夏③

「バッチリ写真撮られてるねー私たち。病院出るとこかな?」


 病室に帰って、僕たちはベッドに並んで腰掛けた。あいも変わらず、この部屋には、湖凪さんが壊して以来椅子がない。

 買えばいいのだろうけど、どちらも言い出さないから、そのまま。


 湖凪さんは、なぜか笑顔で、普段はあまり使用していないスマートフォンを眺めていた。

 表示されているのは、当然というか例の記事なので、笑顔になる要因はあまりないと思うのだけれど。


「よかったね。お互い、モザイクがかかってても、気づくような人間がいなくて」


「…んー、そうだね」


 湖凪さんは若干僕を憐れむように、肩をポンポンと叩く。まるで自分は違うとでも言いたげだが、僕と出会ってからこの人が僕と藤井先生以外と喋ってるのなんて、見たことがない。


「それにしても、どうしよっか。退院することになったらさ。奏の家に住むことにしようかな」


「いいよ」


「あっさりと許可してくれるんだね」


「今更だしね」


「それもそっか」


 少しだけ、強がった。でも、僕が毎日押しかけているのが、湖凪さんが常に押しかけている状態に変わるだけだと思えば、さして変わらないと思うのも事実だった。


「じゃ、残ることになったらどうしよっか。今日来るとき、誰かに話しかけられたりしなかった?」


「しなかったと思うけど」


「尾けられたりは?」


「多分…してないと思うけど」


「どうかなー、奏は思ったより鈍いところがあるからな」


「まあ、尾けられたとしても、関係ないよ。走ってここに来るだけ」


「ま、なんとかなるよね」


 湖凪さんは、そう言って楽観的に笑う。彼女が笑えば、なぜだか本当に大丈夫な気がしてくる。惚れた弱みなのだろうか。


 そんな会話を終えた時、藤井先生が頭をかきむしったのか、少し乱れた髪で病室に入ってきた。


「佐藤くん…君は本当に…」


「あはは、ごめんね。藤井先生。でも、ああでも言わないと、本当に奏と引き離されてたでしょ?」


「院長とか他のお偉方がカンカンでね…板挟みの僕はストレスで死にそうだよ」


「あの…ご苦労様です」


 僕が心の底から同情の気持ちを込めて労わりの言葉を投げかけると、藤井先生は「分かってくれるか」とでも言いたそうな顔で、僕の肩を掴んだ。

 この人、随分と疲れた顔が似合うようになってしまったなと、顔が引き攣る。


「それで?退院?」


「いや、それは省庁のお偉方も許さないってことになってね…奏くんとの接触を許可するから、頼むから残ってくれてさ…」


「なんだ、奏の家に住むのも悪くないと思ってたところなのに」


 湖凪さんは、唇を尖らせてそんなことを言うが、どこか安堵した顔をしている気がした。なんだかんだで、ここに思い入れがあるのかもしれない。


「ただ、ここからは真面目な話だが。十分気をつけてくれ。妙な記者だの野次馬だのが、君たちに気づくかもしれない。万が一、話しかけられた時は、素知らぬ顔をしてうまく誤魔化してくれ」


「分かりました」


「うん、分かってる」


「まあ、あとのことは大人たちに任せて、君たちは楽しんでくれ。そのために、僕も頑張っているわけだからね。もっと、頑張れないのが口惜しいところだけれど」


 藤井先生は、湖凪さんを横目に見てそう言うと、病室を後にした。やはり、医者の本懐を務められていない悔しさは常に燻っているのだろう。


「湖凪さん」


「なに?」


「藤井先生が、主治医さんで良かったね」


「うん、本当にね」


 時計を見ると、時刻は十一時過ぎ。随分と、貴重な時間を使ってしまった。


「さて、今日の分のアドベントカレンダーを開けようか」


 やはり、こういう時にこそ神の遊び心というのは発揮されるらしく、僕たちは深夜営業の喫茶店に行くことになった。

 少し警戒して病院の敷地を出たのだけれど、結局、行きも帰りも特に変わったことはなかった。


 それで油断していた部分もあったのかもしれない。面倒ごとが起きたのは、それから三日後のことだった。

 随分と暑い日だった。僕は一刻も早く病院内の冷えた空気にありつきたくて、早足で敷地内に入ろうとした。

 だからかもしれない。門の近くに人がいるのに気づけなかった。


「すいませーん」


 後ろから、声がした。それに振り向いてしまった迂闊さが、最初の僕のミスだった。


「私、こういうものなんですけど、少しお話いいですか?」


 立ち止まった僕の前に回り込み、嘘くさい愛想を貼り付けた男が、名刺のようなものを渡してきた。

 月明かりで見えにくかったけれど、どうやらどこかの記者らしい。そして、その名前には見覚えがあった。


「(こいつ…あの記事を書いて写真を撮ったやつか…)


