冬③

 湖凪さんの涙を、弱音を聞いてから、微かに胸の奥に生まれた違和感を抱きながらも、着々と日々は進んでいった。


 それは、僕たちにとって一歩一歩天国への階段を上っていくような、そんな日常だったはずだが、驚くほどあっけなく、ほとんど何も変わらないまま過ぎていく。


 少しだけ変わったことがあるとするなら、時折湖凪さんの笑顔が鳴りを潜める時間が存在することだった。そして、そのわずかな間だけ、僕に弱音を漏らすようになった。


 晴天の日の夕方に降る短いスコールみたいなものだったが、その瞬間こそ、僕が湖凪さんのことを知る時間だという気がしていた。


 あと、もうひとつ変わった事を挙げるなら、僕の座る位置だ。どうやら、泣き声とともに聞こえた物音は、癇癪を起こした湖凪さんが、僕がいつも座る丸椅子を壊した破壊音だったらしく、見事に四つ脚の一本が折れてしまっていた。


 そのため、僕は彼女が横たわるベッドの端に腰を下ろすようになった。


 心情的にも物理的にも距離が少し近づいた、雪がちらつく日が続く二月の初め。

 その日は、日が暮れてから降り出した稀に見る大雪で、公共交通機関も完全にストップ。


 間一髪で病院の最寄り駅にたどり着いていなければ、湖凪さんと出会ってから初めて病室を訪れない日になっていたかもしれない。


 困った顔をするサラリーマン。どこか弾むような表情をして、身を寄せ合うカップル。

 そんな人の群れを、足元に気をつけながら進んでいく。非常事態にどこか浮き足立つ町は、寒さをあまり感じさせなかった。


 髪の毛とマフラーやコートに降り積もった雪を手で払うと、病室へ向かう。なんとなくそうだろうなとは思っていたが、ノックをして病室に入るなり完全な防寒装備を施した湖凪さんが、今か今かと僕を待っていた。


「奏…行くよ!」


 何もなしと書かれたアドベントカレンダーを突き出すように見せてきた湖凪さんに、僕はため息を返事の代わりにつくと、もう一度コートを羽織りマフラーを巻き直す。そうして、浮かれ足の湖凪さんとともに純白の街に繰り出した。


 何もかもが白い夜だった。口から漏れ出し消えていく吐息も、塗りつぶされたようなアスファルトも、巨大な雲に覆われた空も。


 そして、隣を歩く彼女すらも。


 元々モノクロの服しか着ない彼女だが、病院を出て十分そこそこで二回転んだおかげで、黒いロングコートが白く装飾されている。

 二回目に転んだ時にクスッと笑うと、顔に雪玉をぶつけられた。そこから、バカみたいに数分雪合戦もどきをしたので、実は僕も雪化粧が施されている。

 湖凪さんはあまり運動神経がよろしくないらしい。雪合戦中も明後日の方向に雪玉が飛んでいくわ、ノーコンの雪玉が道沿いの民家の窓に当たって慌てて逃げ出す羽目になるわで、散々だ。


 でも、なぜか温かかった。散々だと思うのに、冬の寒さが体の奥までは染み込んでこないような不思議な感覚がある。

 逃げ出す時に走って、心臓の鼓動が早いから。体温が上がっているから。「ごめんね」と言って、湖凪さんがくれたホットココアの缶が温かいから。きっと、そうだ。


 僕らは道沿いにひっそりと存在する、小さな公園にいた。僕はベンチに腰を下ろし、年甲斐もなく滑り台を滑っている湖凪さんを、呆れながら見ている。


「凄いよ、奏!雪でめちゃくちゃ滑る!」


「転げ落ちないでね」


「なんだと思ってるのさ!」


 運動音痴だと思っているが。そんな思いが顔に出ていたのか、湖凪さんがやけに圧のある笑顔で手招きをしたので、素直に立ち上がる。

 向かった先はブランコ。ただ座る僕と、横で座りながらも漕ぐ湖凪さん。ギコギコという鎖が軋む音と、風切り音だけが静かな公園内に響く。


「奏はさ」


 少し収まって、はらりはらりと降るようになった雪の中、湖凪さんが僕に問いかけた。


「情けないと思わない?死の恐怖を紛らわすために、奏の時間をもらってるのに」


 一瞬の間だけ弱まった降雪。飲み干した缶をべこりと潰して、僕は言葉をゆっくりと吟味して吐き出す。


「そうだな...ただの違いだと思うんだ」


「違い?」


「そう。大事なものが、いくつあるかの違い。それが多ければ多いほど、きっと死ぬのは怖いんだろうなって思う」


 物。人。そして、記憶。大事なものが積み重なるほど、それに火をつけて、灰になるのは怖いに決まってる。

 それが多いか、僕のように無いか、それだけだ。


「だから、いいんだ。時間を奪われる病気にかかったんでしょ?もともと、失うはずだった男の時間くらい、好きに使っても」


 僕の時間を、一年間作った人。正直、まだなぜ、彼女のために生きているのかは、言葉にできないけれど。それでも、それを確かめるための一年だと、最近思うようになった。


「そう、なら私たちの時間は、二人で一つだね。人生の折半だ」


「二人とも、一年だけしかないけどね」


 雪が舞う。いつの間にか、湖凪さんのブランコは静止していて。ゆっくりと僕らの頭上には、雪が積もる。

 その雪のように、僕らの時間の中に、何かが降り積もっていく、そんな大雪の日。

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