベルの残響音だけ。


 そんな、朝を迎えた。

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