夏②

よく、夏の匂いというけれど、僕は未だにその匂いの正体を知らないでいる。僕にとって、いや、僕たちにとっては最後の夏になる。だから、今年こそはその匂いの正体を確かめたいと思う。


 だが、そんなことを考えている最中に、はたと気づいた。そんな抽象的なものを見つけられる程、夏に外出をしていなかったなと。

 通りでどんなものか想像もつかないわけだと、過去を回想して夏の思い出など一つも出てこない自分に嫌な納得を覚える。


 ただ、今年はよく外出する夏になりそうだ。日が沈んで、少し蒸し暑いくらいの気温で留まっている街を、いつも通り病院に向かって歩きながら、アドベントカレンダーに自分が何を書いて入れたか、思い出そうとする。


 かき氷を食べる。を入れたことだけ思い出す頃には、もう病室の前だ。湖凪さんが目を覚ます、午後二十一時を、十数分過ぎただろうか。ノックを鳴らすと、珍しく中から返事がなかった。


 不思議に思い「入りますよ?」とだけ声をかけ病室に入ると、いつも彼女がいるはずのベッドの上は、もぬけの殻だった。


「…湖凪さん?」


 特にシャワーの音も聞こえず、トイレも使用中になっているわけでもない。キョロキョロと周りを見渡しても、少し乱雑にめくり上がった掛け布団ぐらいの違和感しか感じ取れない。

 なんだか、嫌な予感がした。根拠はないけれど、どこか日常にヒビが入っていくような、そんな感覚があった。


 病室の中央で、立ち尽くす。外から聞こえる虫の鳴き声が、なぜか僕に虫の知らせという言葉を思い出させた。


「天野くん」


 そんな逡巡を打ち破ったのは、少し硬い男性の声だった。


「藤井先生…」


 安堵しかけた心が、先生の顔を見て不安に一転する。いつものどこか疲れたような顔ではなく、彼の顔にはどこか緊迫の色があった。


「藤井先生…湖凪さんは?」


「そのことで、少し話があるから、天野くんも来てくれ」


「話…」


 心の中の不安感が、どんどんと嵩を増していく。暑さのせいではない、粘度の高い嫌な汗が額に浮かんで気持ちが悪い。


 足早にどこかへ向かう先生の背を追った。僕がたどり着いたのは、関係者以外立ち入り禁止と書かれた、会議室のような場所だった。


 そこには、たくさんの人がいた。詳しく言えば、たくさんの大人がいた。その大半が白衣を着ているところを見るに、藤井先生のご同業だろう。病院内なのだから、当たり前ではあるが。

 その誰もが、部屋に入ってきた僕に視線を向けてきた。少なくとも好意的なものではない気がしたが、今の僕にはそんなことはどうでも良かった。


「奏…」


「湖凪さん…!」


 そんな中、僕の目は入り口のすぐそばに座る一人に釘付けだった。言うまでもなく、湖凪さんだ。

 彼女の姿を視認した瞬間、名前を呼ばれた瞬間、僕は、膝から崩れ落ちそうだった。内心を支配していた焦燥が一気に晴れて、力が抜けそうだったのだ。


「天野くん、佐藤くんの隣に腰掛けてくれ」


 藤井先生は、僕にそう告げるとロの形に配置された机の、僕たちとは対角線上にある場所に着席し、隣のどこか威厳を感じる人間に何かを囁いた。


「揃ったようなので、話を始めようか」


 藤井先生の隣の人間が、年季を感じる重い声でそう言った瞬間に、少々さざめいていた部屋の中が、一気に凪へと変わった。

 僕はわけもわからないまま、椅子に腰掛け、視線をどこにやるかで迷っていた。


「皆には先ほど概略を話したと思うが、藤井先生。新しく来た彼にも追って説明を」


「はい。天野くん。その様子だと何も見ていないようだから、一から説明しようと思う。スマホを持っているかい?」


「…?持ってますが」


「なら、それで『眠り姫症候群」と検索してくれたまえ」


 慣れないフリック入力で、言われた通りに検索サイトで文字を打ち込む。そして、画面が切り替わった瞬間、僕はなぜこんなにも大人たちが神妙な顔をして一堂に会しているのかを理解した。


「これって…」


 ずらっと並んだ候補サイトの一番上に、最新のニュースが表示されていた。その記事の見出しには『存在した奇病!?都市伝説ではなかった、歌姫の病気」という、話題性を煽るような文字が躍っていた。


「見て貰ったように、なぜか佐藤くんの病気のことが、外部に漏れてしまっているんだ。しかも、記事には名前が伏せられているとはいえ、この病院のことまで書かれている」


 記事を流し読みしてみると、出鱈目な部分も多いもののところどころに真実が混ぜ込まれていて、やけにリアリティを感じる。

 特に、数枚載せられている写真では、この病院の写真。そして、


「僕らの写真…」


 顔にモザイク写真入れられているものの、街を歩く僕らの写真が載っていた。病気にかかった美しい少女Aと、その介添人の少年Bという解説が、なぜか自分のこととは思えない遠い世界のことのように感じた。


「事態は理解してもらえたようだな。それでは、本題に入ろうか。天野くんといったな。患者の病気のことを、誰かに漏らしたりはしていないだろうか?」


 会議を仕切る、声の矛先が僕に向いた。そこまで来て、遅まきながらようやく僕は気づいた。自分が疑われているということに。


「いいえ。言った覚えはないですし、言うような相手もいませんね」


 僕がそう言うと、横の湖凪さんが小さく吹き出したのがわかった。友達がいなくて悪かったな。この場合は幸いだろうか?

