奇病少女と死にたがり少年②

冷たい冷たい感触がある。マフラーを巻いてもらったはずなのに、ひどく冷たい。それも当然だ。

 目の前にいる女が、マフラーを巻いたその掌で、僕の首に手をかけているのだから。


 手にはわずかな力しか込められていないのに、ひどく息が苦しい。喘ぐように体が酸素を、生を渇望する。

 数分前まで死のうとしていた男が情けない。なんて思っていると、急に力が弱まって、体に酸素が雪崩れ込む。


 急激な変化に噎せ返ると、彼女が僕の背中を優しくさする。お前のせいだよ。


「ごめんごめん。本気だってことを伝えたくて、ついつい力が入っちゃったのかな」


「本、気?」


 僕は呼吸を整えながら、やっとの事でそれだけ返す。


「そう、本気。もし、ここで捨てるはずだった君の命を延長して、私と一緒に一年生きてくれるなら、私が殺してあげるわ」


 彼女は、はためく髪をかき上げると、薄い雲に阻まれた淡い月光に照らされながら、僕に手を差し伸べ、言った。


「生きる理由も、死ぬ理由もないなら、両方私があげるわ」


 僕はこの時、なぜだか頷く以外のことが出来なかった。それは月明かりの中で差し伸べられた手が、あまりにも美しかったからかもしれないし、もっと別の理由なのかもしれない。

