夏①


 桜が散り、青葉が栄え始めた四月が終わった。そうしたら、また湖凪さんの時間が奪われていった。陽気から、熱気に変わるのを肌で感じた五月も過ぎ、また、彼女の時間が奪われるのをどうすることもできずに、ただ見ていた。 


 六月が過ぎて初夏になり、日差しがアスファルトと僕らを焼き始めた頃。湖凪さんが起きていられる時間は、当初の半分。一日の四分の一まで減った。


 夜の九時に目を覚まして、夜中の三時に眠る。そんな風になった湖凪さんのそばに、僕は変わらず居続けた。


 その間に、少し変わったことがあるとするならば、どういう交渉をしたのかはわからないが、週に一回ほどならば彼女の外泊が許されるようになった。

 条件はいくつかあるが、基本的には僕が付き添っていればオーケーという感じらしい。


 疲れ果てた顔の藤井先生に「頼んだよ」と、やたらと力のこもった手で肩に手を置かれた時は、流石の僕も無言で頷くしかなかった。


 それはつまり、週に一回湖凪さんが僕の家に泊まりに来ているということだった。その日は、僕が病院に赴くことはない。最寄りの駅まで迎えに行くことはあれど、夕食を作って彼女を迎える側だ。

 常に湖凪さんの病室を訪れる側だった僕としては、すでに数えるのに両手が必要なほどの数をこなしても、迎える側というのは慣れないものだった。


 それでも、彼女はそれを週に一度の楽しみとしてくれているようで、僕はそれを精一杯の夕食で迎え入れることにしている。

 ロールキャベツはもちろん、ホワイトシチューや生姜焼きといった彼女に聞いた思い出の中の味を、僕なりに作って。


 湖凪さんはもしかすると、帰る場所と迎えてくれる人が欲しかったのだろうかと考える。両親も、育ててくれていたらしい祖母も失ない、病室暮らしになった彼女には、それがなかった。

 だからこそ、僕の部屋にそれを求めているのではないだろうか。


 そんなことを考えているうちに、インターホンが鳴った。何を隠そう、今日も湖凪さんが家に来る日だ。


 煮込んでいた豚の角煮の火を止めると、玄関の鍵を開けに行く。もういっそ、合鍵を渡そうかと思い立つけれど、たかが、十数秒の手間を惜しんでいるように見えるのも嫌だなと、結局どっちつかずの思いになって、心のうちに保留した。


「こんばんは、奏」


「こんばんは、湖凪さん。もう、ご飯できるよ」


「今日のご飯は?」


「豚の角煮」と答えると、洗面所に手洗いに行った湖凪さんから、上機嫌そうな鼻歌が聞こえた。

 早速皿に取り分けて、熱々の白米も茶碗によそうと、テーブルに並べた。もう、安いプラスチック皿ではない。

 何度も使うのならばと、湖凪さんと一度、食器類等を買いに赴いたのだ。彼女らしい、少し濁った乳白色の器たちが、随分と部屋の景色に馴染み始めたのを感じる。


 そして夕飯を食べ終わると、湖凪さんが病室から持ってきたアドベントカレンダーの中身を確認する。

 今日は「何もなし」だったから、部屋でゆっくりと、いつものように駄弁り続けた。たまに窓を通り抜けてくる生ぬるい風が、季節の移り変わりを一々僕らに教えているようだった。

 忘れるなと言われ続けているみたいだった。


 意識が奪われる三十分ほど前には、シャワーを浴びて、寝巻きに着替えて、湖凪さんはベッドに入る。黒地にワンポイントの寝巻きも、もう、僕の家に常備されるようになっている。


 そして、それからの時間を僕らは同じ場所で過ごすようになった。必ずベッドに入ってから起こった静寂を切り裂いて、湖凪さんは僕にも同じ場所で眠るように言う。

 僕は、それに従う。従ってしまう。いつも、背中合わせで、眠ったふりをし続ける。でも、僕のそんな狸寝入りが通じるのも、彼女が僕を抱きしめる時までだ。


 表層上は眠ったふりをし続けるけれど、鼓動が粗く鳴り続けているのは、きっと湖凪さんにも気付かれている。

 それでも、湖凪さんは何も言わない。僕も、最初の時みたいに、愚かにも彼女への想いを口走ったりは、しない。


 そして、魔の手が湖凪さんに伸びきったのを確認すると、僕は彼女の寝相を整えてから布団を出る。

 ゆっくりと、整えられた彼女の寝顔を眺め続ける。なぜか不意に、込み上げるものがある時があるのは、月以外には見られていない、僕らだけの秘密だった。


 そして、眠れない夜をまた眠るふりをして過ごして、登校すると学校で眠った。そして、夕飯の買い出しをして家に帰り、夕餉の支度をして、彼女が夢から帰ってくるのを迎える。


 それが、何も変わらない、変わらないでくれと願った、僕たちの普遍的な日々だった。ただ、そんな気持ちを押し殺した日々は長くは続かないものなのだと、思い知ることになる。


 それは、もう夏と呼んで差し支えない季節のことだ。

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