冬⑤
小鳥のさえずりで、ハッと気付いた時には、太陽が完全に顔を出した時間だった。
時計を見ると、どう考えても今から家に帰って身拵えをしていては、とても学校には間に合わない。
「…休むか」
両親に連絡が行くと面倒なので、一応、欠席の電話だけ入れておこうと思いながら、病院を出る。
雪はほとんど止んでいて、照らす朝日が白い地面を溶かし始めていた。日光に目が慣れるまで目を細めていると、背後から声をかけられた。
「あれ?天野くん。今日は、随分と遅い帰宅だね」
声をかけてきた藤井先生は、僕同様に陽光に目を瞬かせ、あくびしながら、ゆっくりと隣に並んだ。
「お疲れみたいですね」
藤井先生は、初めて喫茶店で会った時のように、よれて襟が少し汚れた白衣をまとい、疲労の色が顔に貼り付いていた。
「ああ、救急外来の当直が終わったところでね…風邪をひきやすい季節だから、忙しくて仕方なくてね」
「それは、お疲れ様です」
苦笑を浮かべて、僕がそれだけ返すと、藤井先生は大きなため息をつき「何か奢るから、自販機まで行かないか?」と、訊いてきた。
どうせ今日、この後の予定は全て消えたので、ついていく事にする。
「そういえば、君と初めて会った時もこんな状況だったね…夜勤の最中に、あの喫茶店まで、佐藤くんに呼び出されてね…」
ブラックコーヒーを煽りながら、思い出したように、藤井先生はそう言う。彼に奢ってもらった温かい緑茶で手を温めながら、あの日のことを思い出す。
思えば、藤井先生が彼女を抱きとめた時に胸に走った小さなエラーは、嫉妬のようなものだったのかもしれないと、今なら思う。
「湖凪さん、無茶言いますからね」
「それも、君と出会ってからだよ。それまでは、口数も少なくて、わがままなんてろくに言ったことはなかった」
「そうなんですか?」
訝しげな内心が、顔に滲み出ていたのだろう。「本当だよ。あの日も『私の滅多にないわがままだから、早く来てね』って呼びつけられたんだから」と、藤井先生は今日何度目かわからない苦笑を浮かべた。
意外だった。口数の少ない湖凪さんなど、想像ができない。
「本当に、いい顔をするようになった」
「それは、良いことですね」
「天野くん、君もだよ」
「え?」
「少し見ないうちに、とても良い顔をするようになった。だから、声をかけたんだ」
そう言われて、頬をグニグニとこねるが、自分ではわからない。
「最初は、佐藤くんも、君も酷かった。でも、最近は、良くなったよ」
「そうですかね」
「良い心境の変化があったようで何よりだ。特に、佐藤くんの事は、君にどれだけ感謝しても、足りないくらいだ。死に向かう患者さんが、悪い方向に表情を変える事はあっても、逆は滅多にない」
「過剰評価ですよ。特に何もしてないんです」
そう言った時、藤井先生のポケットから、着信音が鳴った。
「すまない、呼び出しだ。もう少し頑張るよ」
「あ、これ、ありがとうございます」
緑茶の礼を言うと、藤井先生は爽やかに手を振りながら去っていく。それを見送ると、緑茶のラベルを剥がし、水面に揺れる自分の顔を映し見る。
やっぱりそこには、不健康そうな無愛想な男が一人。自分の顔さえ、久しぶりに見る気がした。
でも、きっと僕に何らかの変化があるなら、それは全て湖凪さんがもたらしてくれたものだ。
僕も、彼女にとってのそういうものでありたい。そんなことを思い、緑茶を飲み干し帰路についた。
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