春③
月の光が弱まり、湖凪さんが眠るまで、一時間を切ろうという時、ようやく僕たちは踊り疲れて、どちらが言い出すでもなく、家路に着いた。
なんだか、変な気恥ずかしさがあって、道中は場つなぎみたいな言葉を、一つ二つ投げ合っただけだった。
そして、僕の部屋に着いた時、ようやく、彼女の意識が途絶えるまでの時間が、すぐそこまで、迫っていることに気づいた。
「湖凪さん、そういえば、もうとっくに電車ないよ!?一時間前には病室にいないといけないんでしょ?」
ようやく正気に返った僕は、慌てふためくが、湖凪さんはそんな僕の態度をなんのそのと受け流し、静かに笑った。
「大丈夫。なんと今日は、外泊許可をもらってるのです」
「外泊許可?」
「そ、明日の朝に眠る一時間前までに帰ればいいって許可をもらったの。だから、大丈夫」
「よかった、先に言ってよ。なら大丈夫…大丈夫?」
そこまで聞いて一旦安心した直後、新たな疑問が生まれて言葉に詰まる。
「湖凪さん、外泊って、どこに泊まるつもり?」
「え、ここだけど?」
「はい?」
「ん?」
信じられないことを言われた気がして、聞き返すも、湖凪さんは逆に「何を今更」とでも言いたげな顔をして、首を傾げている。
「いやいや、泊まるって、僕の部屋、寝床一つしかないよ?」
「敷き布団は?」
「そんなものはない」
泊まりに来る人間など、言わずもがな皆無なので、寝具をもう一組買っておくなど、僕がするはずもない。
「えー、じゃあいいよ。私は、そこのソファで寝るからさ」
「いや、そういう問題じゃなくて。湖凪さん、そんなに簡単に男の家に泊まってもいいの?」
「何言ってるの?今更じゃん。毎日、その男を自分の部屋に呼んでるんだから」
「そりゃそうだけど…」
確かに今更こんなことを言うのは、僕がおかしいのかもしれない。だけど、なんとなく気が落ち着かないのだ。
でも、今から帰らせるにも、手段も時間もない、お手上げだった。
「とりあえず、いくらこの気温といっても、汗かいちゃったから、シャワー借りていい?」
そんな僕の胸中を、もっとかき乱すように、湖凪さんはそんなことを言い始める。もういい、傷口が浅いうちに諦めようと、湖凪さんに洗濯したばかりのバスタオルと、着替えがわりの僕の衣服を渡す。
下着類は、僕では、どうにもならないので、諦めてもらうしかない。
「ありがと、早くしないとシャワー浴びてる時に眠っちゃって死ぬからね」
けたけたと笑って、そんなことを言う湖凪さんに「シャワーここだから」と指し示して、扉を閉める。
一旦、彼女がシャワーを浴びているうちに落ち着こうと、ソファーに腰を沈める。そうして、僕はこんなだっただろうかと頭を抱える。
本当に今更だ、湖凪さんと毎日同じ部屋で過ごし、夜を越えてきたというのに、自宅というだけで、こんなにも意識してしまう。こんな感情に振り回される自分が、自分だなんて、信じられなかった。
ああ、恋をしているのだと、そう思った。小説や、創作物の世界で見てきた、自分とは縁遠いと思っていた世界に、どうやら僕は迷い込んでしまったらしいと、深いため息を吐く。
いつもかすかに聞こえる川のせせらぎに加えて、今日は僕の耳に飛び込む別の水音。それに、心をかき乱されて、早く止まれと願う。
祈りが通じたのか、水音が止まり、物音がしたかと思うと、ドライヤーを使う音が聞こえた。
そうして、数分経つと、いかにも風呂上がりといった風体の湖凪さんが、先ほどまで着ていた自分の服を綺麗に畳んで、小脇に抱えながら、「お先」と言って、出てきた。
「ありがと、さっぱりした」
「…それは良かった」
少し濡れた髪。貸した僕の服は、サイズが少し大きくて、ダボついていた。それはつまり隙が大きいということで、僕は彼女の方をまともに見れなかった。
「奏も、汗かいたでしょ?入っといでよ」
「…そうする」
そうやって、湖凪さんから逃げるように、脱衣所に飛び込んだ。まだ、シャワーを浴びてもいないのに、心臓が激しく脈打って、言う事を聞かない。
風呂場に入ると、いつもはない、柔らかないい香りがそこに充満している気がして、なるべくそれを意識しないように、ただ熱湯を浴びるようにして、最低限の汚れを落とすと、換気窓を開け、シャワー室を出た。
頭を乱雑に拭き、寝巻きに着替えてリビングに戻る頃には、もう湖凪さんが意識を保っていられる時間は、二十分ほどだった。
「ちゃんと髪の毛乾かさないと、風邪ひくよ?」
僕が肩にかけていたタオルを手に取ると、湖凪さんは、わしゃわしゃと、僕の髪の毛を拭く。
風呂上がりだからか、甘い香りにやられたのか、その頃の僕の頭は、少しぼんやりしてきていてされるがままだ。
最後の理性で、ドライヤーをかけてもらうのは拒否したが、湖凪さんは不満そうだった。
「じゃあ、風邪ひいてもアドベントカレンダーの中身はやらせるから」とのことだったが、背に腹は変えられない。
