佐藤湖凪②

チクタク、チクタクと、音がする。私を、確実に蝕んでいく音色が、鳴り止まない。私は、後、何秒生きられるのだろうか。

 厳密に数えたことはないけれど、きっと、多く感じる時もあれば、少なく感じる時もある。そんな、なんとも言い難い数のはずだ。


 ごめん。少しだけ嘘をついた。数えたくないのだ。毎秒毎秒、私は終わりへの階段を一段ずつ、一段ずつ、登っている。

 この階段を登りつめた先にあるものが、とても怖くて、得体の知れないものだということだけ、漠然と私は知っている。


 だから、終わりまで後どのくらい登ればいいなんて、きっと知らない方がいいのだ。ゴールが見えなければ、辛く苦しいなんて言葉は、待っているものが素晴らしい時だけのものなのだ。


 私の病室の時計は、私がベッドに横たわった時に、目に入らないように、私の背中側の壁に取り付けてある。出来るだけ、目につかないようにしたかったから。

 特に今日、私と同じ病気にかかった人が、眠るように亡くなったと聞いてからは、震えが止まらなかった。


 なのに、奏へのプレゼントに腕時計を選んだのはなぜだったのだろう。ピンときた、というのはある。彼と見た夜桜を忘れたくなかったというのも大きい。でも、それだけじゃない気がする。なら、一体なぜなのだろう。


 私は、夢を見ない。正しくは、見ることができない。この忌々しい病気は、そういうものなのだそうだ。

 本当に時間を奪われ、じわじわと削られていくそれだけだ。


 だからきっと、夢じゃない。夜桜の舞う二人だけのダンスフロアで、何も考えずに踊った日。あの時だけは、実は私はもう死んでいて、天国にいるんじゃないかってくらい、綺麗で、愛おしい時間を終えた後。


 私は、幸せだからこそ怖くなって、奏のベッドに潜り込んで、彼の飾らない匂いに包まれた。それでも怖かったから、同じ世界に彼も来るように、包まれるように言った。

 渋々といった感じだったけれど、奏は何も言わずに、横に寄り添ってくれた。お互い背中合わせで顔も見えなかったけれど、それでも私は、なんだか満たされた。


 いつもより、意識を奪っていく病気が憎かった。ずっと、この場所に居たかった。ずっと、この時間が続けばいいのにとさえ思った。

 開いた窓の外から、かすかに川のせせらぎの音が聞こえて。なんだか川床の上で眠っているみたいで、心地よかった。


 もういいのにと思った。奏と一緒なら、たとえ三途の川だろうと、ずっと流れていってやると、そう思った。

 清流の音に混じって、私の意識を刈り取るまでのカウントダウンの音が聞こえる。ああ、嫌だと、そう思った。だから、何かにしがみつくように、縋るように、赴くままに彼の細い身体に手を回した。


 ずっと寝たふりをしていた奏の身体が、一瞬痙攣したように震えた。彼の体温を感じる。彼の鼓動の音が聞こえる。

 心音で、あの恐ろしい時計の音は聴こえなくなった。一気に恐怖が和らいだ気がして、ああ、この愛おしい数秒を最後までと、秒針を噛みしめた時だった。


「好きだ。湖凪さん」


 そんな声が聞こえて「私も」なんて、そんな馬鹿なことを返そうとした時に、意識が消失した。

 寝顔が、真っ赤じゃないといいな。あ、そうだ。病気のおかげで、無表情そのものなんだった。


 私は、初めて少しだけ、この忌々しい病魔に感謝した。


 私にとっては、次の瞬間。厳密には、十五時間きっちりたっているのだけれど、私にとっては、本当に軽いタイムスリップ状態なのだ。


 そんな私が感じたのは、優しいトマトソースの匂い。なんでこんな匂いがするのだろうと首を傾げていると、


「おはよう、湖凪さん」


 エプロン姿の、奏がいた。彼の姿を見た瞬間、昨夜の意識が途切れる瞬間のことを思い出して、胸が高鳴っていく。

 そんな内心を隠して、匂いの根源を尋ねると、ロールキャベツを作っているのだという。


 どうやら、以前に私が好きだと言ったのを、覚えてくれていたらしい。私にとって、夕餉の匂いといえばこれだった。

 亡き母親の得意料理で、私が母と喧嘩をした時、私が悪いのに母はいつも、この匂いの中で私を抱きしめて許してくれたのを覚えている。 

 そのあとに二人で笑顔で食べたロールキャベツを浮かべて、奏にそんな思い出を話した。


 不意に、奏とのそんな未来を想像してしまった。

奏と所帯を持って。そしたら、私は料理があまり得意ではないから、日曜日の夜に、奏がロールキャベツを作ってくれて。

 そんな、淡い未来を想像してしまった。幻聴かもしれないあんな一言で飛躍しすぎだと苦笑するけれど、病院で検査を終えて、奏に会いたいと思った時から、薄々と気づいてしまっていた気持ちが、確信に変わっただけのことだ。


 私はきっと、奏が好きだ。きっと、もしかしたら、メイビー。奏も同じように想ってくれているのかもしれない。でも、だからこそ口には出せなかった。

 だって、私は死ぬのだ。そして、同じく奏も私が殺す。その約束を、この言葉を口にしてしまったら、守れない気がした。


 ーーーあなたに、ずっと私の思い出を抱えながらも生きて欲しいなんて、思ってしまいそうだったから。


 だからだと思う。奏に腕時計を贈ったのは。夜桜とともに自覚した想いを、彼に。そして、この思い出から、せめてもの言葉にできない想いを形にしたものと一緒に、時を刻んで欲しかった。最期の刻まで。


 ねえ、君が階段を一緒に登ってくれるから、私は怖くないよ。なんて、きっと私は言えないから。

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