春④

浮かれ気分で期待に胸躍らせる新入生の波をかき分けて、自らのクラスを確認し、教室に向かった。

 一階の端に存在する教室は、あの、湖凪さんと過ごす病室を思わせた。天野なんて名字をしているせいで、窓際の前列から二番目の席が指定されていた。

 これは、授業中に寝ているとうるさいかもなと、心の中で舌打ちをしながら、机に突っ伏し、狸寝入りをして、始業を待った。


 一年間僕らを受け持つ担任は、前年度から僕たちの現代文を担当していた、少しくたびれたような中年だった。

 初日なので、教科書を配られたり、簡単な自己紹介をさせられた。流石に三年生ともなると、湧き上がるような熱気もなく、僕は簡潔に名前だけを告げると、机に突っ伏して居眠りをした。


 気づけば、長いHRは終わっていて、一、二年は午前中で帰宅できるらしいが、三年生にもなると、進路ガイダンスなり、なんなりがあるらしく、講堂に集められた。


 進路、と言われても、正直十二月にこの世を旅立つ僕には、必要ない。だから、壇上で真剣な顔と声色で、人生の岐路を語る教師の言葉は、微塵も耳に入って来なかった。


 就職、進学。そんな言葉が、うつらうつらと揺れる僕の耳に入っては消えていく。そんな、夢の浅瀬で、もし湖凪さんの続きがあれば、どのように路を進んでいたのだろうと、夢想した。


 あっけらかんと大学を辞めた湖凪さんだけれど、大学では、薬学を学んでいたらしいので、薬剤師なんかになっていたのかもしれない。

 白衣を着て、にこやかに毎日を過ごして。医者か、それとも訪れる客だったりするのだろうか。そんな人と恋をして、笑顔の溢れる家庭を作って。そうやって、生きていくはずだったのだと思う。


 そんな未来図はもうどこにもないし、そこに僕はいない。それでも、この悪夢みたいな現実より、温かい夢を考えてしまうときもきっとある。

 だから湖凪さんは泣くのだと、夢の中で彼女の悲しみを追体験したような気がした。


 そんな夢を見ている僕の頭に、唐突な衝撃が走った。ハッとして現実に引き戻された僕の視界に映ったのは、ガイダンス概要の冊子を丸めて仁王立ちする担任の姿だった。


「一番前列で爆睡とはいい度胸だな」


「たとえ壇上だろうと入眠してみせますよ」


 そんな軽口を不遜にも叩きながら周りを見渡すと、どうやらガイダンスは終了したらしい。既に、周りに生徒は一人もいなかった。残念ながら、起こしてくれる友人も顔見知りも一人もいないので、熟睡するとこうなるのも必然と言えた。


「推薦入試を考えてないなら、そいつら以外は今日の授業は終わりだ。もう帰っていいぞ。といっても、この態度で推薦狙ってるなら、本当に大したタマだが」


「なら、失礼します」


 時間を確認すると、三時すぎといったところだった。昨日冷蔵庫の中身が空なのは確認済みなので、食材を買い足し、湖凪さんの目覚めに合わせて夕飯を作っておくには、十分な時間と言えた。


 呆れた顔をした担任に一礼して背を向けると「気をつけて帰れよ」と言う声が聞こえた。こんな問題児にすら、温かい言葉をかけてくれるあの人は、きっといい人なんだろうなと思った。名前も覚えていないけれど。


 すでに無人の教室に戻り、貰ったばかりの重い教科書を全てロッカーに叩き込むと、中身が殆ど空同然の軽いカバンを肩から下げ、校門を出た。


 最寄りの駅に併設されたスーパーマーケットで、夕飯の買い出しをすることにした。春キャベツが安かったので、作るのが少し手間だが、湖凪さんが好きだといっていたロールキャベツを作ろうと、コンソメと、ひき肉と、ジャガイモを買って帰った。


 街に夕焼け小焼けが鳴り響く前には家にたどり着いて「ただいま」と言った。返事がないのはいつものことなのに、いつものことじゃない寝息が、愛おしい。


 制服を脱ぎ捨て、洗濯機に突っ込むと、顔を洗った。割と新しいはずのTシャツと、ジーパンを身につけ、今朝家を出た時と、何も変わらない湖凪さんに、もう一度「ただいま」を言った。


 そうしたら、早速エプロンを身につけて、ロールキャベツを作る準備に取り掛かった。一人で生きていくために、最低限の家事技術は持っているし、料理はどちらかというと、得意な方だ。なまじ技術を持ってしまった故に、雑でもある程度の味になるので、普段はサボりがちだが。


 若干、キャベツの葉の端を焦がしながらも、あと少し、煮込めば完成だという段になった時には、湖凪さんが起きるまで、あと数分といったところだった。


 トマトソースの香りが立ち込める中、湖凪さんは目を覚ました。夢の残り香など、一切感じさせない様子で。


「おはよう、湖凪さん」


「おはよう、奏。いい匂いがするね」


「ロールキャベツを作ったんだ。一緒に食べよう」


「ロールキャベツ!?」


 湖凪さんは、寝ぼけた雰囲気が一切ないのを感じさせるように、勢いよくベッドから跳ね起きると、キッチンへと駆け寄ってくる。

 哀れにも跳ね除けられた掛け布団が、柔らかい音を立てて床に横たわる。


「もう少し煮込まなきゃいけないから、待っていて」


「何か手伝うことない?」


「うーん、炊いたご飯をよそっておいて」


「わかった」


 開けた炊飯器から漏れる湯気が、湖凪さんをぼやかしたのを見て、今日見た温かな夢を思い出した。僕の存在しない夢を。

 馬鹿らしいと思いながら、コンロの火を消した。まるで血の色みたいな、トマトソースごと、ロールキャベツを皿に盛り付けた。


「いただきます!」


「どうぞ」


 どうやら、本当に大好物といっても差し支えない料理だったらしく、湖凪さんはいつも以上の笑顔で、箸を勢いよく進めていた。


「これね、お母さんの得意料理だったんだー…」


「そうだったんだ」


 湖凪さんの両親は、すでに他界していると聞いている。ありふれた交通事故で、彼女が中学生の時だったそうだ。


「それから、母方のおばあちゃんの家に引き取られて、お母さんに料理教えたの、おばあちゃんだからさ、同じ味がして、なんだか、すごく嬉しかった」


 「なんだか、まだお母さんが生きてるように感じて」と、彼女は何かを思い出すように、語った。


「そのおばあちゃんも、死んじゃって、ロールキャベツなんて、あんまり食べれないって思ってたけど、ありがとう」


「いいよ、お礼なんか言わなくて。むしろ、僕のなんかで、思い出上書きしてよかったの?」


「確かに、お母さん達のとは、ちょっと違うかも。コンソメだけで、トマトソースなんて入ってなかった。でも、いいの。これで、いいの」


 そうやって、少ししんみりした空気になりながらも、ゆっくりと食事は進んでいく。思えば幼少期から誰かと食卓を共にすることなんて、ろくになかった。


 特に自宅だなんて中学に入ってからは、一度もなかった。それなのに今、僕の目の前には、温かい料理を囲む人がいる。


 この胸にせり上がってくる温かさはなんなのだろうか。これを、幸せと呼ぶのだろうか。

 なら僕も、幸せとは真逆の未来に着実に歩を進める湖凪さんに、少しでもその温かさを与えられているのだろうかと考えた。


 そうあればいいなと、心の底からそう思った。また、そんな言葉が漏れそうになるのを、必死に白米と一緒に飲み込んだ。

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