「じゃあ、私ここね」
「いや、ベッド使ってくれていいよ。どうせ、まだ、僕は寝ないし」
「不健康なやつめ」
「誰のせいだと思ってるの?」
何度かの押し問答の後、湖凪さんは渋々と、ベッドに横たわる。彼女が眠りにつくまで、あと十分弱だった。
僕は、その時を、ソファに腰掛け、少しぼんやりと白んだ窓の外を眺め、待っていた。静寂の部屋の中で、掛け布団が擦れる音だけが、たまに響く。
「ねえ…奏。いつもみたいに、ベッドの端に座ってよ」
静寂を破って、そんな声が聞こえた。そして、その声色は震えていた。覚えがあった。これは、死についての弱音を僕に語る時と、同じような。
何も言わずに、ベッドの端に腰掛けた。ギシリというスプリングの軋む音が、やけに大きく聞こえた。
「ね、奏はさ、なんで桜並木で泣いてたの?」
「なんで、だろうね。わかんないや」
「私はね、また増えちゃったって思ったの」
「増えた?」
「そう。奏が、言ってくれたでしょ。大事な物の分だけ、その重さの分だけ死ぬのが怖くなるって」
「それが増えたって?」
「うん。多分私、今日のこと死ぬまで忘れないよ」
「一年そこらなら、きっと僕も忘れない」
「約束だよ」
「うん…」
こそりこそりと、まるで秘密話みたいに、小さな声で、そんな話を交わす。お互いの目も見えなかったけれど、きっと大事な時間だったんだと思う。
「ね、奏」
「なに?」
「あと、三分と少しの時間だけでいいから、奏も、ここで眠って」
「それは…」
僕は、静寂が破られてから初めて、湖凪さんの目を見た。どこまでも深い何かが瞳の中には横たわっていた。
それは絶望だったのだろうか、それとも、ありふれた何かだったのだろうか。僕には分からない。
けど、一つだけわかったのは、彼女のその深い感情に寄り添うように、一粒の雫が浮かんでいたことだけ。
僕は、それに息を呑んで。何も言わずに、彼女が壁側に寄って作ったスペースに潜り込んだ。
お互いに背中を向けて、僕らは眠ったふりをした。お互いに、それには気づいていたのに、会話はなかった。
外から聞こえる水流の音のせいで、僕らを乗せる寝台が、船か何かなのではないだろうかと思えた。
このまま二人、どこまでも漂っていければいいと、そんなことを考えていると、背中に温かい感触がして、胸のあたりに、手が回された。
言葉を発する前に、抱きしめられているのだと気付いた。そして、その身体が微かに震えているということにも。
秒針の音が、大きくなる。カチカチと、確かに僕らの命を奪う音が、鳴り響く。どれだけその音を聞いただろうか。どれだけ、彼女の熱を感じていただろうか。
「好きだ。湖凪さん」
不意に、僕の口からは、そんな言葉がこぼれ落ちた。慌てて口を塞ぐけれど、言霊は戻ってはくれなくて。
それでも、静寂が続く。不思議に思って時計を確認すると、既に湖凪さんは、眠りに落ちる時間帯だった。
安心したような、そうでないような感情が去来して、僕は布団から抜け出した。
五時、一分、ちょうど。僕の想いが零れ落ちたのは、一分以上前だった気がするのは、どこまでも速い鼓動のリズムが、そう思わせているのだろうか。
何も浮かばない、真っ白で無機質な湖凪さんの寝顔を見て、きっとそうに違いないと思った。
初めて、想いを言葉にした。零れ落ちた想いは、深夜の夜露のように、儚く、誰かに届くこともなく消えていったが、それで良かったのだと思う。
僕と彼女が死ぬまで、あと九ヶ月。四季を一つ巡った僕らは、あと三つの季節を感じて、死へ向かう。
それまで、きっとこの想いは仕舞っておいた方がいいのだ。先程まで、大切なものが増えていくと、だから死ぬのが怖いと涙を流した彼女に、これ以上、何かを背負わせるわけにはいかない。
無限にも思えた三分間が終わって、布団から抜け出した身体は、急速に冷えていく気がした。
二人なのに、一人の気配しかしない部屋で、ただ呼吸をする。部屋を明るくしようが、僕が話そうが、湖凪さんは、夜の七時まで目を覚まさない。
僕はそれを痛いほど知っているけど、出来るだけ、息も、足音も殺して、彼女が起きないように気を使った。
せめて僕だけは、人間味のない今の湖凪さんを、きちんと人として扱ってあげたかった。彼女には決して届かない気遣いだけれど、僕がそうしたかったのだ。
意味もなく、水道水を一杯飲み干すと、やたらと目が冴えた気がした。学校に行くのならば、あと三時間ほど眠って、登校するべきだが、湖凪さんを一人残していくのは気が引けた。
ソファーに寝転び、ブランケットで体を覆うけれど、少しも眠気はやってこなかった。それは、崩壊している生活リズムのせいなのか、それとも、隣から聞こえる規則正しい呼吸音のせいなのか。
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