夏④
本格的に夏が来て、また湖凪さんの起きていられる時間が一時間減った。短い命の輝きを、僕らに知らしめるように大声で鳴く蝉が、今年は不思議と鬱陶しく感じなかった。
溶けてしまいそうなほど暑いというのに、相変わらず記者は数日に一回僕らの前に現れては付き纏い、気づけば視界から消えている。その粘着質な情熱を、願わくば別のところに向けて欲しいと思うばかりだ。
そんな、茹だるようなある日。彼女が目覚める二十一時を待って、僕たちはいつも通り街に繰り出した。この頃になると、こんな時間でも蒸し暑く、熱気が身体に絡みつくようで、じんわりと各所に汗が滲んだ。
今日開けたアドベントカレンダーの中身は「三段重ねのアイスを食べる」だったので、思い当たる日本で有名なアイスクリームチェーン店に赴いてみたら、見事に閉店していた。 肩を落として別のお店を探して歩いている時だった。
「湖凪!?」
背後から声をかけられた。僕ではなく、隣であくびを噛み殺している人がだが。ゆっくりと後ろを振り向くと、そこには数人の若者の集団がいて、そのうちの一人が僕らを呼び止めたようだった。
状況がよく分からず湖凪さんの顔を見つめると、湖凪さんは困ったような、少し気まずいような顔をしていた。表情をコロコロ変える彼女だけれど、どうしたらいいか迷っているような顔はあまり見たことがなかったので驚いた。
「湖凪でしょ…?急に連絡取れなくなって、教務課に聞いたら大学やめたって言うし、心配してたんだよ!?」
「あはは…ごめん。久しぶりだね、この通り元気だよ」
見てくれだけは確かに元気だ。と思ったけれど、口にしない。それくらいの分別はある。
「なんで、大学辞めたの…?それに、その子は?」
どうやら大学時代の友人らしいその女性は、湖凪さんを質問攻めにしている。それくらい唐突に湖凪さんは彼女の世界から消えたのだろう。
「ちょ、落ち着いて、真美。せめて、どこかに入って話そう?」
どんどん白熱してくる友人の姿を見かねたのか、湖凪さんは、初めて見るほどの強引さですぐ横に見えたファミレスを指差し、女性の腕を引いた。
湖凪さんが行くなら僕が行かないわけにもいかないので、二人の後を追って店内へと入ると、四人掛けのボックス席へと腰を下ろした。真美と呼ばれた女性は湖凪さんの正面に、僕は隣にという配置で。
お冷を持ってきた店員さんに人数分のドリンクバーを注文し終えたのを合図にして、真美さんが湖凪さんに食ってかかる。
「湖凪!心配したのよ!いきなり音信不通になって!」
「いやー、返す言葉がございませんで…」
「しかも、大学辞めてるし!」
「あはは」
「あははじゃない!」
本当に返す言葉がないらしく、湖凪さんは頭を掻くような仕草をしてお茶を濁している。いつでもしたいことをして、言いたいことを言うイメージのある湖凪さんにしては実に珍しい光景だ。
「まあ、元気そうでよかったけど。急に大学辞めちゃって、何してたの?」
真美さんはチラッと僕に一瞥をくれると、そんなことを湖凪さんに尋ねる。答えられるはずもないことを。
「いやー、何って言われると…特に何も?」
「はあ?」
どうやら、真美さんというのは随分と気の強い方らしく、鋭い眼光で湖凪さんはタジタジだ。僕はその鋭さの中に心配だとか、寂しさだとか、そういったものも十二分に見受けられるので何も言わないでいる。
「特にって…大学辞めた理由も特にないってこと?あんだけ真面目に授業受けてたのに?」
「理由は…一応あるっちゃあるけど…」
煮え切らない態度に痺れを切らしたのか、真美さんの視線が僕へと向けられる。
「ね、それで君はなんなの?湖凪の、なんなの?」
「え?」