 ただ一つ確かなことは、僕がその提案に頷いてしまったということだ。


 頷き、手を取った僕を見て満足げに微笑む彼女に、笑顔が随分と似合う女だと思うと同時に、この女は天使でも死神でもなく、人間なのかもしれないと初めて思った。


 彼女は、そのまま僕の手を引いて街の方へと歩き始めた。ふわふわとした気分のままの僕は、何も言わずそれに従った。


 徐々に人の気配が増えて、視界にはネオンの人工的な光と、今日という日を祝う明かりが増えてくる。

 街に近づくにつれ、どこか幸せそうな雰囲気が大きくなる。手を繋ぎ、そこを練り歩く男女二人組。


 周りから見れば僕たちも馴染んでいるのかもしれないが、実情を聞いたらこの幸せそうな空気が凍るだろう。

 なにせ、自殺志願者と、それを止めてもう一度殺そうとする女だ。


「別に逃げないから。その、手」


「離せって?別にいいじゃない。周り見たら、繋いでない人の方が少ないんだし」


  無理やり振りほどくことも出来たのだろうけど、僕はそうしなかった。それを感じ取ったのか、彼女は微笑むと、もう一度歩き出した。

 やっぱり、よく笑う女だと思った。


 そうして、人混みを掻き分けて歩くこと数分。この街で一番大きなターミナル駅に僕たちはたどり着いた。

 設置された大時計に目を向けると、もうすぐクリスマスが終わるを迎える時分だった。


 改札の前は、今日という日が終わるのを悲しんでいたり、今日の余韻を共有している者ばかりだ。

 この上なく幸せそうな人間たちが、今日ばかりは明日を望んでいないのだと思うと、自殺志願者の僕と変わらないじゃないかと、少しおかしかった。


「明日、夜の七時半に、ここにもう一度来て」


「え?」


「絶対だよ」


 彼女はそう言い残すと、あっさりと手を離して雑踏の改札の奥に消えていった。声を上げる暇もないまま、まるで幻みたいに消えていった。

 そんな彼女の存在を証明するのは、手に残るほのかな温かさと、意図的かそうでないのか、僕の首元に残されたマフラーだけだった。


 まるで確かめるように自分の掌を見つめ、マフラーを巻きなおす。そんな風にしていると時刻はてっぺんを超えて、クリスマスが終わった。



   周りが惜しむような声をあげ、一気に改札に吸い込まれていく。僕もその波に紛れて、混雑した終電に乗り帰路についた。

  車内には幸せの残滓が散らばっていて、この列車は明日には進んで欲しくなかったんだろうなと思った。

  本来、明日に行くはずじゃなかった僕にはふさわしい電車だ。


  アナウンスが最寄駅を告げる。息苦しい箱詰めから吐き出されたと思うと、息苦しさの代わりに襲ってくるのは狂おしいほどの冷たさだ。


  冷えた空気は海水を思わせる。僕に死をイメージさせる。


  こんなにも死について考えてしまっているのは、予期せぬ明日を与えられて困惑しているから。

 僕は、無いはずだった明日をどう生きるのだろう。そんなことを考えながら改札を超え、通り慣れた家路を辿っていく。


 寒さに少し早足になりながら、見えてきた小さなマンションのオートロックをくぐり、三階にある自室へと向かう。

 鍵を開けると、人の気配がしない暗闇が僕を出迎える。乱暴に電灯のスイッチを押して靴を脱ぐと、1LDKの間取りを突き抜けて、ベッドに倒れこむ。


 手のひらにはもう温かさの残滓は微塵もなくて、先刻までの出来事が自殺志願者が死の恐怖で生み出した幻覚なんじゃないかなんて思えてくる。


 それでも、寝転がると肌を刺す首元の毛糸が現実だと教えてくれた。冷えて重い体をなんとか起き上がらせ、上着と借り物のマフラーだけをきちんとクローゼットに仕舞い込むと、もう一度倒れこむ。


 羽毛布団に包まり、泥のように眠る。夢か疑った現実から逃げて、きっと僕は夢を見る。


 カーテンのわずかな隙間から差し込む陽光で目を覚ました。その光を嫌がるように身をよじると、布団の外側の空気が隙間から入り込んできて、意識がだんだんと覚醒して行く。


 憂鬱さを吐き出すように一つ嘆息すると、吐き出された吐息が白い。昨日、帰宅と同時にベッドに倒れこんだから、暖房をつけていなかった。

 通りで寒いわけだと、なんとか布団の誘惑から抜け出してカーテンを開ける。すると、そこには日が昇りきった景色がある。随分眠ってしまっていたようだ。


 壁に掛けた時計を見ると、正午を少し回っている。昨日のクリスマスの残滓など少しも感じない、穏やかな日常が窓の外には映る。

 犬の散歩、冬休みを謳歌し自転車で走り回る子供達。そして陽の光を反射し煌めく川面。


 故あって一人暮らしをしている僕が住処をここに決めた理由が、すぐ傍に流れる川だった。

 特に川が好きだと感じたことはなかったのに、内見に来た時に窓から覗いた川面が忘れられずに。

 それからというもの、ぼうっと川面を眺めることが日常になった。夏風に吹かれながら、秋の名月に見下ろされながら、冬の澄んだ空気を感じながら。そして、死を想像しながら。


 なら、死に損なった今日は何が浮かぶのかと、そんなことを考えながらしばらく見つめた。朝食を抜いた僕に腹の虫が不満の声を上げるまで、見つめ続けた。


 今日が訪れるなんて昨日の時点で考えていなかったから、冷蔵庫の中は空っぽ同然だった。仕方なく、いつ買ったのかも覚えていないカップ麺を胃袋に詰め込んだ頃、ようやく現実に向き合う思考力が温まった。


「そうか、僕は今日も生きるのか」


 今日どころか一年を生きろと言った女の存在も、どうやら夢ではなく現実らしい。クローゼットを開けば、縫い上げられた証拠がそこにはある。


 七時半に、昨日の駅。僕はそこに行かなければならない。僕に生きる理由も死ぬ理由も与えると言い切った、モノクロの女に会いに行かなければならない。僕の死を奪った名も知らぬ女に。


 僕の自殺を止めるためのその場しのぎの嘘に決まっていると思うのに、行かないという選択肢が思い浮かばないのは、なぜだろう。

  