 ただ、僕が疑われるのももっともだと思う。彼ら側から見れば、唯一患者の病気のことを知っている一般人であり、大半の時間を過ごしている人間だ。もちろん、自分たちの身内を疑いたくないというのもあるだろう。


「はい、そうですか。と言えないというのも、分かって欲しい。すまないが、君のスマートフォンの中身を改めさせてもらってもいいだろうか。協力してもらえると助かる」


 口では丁寧な言葉を使いながらも、一切こちらを信じていないのが丸分かりの口調だ。

 プライバシーの侵害だとか、なんの権利があってだのということは可能なのだろうが、それをすると疑いが加速するばかりなので、ため息一つで不愉快を飲み込むと、机の上にスマートフォンを置き、いくらでもどうぞというような態度をとる。

 元からパスワードもかかっていなければ、見られて困るものも何もないので、不快感を度外視すれば、何も問題はなかった。


 その旨を伝えると、僕の机からスマートフォンを取り上げた何名かがいそいそと会議室を出て行く。

 当然無駄骨になるだろうけれど、彼らとしてはその無駄骨と引き換えに一時の安心が欲しいのだろう。


「さて、それでは次の議題に入ろうと思う。この記事のせいで記者や野次馬、さらには妙な人間まで幅広い層から、我が病院に問い合わせが相次いでいる。奇病はあるのか、感染る可能性はないのか、取材をさせろなど色々ね」


 人々の好奇心とはとても面倒なものだ。その好奇心で、人の聖域を荒らすなんて考えもせず、自らの欲や安心を満たそうとする。


「今の所はそんなものはないで通しているし、今後もそのつもりだが...君たちの写真が記事に載ってしまっているのも事実。患者を含めた、君たちに危害が及ぶ可能性もある」


 冷たい目がこちらを射抜いている。何か含みがあるのも分かっているので、聞き返す。


「要するに、何が言いたいんです?」


「しばらく、君に患者との接触を控えてもらおうと思っている。面会謝絶、というものだ」


 なるほど、と思う。僕らへの危害を心配するふりをして、面倒を回避したいということだろうか。

 そんなこと、僕らが知ったことじゃないが、湖凪さんに危害が及ぶなら...と頭の中で様々な考えが、浮かんでは消えて行く。


「お断りします」


 そんな思考を断ち切ったのは、隣から聞こえた、はっきりとした拒絶の声だった。


「なに?」


「お断りしますと言ったのですが」


「面会謝絶、というのは患者側の意思で拒否できるものではない」


「なら、退院します。今までお世話になりました」


 湖凪さんの言葉に、僕を含めた全員が口をあんぐりと開ける。


「未だ原因もわかっていない病気の人間を、退院させられるわけがないだろう」


「おかしいですね。病気かどうかもわからないので、入院という名を借りた観察という面目だと聞いていたのですけれど。それから、別に今、病院を離れて困ることは一つもありませんよ。特に投薬なんかをされているわけでもないですし」


 言外に、別にお前たち何もしていないだろう。と言っている湖凪さんに、ある人間は悔しそうに歯噛みし、ある人間は厳しい目を向けている。


「…それを、確かめて君を治すのが、私たちの仕事だ」


「それは、私が治すのを希望してる場合だけですよね?」


「何だと?」


「わかりません?奏と離れるくらいなら、別に治さなくていいんです。こんな病気。そんなくらいなら、私は、彼と共に過ごして死ぬことを選びます」


「湖凪さん…」


 湖凪さんの言葉に、そんな場合じゃないのを分かっていながら、思わず熱を帯びた呟きが漏れた。


「退院させてくれるか、それとも、面会謝絶なんてものを取り消すかのどちらかです」


 「どうですか?院長先生」という湖凪さんの問いかけに、院長と呼ばれた彼は歯噛みする。何となく察してはいたが、病院のトップだったらしい。


「…少し、時間を貰おう。病室で、待っているように」


 そう言うと、周りの何人かとともに、扉の向こうに消えて行った。それに、あっかんべーと舌を出した湖凪さんは、僕に微笑みかけると「さ、帰ろう。奏」と、僕の手を引く。


 帰ろうという言葉が、いつまでも残響している気がした。病室に帰っても、もう虫の声は聞こえなかった。

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