突然ぶつけられた疑問に、僕の思考は一瞬動きを止めた。それをなんとか起動させると、頭の中で、与えられた疑問を復唱した。
「(君はなんなの…か。湖凪さんの、なんなのか)」
僕の方も答えに窮したのを見て、真美さんは呆れたように、大きなため息を一つ吐いた。そんなものが気にならないほど、僕の目の前にはただ疑問が立ち尽くしている。
僕の頭の中に、さまざまな関係性を表す言葉が浮かんでは消えていく。家族、恋人、友人、知り合い、顔見知り、あとは…
答えがあるのかないのかもわからない五里霧中へと放り込まれたみたいだった。どれも答えにしようと思えば答えに仕立て上げるくらいには近くて、でも否定にはより近いような気がした。
「ね、真美。急に黙っていなくなっちゃったのは、本当にごめんって思ってる」
「湖凪…」
「真美が疑問に思ってるだろうことも、ちゃんと理由があるの。でも、言えない。言えないんだ」
「私にも…言えないの?」
その震えた声で紡がれた言葉から、湖凪さんと真美さんが、在りし日にどんな関係だったのか、その表面上だけがわかった気がした。
でも、その縋るみたいに聞こえた言葉に、湖凪さんは静かな笑顔ではっきりと言い切った。
「うん。ごめんね。真美じゃだめだ」
その言葉を皮切りに、この場の結論が決まった気がした。これ以上の会話は、きっとただの名残惜しさだ。
真美さんもそう思ったのか、ゆっくりと立ち上がり、伝票を手にするとレジへと向かっていった。
僕らも財布を持って、立ち上がって背を追う。数枚の小銭をトレイに置こうとすると、それを制された。
「いいの、勝手に連れてきたんだから。湖凪もね」
目を見るとなぜだか意思は堅いようで、僕は渋々財布に小銭を戻した。湖凪さんもそうだった。
「悪いよ、真美」
「…そう思うなら、次はあなたが奢りなさいよ。抱えてる問題が解決したら、絶対に会いにきなさい」
その言葉に、湖凪さんは今日のうちで一番困った顔をして笑った。胸中を推し量るように、珍しい湖凪さんの顔を横目で見ていると、真美さんが僕に手招きをした。
数歩近づくと、耳を引き寄せられて、小さな声でこう言われた。
「私じゃダメだってことは、君ならいいのかな?湖凪をあんなに豊かにしたのは、君なのかな?」
「豊か…?」
「そうよ、湖凪って無表情で有名だったんだから。君と歩いてる時の表情見て、最初は湖凪だってわからなかったわよ」
その言葉で、少し前に藤井先生が言っていたことを思い出した。曰く、少し前まで湖凪さんは、無口でわがまま一つ言わない少女だったと。病気で落ち込んでそうなっていたのかと思ったが、どうやら生来からそうだったらしい。今では想像もつかないけれど。
「じゃ、またね」
そんな簡素な挨拶だけ残して、真美さんはネオンの光る街の方向へと消えていった。湖凪さんはそれを見送ると、無言で僕の手をとって歩き出した。行き先は聞かなかった。湖凪さんも決めていないことはわかっていたから。
結局そのまま街をふらふらと歩いた。三十分くらいのその時間は、とても珍しいものだった。時間というものを否応にも意識する湖凪さんは、あまり時間を無駄にはしない。時間を無駄にすると決めた上での、彼女にとって意味のある真っ白な時間は幾つか共にしてきたけれど、こうやって何か受け入れられないものを馴染ませるように、ただ時間を過ぎ行かせるようなのはあまり覚えがない。
つまり、それくらい湖凪さんにとって真美さんは心の奥深くに影響を与え得る人物だったということだ。
