冬④

日を跨いだ深夜は、あまりにも静かだった。雪には吸音作用があるというから、それが作用しているのかもしれないし、皆が寒さに縮こまり、布団をかぶって丸まって、さっさと寝てしまったのかもしれない。


 僕は丸裸の手をポッケに突っ込んで。湖凪さんはミトン型の白い手袋をして。あてもなく、道をゆく。


 公園を出た僕たちは、行き先も決めず、街の方へと歩き出した。公共交通機関が止まった頃はてんやわんやだっただろう街は、今ではいつもよりも随分と人が少ない。


 いつもは喧騒がやまないはずのネオンの灯りの中で、今日は二人分の雪を踏みしめる音だけが聞こえるのが不思議だった。


 スキップをしながら、時にくるくると出鱈目なステップで踊りながら、時に転んで積もった雪に突っ込みながら、湖凪さんは、ずっとご機嫌な様子で歩いていた。


 公園から出てから、ずっとこの調子だ。スクリとブランコから立ち上がると、迷いがなくなったかのようなハッキリとした足取りで進んでいく。あ、また転けそうになった。


 結局、はしゃぎすぎて僕らの服に降り積もった雪が水になり体温を奪い始めたので、暖をとるために、例の深夜営業の喫茶店に行くことにした。


「お久しぶりです」


 あれからもちょくちょく足を運んでいたのだが、最近は少し遠のいていた。だが、マスターはそんなことを気にする素振りもなく、穏やかな笑顔で「いらっしゃいませ、お元気そうで」と迎え入れてくれる。確かに、僕たちは表面上だけは健康に見える。

 片方は病気かもわからない奇病を患っていて、片方の心の内はどう考えても健康では無い。


「外は寒かったでしょう。温かいものをお出ししますから、お好きなお席にどうぞ」


 僕らは、入り口に存在するコート掛けに随分と重くなってしまった上着をかけ、カウンター席に並んで座る。

 奥のテーブル席に一人、黙々と本を読んでいる人間がいるが、店内は静かなものだ。


 湖凪さんが一つ小さなくしゃみをした頃、僕の前にはホットコーヒーが。湖凪さんの前には紅茶が置かれた。


「ケーキはどうなさいますか?」


 片手の指が満ちるほど来店しているが、僕らの飲み物の注文はいつも同じなので、マスターはもう何も言わなくても良いと判断したようだった。

 デザートを尋ねられた湖凪さんは、案の定今日も迷いに迷っているようだ。


 それから数分かけて吟味して、プリンアラモードを頼んだ彼女は、猫舌らしい舌先で、舐めるように紅茶を飲むと「はぁ…」と、まるで温泉に浸かったかのような声を出す。

 実際に、大雪の寒さから逃げて、暖かい飲み物を飲んだ今は、その感覚に近いのかもしれないが。


「一日の半分も寝てるのに、こんな時間に甘いもの食べると太っちゃいそうだな」


「ちょっと」


 迂遠とはいえ、当然のように、病気のことを話す彼女に注意すると「大丈夫だよ。今のだけ聞いても、私はただの怠惰な人だよ」と湖凪さんは、あっけらかんとした顔だ。


「まあ、僕たちは普通のリズムで生活してないから、大丈夫なんじゃない?ほら、普通の人は、昼の三時におやつでしょ?十二時間違うだけだよ」


 時刻は、あともう少しで、深夜二時を回る。


「奏は信じられないくらい細っこいから、そう言えるんだよ。ちゃんと食べてるの?」


「食べてるよ」


 そう言って、僕の腰付近をジロジロと恨めしそうに見る湖凪さんだが、彼女も相当細い。

 それに、病気の関係で、朝食と昼食の概念が消えた彼女こそ、ちゃんと食べてほしいものだ。今日なんて、雪ではしゃいで夕飯すら食べていないのだから。


 夕飯を食べ損ねていることを指摘すると、湖凪さんは追加でナポリタンを頼んだ。

 僕に言われて、ようやく腹の虫が思い出したらしい。ちなみに、彼女は勝手に僕の分も頼んだ。しかも、大盛りで。


「奏は、もっと食べるくらいでちょうどいいの」とのことだが、太るなら道連れを作った方が気楽という考えが丸見えだ。

 ナポリタンは、昔ながらの喫茶店というような、ケチャップの甘みと、少量のタバスコの辛味が食欲を誘って、とても美味しかった。

 食に興味がないだけで、そこそこ食べようと思えば食べられるのだ。


 そこから、時折マスターも交えて、なんでもないような会話をして、四時を回ったところで店を出た。


 店を出る時に袖を通したコートは乾ききっていて、なぜだか少し、寂しかった。

 

