春①

 自分の感情に名前がついたからといっても、特に、僕に変化は無かった。そりゃそうだと思う。自覚がなかっただけで、出会った時から、この状態だったのだ。何か変わるはずもない。


 言葉にすると気恥ずかしさがあるが、僕のこれは、世間一般的に言う「初恋」というものだと思うし、向き合い方も、良くわからない。

 何より、僕たちは死ぬのだ。間違いなく。だから、何かを変える必要など、一つもない。


 ただ、僕は湖凪さんの隣に居続ける。そして、彼女に殺される。それで良いのだ。


 今日も、病室に行くと、アドベントカレンダーの中身に従い、湖凪さんと過ごし、彼女が眠るのを見届ける。

 それから、少しの間、湖凪さんの寝顔を見つめるのが日課になったことを、本人には伝えていない。


 そんな日々は過ぎていく。突如、病室に入ったら豆を投げつけられて、部屋を汚し過ぎて、騒ぎを聞きつけた看護婦に二人揃って正座させられたり、チョコを貰ったかと思えば、中身に唐辛子の粉が紛れていて、僕が悶絶したり。そんな二月が過ぎ、また湖凪さんの起きていられる時間が、一時間減ったのを見届けた。


 そして、長い冬が終わりに近づいた頃、ひな祭りは、女の子が主役の日だと言って、甘いもの巡りに連れ出され、それら全てを奢る羽目になったり、ホワイトデーという文化に馴染みがなさ過ぎて、完全に脳裏から抹消し、拗ねられたりと、そんなことをして、また、彼女の起床時間が一時間遅くなるのを見届けた。


 少し、不安が顔を覗かせる時間こそあったけれど、彼女の笑顔は絶えることなく、春を迎えようとしていた。


 しかし、春のことだ。彼女が大きく取り乱すことになったのは。


 その報告が届いたのは、桜の花がちらほら咲き始めた、四月の初めのことだった。


「そう、ですか」


 それは、彼女と同じ病にかかった人間が、昨夜死亡したという報せ。それは、現段階で、この病に対する打つ手が一つもないのだと、ふわふわとしていた死の現実を、湖凪さんに叩き込むには十分な情報だった。


 それを湖凪さんに伝えた藤井先生も、僕も、何も言葉が見つからず、病室に沈黙が降りた。


「佐藤くん…すまない」


「だから、先生のせいじゃないよ。謝らないでよ」


「明日…上から、大きな検査を打診された。すまないが、頼めるかい」


「分かった」


 それだけ言うと、藤井先生はちらりと僕の方を見ると立ち上がり、病室を後にした。


 静かなままの、病室に二人きり。それだけ見れば、いつも通りなのに、どこか日常に亀裂が入ったように感じられた。


「そっか…やっぱり、ダメだね。心のどっかでは期待してたのかな、まだ生きられるって」


 そんな中で、ポツリと湖凪さんがそう言う。そこにはいつも通り笑顔があった。でも、いつも通りの、ではなかった。

 貼り付けたみたいな、乾いた笑い。その違いくらいは、この三ヶ月強でわかるようになっている。


「湖凪さん…」


「大丈夫だよ、奏。まだ、死ぬわけじゃないんだからさ」


 そう言って、彼女は今日の分のアドベントカレンダーの紙を開く。そこには「何もなし」という、救いにも毒にもならない言葉が、僕の文字で書かれていた。

 せめて、この空気を打破するような言葉を期待していたが、間が悪い。


「あはは、やっぱり、神はそうそういないね」


「そうだね…」


 今の湖凪さんが言うと、笑えない。きっと分かってて言っているのだろうが。


「さて、じゃあ、いつもみたいに、お話しようか」


 そう言って始まった、少し淀んだ日常の焼き直し。湖凪さんが喋って、僕が頷きながら、時々たどたどしく話す。

 不思議と、三ヶ月もの間そうして何時間も話しているのに、話題は尽きることはなかった。湖凪さんの手管によるものが大きいと思うけれど。


 でも、今日は違った。時折、沈黙が節々に挟まるようになり、午後三時を回る頃には、完全に沈黙が降りた。


「ごめん、今日はちょっと疲れた…」


 湖凪さんは、ベッドに倒れこむようにしてそう言った。彼女は、意識を失うまで眠れない。

 だから、ただ寝転んだだけなのだけれど、本当に疲れたように見えた。


「明日、大きな検査だっていうからきっと会えないのに、やだな」


「思えば、初めてだ。出会ってから会わない日は」


「そうだね、寂しくて泣かないようにね」


 静寂の中に、そんな短い会話を時折混ぜながら、僕は、彼女が眠る午前五時まで、ただ横にいることしか、出来なかった。

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