ぐるりと街を一周して病院近くに戻って来ると、小さなコンビニに入った。すっかり忘れていたけれど、僕達の目的は三段重ねのアイスを食べることなのだ。時間も時間で、どうしようもなさそうだったので、アイスをそれぞれ三つずつ買って紙コップに叩き込んで疑似的な三段アイスを作った。
二人で並んで一つの銀色のバリカーに腰かけて、スプーンを口に運んだ。死ぬまでに贅沢してやろうというスタンスが最近根付いてきた僕らは、何も言わなくてもクーラーボックスの端の少しお高いゾーンから三つ選んだ。バニラ、ストロベリー、抹茶。夏の生温い風に負けて液状化して、それら紙皿の底で混ざった毒々しい色のものは、値段と関係なく不味くて顔を顰めた。
湖凪さんはバニラを三段重ねにしていた。不恰好な重ね方のせいで、ただバニラアイスを食べすぎている人にしか見えない。いつも甘いものを食べている時はこの上なく幸せそうにしているのに、今日はそれも控えめで濁った夜空をぼんやりと眺めていた。
すでに時刻は、深夜一時過ぎ。湖凪さんが眠ってしまうまで、あと二時間を切った。今日という日が終わってしまうのを、湖凪さんは一体どう感じているのだろうか。
「冷たくて美味しいね」
「そうだね」
すでに半分溶けてぬるいはずのアイスを片手に、そんな益体のない会話をして場を繋ぐ。アイスを含んで。言葉を発する以外の目的で口を動かして、誤魔化し続ける。
「ね、最後に真美に何言われたの?」
「…内緒」
「内緒かあ」
思えば、湖凪さんに何か隠し事をしたのは初めてな気がした。湖凪さんは、それを大して気にした風もなしに、アイスの最後の一口を頬張った。
大きめの一口を無理して口を開けて食べたせいか、頭が冷えて痛くなったらしく顔を顰める。温めるように頭をさすると、顰めっ面のままポツリポツリと湖凪さんは昔話を語った。
「真美ってさ、とっても気が強い子なの」
「だろうね」
僕はファミレスでのやりとりを思い出して苦笑する。想像がつく。
「でもね、弱い子なの。恋人に振られた時だって、泣いて寝込んで、私の家に二週間近くも引きこもって、それでもしばらく大学には行けなくてさ」
バリカーにバランス良く座って、足をぷらぷらさせながら湖凪さんは困った顔で思いを馳せている。今日は、ずっと困った顔をしている。陰った顔も、夜が似合うだけあって綺麗だと思う。
「だからさ、言えなかった。死んじゃうんだ、なんて」
「でも、勝手にいなくなったんでしょ?それもきっと悲しかったと思うよ」
「痛いとこつくね…でも、あの頃私はギリギリで、早晩きっとバレちゃっただろうから、そうするしかなかった」
「…不器用」
「不器用な優しさって、いい響きじゃない」
湖凪さんは紙皿をゴミ箱に捨てると、何も言わずに歩き出した。僕は慌てて紙皿を捨てて後を追う。
追いついて、今度は僕から手を握った。目は合わせなかった。病院への帰り道の途中、一言だけ湖凪さんは「あの子さ、もし私が死んだって聞いても大丈夫かな。泣いて、塞ぎ込んでも、立ち直れるかな」と、そう呟いた。
震える声に、僕は何も言わなかった。ただ、シャットダウンが近づき、ベッドに横たわる湖凪さんに「じゃあ、僕は強い人に見えましたか」と尋ねた。
湖凪さんは、何も言わなかった。何も言わずに眠りに落ちていった。
湖凪さんは、自分がいなくなって悲しむ人の感情まで背負って今日を生きている。残り少ない日々を、噛み締めるように生きている。
『ね、それで君はなんなの?湖凪の、なんなの?』
僕はそんな優しいあなたの、なんなのか。その答えだけは頑なに出ずに、ゆっくりと夜は更けていく。
安らかな寝顔を見ながら、僕は考え続ける。あなたの何で在りたいのかを。
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