奇病少女と死にたがり少年①

桜祭りのポスターを見たから、春まで生きようと思う。

  

 りんご飴が恋しくなったので、夏まで生きようと思う。


 秋の夕暮れに包まれたくなったので、秋まで生きようと思う。


 もう一度だけ、そこにしかない特別な空気を味わいたくて、クリスマスまでは生きようと思う。


 そんなことを思いながら生き長らえた僕は、ついに十七歳のクリスマスの夜、生きる言い訳を無くしてしまった。


  年明けとか、ふきのとうとか、梅の花を言い訳にしようと思ったのだけれど、どうしてもそんな気分にはなれなかった。


 それなら話は早いと、幸せそうな街を走り抜けて、海へと向かった。


 海に囲まれた街だったから、汗だくになる頃には僕の最期の場所が見えてきた。海に面した倉庫街の一角。人気はない。

 コンクリートと海の境目に立って、向こう岸を眺める。


 凪いだ海と対岸の灯りを見て、案外悪くない最後だと思った。


 最後に自分が、凪いだ海に大きな波紋を残して沈んでいけるのだと思うと、今から消えてなくなる意識とは思えないほど、高揚感を感じる。

 

 覚悟に、一生分。走って十分。あと、一秒あれば終わることが出来る。


 「ねぇ、何してるの」


 あと一秒だった。その一秒が、僕と君を出会わせた。


 それが、僕の奇妙な一年の始まりだった。 


 ずっと、投票用紙を持ったまま佇んでいた。目の前には、二種類の投票箱。生きるか、死ぬかだ。


 僕には、死ぬ理由も生きる理由もなかった。愛されなかったけれど、疎まれもしなかった。

 僕がこの人生で関わりを持ってきた全ての人間が、目の前の投票箱に投票したのだとしたら、それは、全て僕に関心のない無効票。


 だから、僕が今こうやって海に身を投げようとするのは、実に一票差だ。残念なことにというか、僕は僕のことが大嫌いだった。


 それに気づいてしまったとある日から、数ヶ月。僕も人間だから、根源的な死の恐怖からは逃れられなくて、結局何か言い訳を探して、今日まで命を繋いできた。


 桜が見たい。


 りんご飴が食べたい。


 秋の夕暮れが見たい。


 クリスマスの街に行きたい。


 ただひたすらに毎日死を脳裏に浮かべて見る風景は、思い出の中にあるそれらよりも美しく見えた気がする。


 僕はそれのことを今日を生きる言い訳と銘打っていたけれど、実は死へ向かう言い訳だったのではないかと思う。

 死への覚悟を一つ一つ集めて。これを終えたなら死んでいい、そう自分に言い聞かせるように。


 そして、覚悟が決まったのはクリスマスのことだった。理由は特にない。猫が死期を悟るように、僕にその天啓が降ったのが今日だっただけの話だ。

 腹を決めて、黒い海に沈んで行こうと体の力を抜いた瞬間。そんな時だ。その女が僕の目の前に現れたのは。


 潮風に肩までの漆黒の髪をなびかせ、首元には少しくすんだ白のマフラー。装いも、黒のトレンチコートに、黒いロングスカート。

 どこまでも色彩が存在しない女だった。モノクロだけで構成された彼女と、その背後に煌めくイルミネーションの鮮やかさがあまりにもかけ離れていて、まるで彼女だけ今日という夜から抜け出してきたみたいだった


「こんな聖なる夜に、何してるのよ」


 揺れる髪とコートの裾を押さえつけながら、彼女は僕にそう問いかけた。


「見てわかりませんか?」


 僕は表面上は表情を崩さず、なんとかそう返したけれど、内心は驚きと困惑でいっぱいだった。

 人気が一切無い倉庫街。しかも、クリスマス。そんな所に、年若い女が一人。一瞬「幽霊かも」なんて、そんなくだらない考えが頭に浮かんだくらい、その女は浮世離れしていて。そして、美しかった。


「わかるから声をかけてるの。自殺者には声をかけて変な気を起こさせないようにするのが常識なの」  


「既に変な気を起こしている相手には無駄だと思いますが」


「こんな夜だもの、話くらいなら聞いてあげる」


  女は立ち尽くす僕の隣に音もなく座ると、そんなことを言った。


「特に話すことなんてないですよ。それが理由とも言えますけど」


「ふーん、でも入水はやめた方がいいよ。冷たいし、苦しいよ」


「じゃあ、何がいいんですかね。せっかくなので、もみの木で首でも吊ってやりましょうか」


「少しは浮かれた世界に気を遣いなさいよ。そんな飾り付け、クリスマスツリー側も嫌でしょ」


「要約すると、あなたは僕に死ぬなと言いたいんですね」


 僕が声のトーンを変えずに、まるでくだらないジョークの続きを言うみたいにそう溢すと、彼女は少し困ったように沈黙した。


「…なんで、死ぬの?死んだら、天国なんてないよ。会いたい人にも会えないし、もうお日様も、見れないんだよ?」


 彼女が沈黙を破った声は、なぜだか震えていた。僕は、その震えを冬の寒さのせいにして、気づかないふりをした。

 こんな夜にこんな場所に一人。何か事情がない方がおかしいのだ。


「一票差なんですよ」


「一票差?」


「そう。僕には、生きて欲しいと思ってくれる人も、死んで欲しいと思ってくれる人さえ居ないんです。だから、一票差。僕が僕を嫌いだから、終わらせることにしたんですよ」


 僕はそう言って、死ぬ方への投票のつもりで、海に小石を一つ投げ込んだ。小さな音と、小さな波紋が広がって、それがまるで、この女が来なかった場合の自分の代わりに見えた。

 

「それで、その小石みたいになるつもりだったんだ」


「そうですね。なりそびれちゃいましたけど」


 僕が口元だけで笑うと、彼女は何を思ったのか、僕の首元に自分が着けていたマフラーを巻いた。


「なんのつもりです?」


「いや、ね。せっかくだから君の命を拾い上げてあげようと思ってね。これは生きる方への投票代わり」


 「そうすれば、同票で死ねないんでしょう?」と彼女は悪戯っぽく笑う。僕は呆気にとられている。


「これを一年続けてあげる。だから、あなたの捨てたような命、私のために使ってよ」


「は?」


 呆気にとられていた僕だが、次の発言にはもっと呆けることになった。何を言ってるんだ、この女は。


「ただとは言わないよ。そうしたら、こんな冷たい海に身投げなんかじゃなくて」


 彼女は、冷え切った手のひらを、ゆっくりと僕の首に添える。わずかに力がこもって、少しだけ呼吸が詰まる。


「私が、殺してあげる」


 自殺志願者に生を望ませたかと思えば、最後には殺すと言う。そんな、天使か死神か分からない女に、僕はクリスマスに出会った。

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