 駅に行けば全てがはっきりする。それだけは確かだ。いなければ、それでいい。また僕は天啓のような死の気分を待って、ひっそりとこの世から消えてゆく。

 居たら、どうだろう。彼女はなぜ僕の首に手をかけ、あんなことを言ったのだろう。なぜ、一年なのだろう。


 シャワーを浴び、着替えながらも、そんな疑問符のエラー音が頭にずっと鳴り響いていた。


 時間を見計らって家を出た。紙袋に彼女と会うための通行手形を入れて、冷気の中を駅に向かって歩く。


 昨日の浮かれた混雑が嘘のように、電車内は空いている。席に腰掛け、日が沈むのが随分と早くなった空を見ながら、ぼんやりと考えても答えの出ないことをグルグルと考えた。


 到着アナウンスと共に立ち上がると、電車を降りて改札を出る。約束の時間には、まだ少し早い。

 具体的な場所は聞いていなかったので、目につきやすそうな場所を選び、道ゆく人を眺めながら立っておくことにした。


 売れ残りのケーキ販売の声、仕事の締めの時期なのか足早なサラリーマン。そんな人の営みの切り抜きを眺めていると、視界に一人の女が入り込んだ。


 今日も、色というものが完全に抜け落ちたみたいな、モノトーンのコーデに身を包んだ女が、辺りをキョロキョロと見渡している。

 人混みの中でも、なぜか彼女は一人際立っていた。景色から、世界から切り離されたように見えるのだ。視界の中で彼女だけが、モノクロに色付いていた。

 どうやら、そう見えるのは僕だけではないようで、すれ違う人間も彼女の顔を見ては、少しハッとした顔をしている。

 単純な美しさだけではない何かがあるのだ、彼女には。


 どう声をかけたものかと迷いだした頃、彼女はこちらに気づいて小さく手招きをした。


「や、昨日ぶり。ちゃんと生きてるね」


 微笑みながら、そんな物騒なことを言ってくる彼女に憮然と「おかげさまで」と返すと、彼女はより笑顔を深めた。

 色のない装いと、コロコロと色を変える表情が、どこかアンバランスだった。


「さて、行こっか」


 僕の皮肉を笑顔で受け流した彼女は、早速と言わんばかりに僕に言う。

 

「…どこに?」


 あまりにも当然のように彼女が僕の手を引くので、少し面食らう。


「秘密。先に言ったら、つまんないでしょ?」


 疑問と疑念を抱えたまま、彼女に手を引かれ歩き始める。彼女が来たことに安堵する心に気づく暇もないほど忙しなく、歩いていく。


 空を見れば、いつの間にか雪が降りそうなほどに分厚い雲が存在していた。完全に陽が落ち、夜の入りになり、陽光から人工の光に切り替わった街は、どうしてこんなにも子供の僕にとって居場所がないと感じるのだろう。


 それにひきかえ、そんなに年齢は違わなく見えるのに、彼女はどうしてこうも夜が似合うと感じるのだろう。はためく真っ黒なロングパーカーが夜に馴染むから?歩調に合わせて揺れる、肩までの漆黒の髪が夜を思わせるから?


 そこまで考えて、そういえば陽の光の下にいる彼女の姿を見たことがないからかもしれないと思った。でも、そんな表面上の問題じゃない気がした。本質的な部分で、彼女は夜の住人だという確信が、何故か僕にはあった。


 マフラーが入った紙袋で塞がっていない左手を冷たい手に引かれて、ネオンの光の下を歩く。どんどん駅から離れて、中心街から離れていく。

 まるで、流れに沿わず逆流しているようだ。そうやって、人が少なくなっていく方へ、ネオンの明かりから遠ざかる方向へ。


 二十分ほど歩いただろうか。その間、彼女との間に会話らしい会話はなかった。そんな彼女が唐突に立ち止まった。倣って、立ち止まる。


「着いたよ」


 そうやって彼女が指し示したのは、まだ明かりの灯っていない一つの看板だった。


「カフェ…?」


「区分的には、アルコールも出すから喫茶店だね。なんでも、深夜営業のお店なんだって。八時開店らしいから、もう少し待とう」


「はあ…」


 ここまで来て今さら抵抗する気も起きず、大人しく待つことにする。その間「カフェと喫茶店の違い知ってる人、意外といないんだよ。君は知ってた?」なんていう、雑学自慢めいた話を、相槌だけで流す。


 彼女は僕の態度に少し不満そうだったが、素知らぬふりをして、かじかんできた指を気にしながら開店を待った。

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