 確かに記事の最終行に名前の記載があったのを覚えている。忌々しいと思って眺めたから、記憶に焼き付いているのだ。


「すいません、急いでいるので」


 なんとか無表情を貫いて通り過ぎようとすると、記者の男は横を並走するように付きまとってきた。


「そんなに、お時間取らせないので」


「ちょっとだけでも」


 様々な言葉で、僕の足を止めようとしてきたが、すでに湖凪さんが起きている時間だ。こんな男に時間を使うのは惜しかった。


 病院の出入り口にたどり着いても、彼はしつこかった。流石に院内まではついてこなかったけれど、この分だと明日もこうなのだろうかと、ため息が出そうになる。


 あの記事の影響はそこそこ大きかったようで、ここ数日院内は忙しなかったのだと、藤井先生が言っていた。まだ続きそうだなと、深くため息を吐く。


 ノックして病室に入ると、すでに湖凪さんは着替え終えていて、アドベントカレンダーの中身を掲げて立っていた。


「さ、奏。かき氷食べに行くよ!」


「それなんだけどさ、湖凪さん」


 僕が病院の前で記者に話しかけられたことを話すと、湖凪さんは非常にめんどくさそうな顔をした。


「うわー…ついにか」


「どうする?この病院、裏口とかあったっけ?」


「んー、そのまま行こうよ。だって、あの記事書いた人だってことは、少なくとも私が本当に病気なことはバレてるわけでしょ?なら、もう仕方ないじゃん」


「でも、カモがネギ背負って行くようなもんだよ?」


「無視すればいいでしょ。最悪、警察呼べばいいし。藤井先生に言われた通り、知らぬ存ぜぬで」


「大丈夫?」


「大丈夫だよ。奏もいるし、いざとなったら守ってよね?」


「…そうだね、僕を殺す人がいなくなったら、困るからね」


 大げさだと笑う彼女とともに、いつものように病院の外に出た。向こうも、まさか堂々と出てくるとは思っていなかったのか、驚いた様子だったが、結局はしつこく質問責めにしてきた。

 その質問の中にはわざと僕らを怒らせようというものもあった気がしたけれど、湖凪さんの横にいれば柳に風状態だった。

 その僕らの態度に、記者は鼻白んだ様子だったのが小気味よかった。一つだけ、取引として情報提供者を教える代わりにインタビューさせろ、というのがあって気になったけれど、どうせ嘘なのでスルーした。

 付きまといは数分にわたって続いたけれど、いつしか去っていった。僕と湖凪さんは、特に気にせず、そのまま歩いた。


「しつこかったね」


「予想以上だった。早く、かき氷で口直しをしに行こう」


 僕たちは二十四時間営業のファミレスで、やたらと大きなかき氷を食べた。頭が痛くなって笑われたお返しに、湖凪さんの皿の上のイチゴを食べたら、襟を掴んで前後に揺らされてもう一品頼まされる羽目になった。


「でも、あの人はそこそこ見る目があるね」


「あの記者のこと?」


「そうそう、私のこと美少女って書いてたでしょ?照れるね」


 湖凪さんは手に持った銀スプーンに映った自分の顔を眺めて、そんなことを言った。それだと婉曲して綺麗に見えないと思うのだが。


「そうかも。そこだけは見る目がある」


「………」


「どうしたの?」


「なんでもない」


 急に押し黙った湖凪さんに問いかけると、無言で口にかき氷を突っ込まれた。再び頭に響く痛みが到来して、顔をしかめた。その時の彼女の顔を見ていれば何か変わったのだろうかと、そう思う日があることを、僕は知らない。

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