 ドアを開けて、冷気とともに舞い込んできた雪を見たら、なぜだかその寂しさは薄れたが。


 マスターが貸してくれた一本のビニール傘の下で身を寄せ合いながら、雪が斜めぶりするようになった街で。


「ねえ、奏。寒い?」


「そりゃ、寒いよ」


「そういうことじゃなくてさ。私は、今寒くないよ」


「まあ、あの時、湖凪さんが来なかったら、もっと冷たくて寒かったと思うから、それを考えると、寒くない」


 「そういうことでもないんだけどなあ」と湖凪さんは言うけれど、覗いた横顔は、少し赤くて、寒そうだ。

 視界の端にちらつく赤信号が、青信号に変わった。呼吸を合わせたように、歩き出す。


 あの雪の中、ブランコに腰掛け話したように。きっと、これからの一年を、そうして過ごすのだろうなと思った。

 そんなことは人生で初めてだなと、ふと思った。なかったも同然の、余生のような日々の中で、まさかそんなことを思うとは、思いもよらなかった。


 なんだか、ふわふわとした気持ちになった。湖凪さんと出会ってから、そんな、足元のおぼつかないような感情に支配されることが、多い気がする。

 そうしたら、実際に雪に足を取られて尻餅をついた。湖凪さんがこれまでのお返しとでもいう風に、僕を指差して目いっぱい笑った。


 もう見慣れたと思っていた、湖凪さんの咲くような笑顔。通り過ぎて行く車のヘッドライトに照らされた顔は、舞う雪を背にして、いつもより美しく、幻想的に感じた。

 でも、寒さからか、純白の肌には少し赤みがさしていて、それが彼女が幻想の中なんかではなく、ここにいると教えてくれた。


 そういえば、出会った時に、天使だとも、死神だとも思った。だけど、今は。


 電流が走るような衝撃も、大層な気づきがあったわけでもなかったけれど、そこまで考えて、脳裏にただ一つだけ浮かんだ言葉が、やけにスンと胸に落ちて納得した。


「ふっ…ふふ…あははははは」


 釣られるように、僕も声を出して笑った。諦めたように全身の力を抜き、雪に大の字に寝転びながら笑った。


 湖凪さんが、唖然としながらこちらを見ている。目をこすっているところを見ると、よっぽど信じられないらしい。


「奏が、笑ってるの、初めて見た」


「失礼な、僕だって笑うぐらいするよ」


「いつものは、苦笑とか冷笑!そんな、心の底から笑ってるのなんて、初めてで」


 なんだか、湖凪さんは嬉しそうだった。だから僕も、もっと笑った。雪に埋もれながら、降りしきる雪の中、天を仰ぎ見る赤ん坊みたいに。


 ああ、馬鹿らしい。何が馬鹿らしいかって?僕は、本当に赤ん坊だったのかもしれない。

 ずっと、考え続けてきた。なぜ、僕は湖凪さんと一年間生きることを決めたのか。


 そして、その感情を答えにできなくて、悩み続けてきた自分が馬鹿らしいのだ。


 単純な話だ。ありふれた冬に耳にする曲の中でも、当然のように歌っているようなことだ。


 僕は彼女が好きなのだ。佐藤湖凪が、好きなのだ。


 死を前にした僕の前に現れた彼女を、美しいと思った瞬間から。僕は、ただ彼女に恋をしていただけだ。

 だから、死ぬまで一緒にいようとする。それだけのことだ。


 ただ、それだけのことだったのだ。


 湖凪さんに手を貸してもらって、起き上がった。その時繋いだ手が、この世に生を受けてから、一番温かく感じたのは、きっと気のせいだ。


 その証拠に、病院に帰り着くまでの間に二人とも大きなくしゃみを連発していたし、病室で試しに体温を測ってみたら、三十五度台だった。


 二人して「雪だるまになったみたいだ」なんて笑いあっていたら、気付けば、もう朝六時が近づいていて。


「おやすみ、湖凪さん」


「おやすみ、奏。でも、寝顔見られるのは、やっぱり恥ずかし」


 そこまで言った途端に、彼女はプツリとシャットダウンがかかったかのように、意識を失った。


 いつもなら、それを見届ければ、すぐに帰路についていたが、今日はなんとなく、寝言もなく、顔を歪ませることもなく、人間味がない、その寝顔を見つめた。


 閉めたカーテンのわずかな隙間から差し込む光が、月光から、朝陽に変わる時間まで、ずっと。


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