春②
情けなさに胸を侵されながら、その日は家に帰宅した。春休み中で、学校がなかったのが、唯一の幸いだろう。シャワーを浴びると、さっさとベッドに潜り込み、眠りについた。
目を覚ますと、すでに夕方で、長くなってきた日も、そろそろ沈む頃だった。時計を見上げて、彼女が目を覚ますまでの時間を無意識に計算したところで、出会ってから初めて、今日は彼女の元に訪れない日なのだと思い出した。
さて、そうなると何をしようかと、あり合わせを適当に炒めた夕飯を口に運びながら考える。
彼女の完全な夜型生活に付き合っていたおかげで、生活リズムは崩壊し、どうせ朝方まで眠ることはできない。
いつも、日中にしていたことをすればいいのだと思い立つのだが、すでに一人の時間に何をして暇を潰していたのかすら思い出せない。
仕方なく、本棚から小説を引っ張り出し、文章に目を落とすものの、集中できずに、数ページめくっては、時計を気にしたり、今の湖凪さんのことに、想いを馳せてしまう。
埒があかないと思い、小説を閉じると、カーテンを開け、黒々と染まった川面を見つめることにした。
ゆったりとした水流、たまに起こっては消えていく波紋。そして、この季節になると浮かぶ無数の花びら。
そんな幾重もの、些細な自然のあり方を眺めていると、この時だけは、何も考えないでいられた。
そうだ。少し前までは、あの水面に映して考えるのは、死のことばかりだった。なら、今あそこに自分が映すものとはなんなのだろうかと、そんなことを考えた時、玄関戸が乱暴にノックされる音が聞こえた。
あまりに突然だったので、体が跳ね、心臓が暴れ出した。恐る恐る、玄関へと近づき、のぞき穴から、外を覗くと。
「えっ?」
その人物を確認した途端、体が反射にも近い速度で、ドアを開いていた。
「やっほ」
「うちには、インターホンというものがあってですね、湖凪さん」
そこにいたのは、先ほどまで思い浮かべていた、彼女だった。だったのはいいのだが、なぜいるのかという疑問が頭を埋め尽くし、うまく言葉が出てこない。
「あ、気づかなかった。気持ちが逸って、扉叩いちゃった」
「それはいいけど、なんでここに?」
「ほら、これ」
「…?」
彼女がポケットから取り出し、広げて見せたのは、見慣れた、アドベントカレンダーの内容が書かれた紙だった。
そしてそれを僕に押し付けると、中身を見ろとでも言う風なジェスチャーをしてくる。仕方がないので、内容を確認すると。
「…桜を見る」
「そう、だから来たの。前、家の前の川沿いが、綺麗な桜並木だって話してたもんね」
「だからって…」
「いいからさ、とりあえず入れてよ。寒いの。毎日私の部屋に入り浸ってるのに、自分の部屋には、私を入れられない、なんてことはないでしょ?」
「あそこは病室で…」だとか、きっと如何様にも返す言葉はあったのだろうけど、僕は諦めて、彼女を家に招き入れた。
「一人暮らしには広いね。それに、思ったより綺麗」
「ただ、物が少ないだけだよ」
「あ、夕飯のお皿。何食べたの」
「冷蔵庫にあったものを適当に炒めて、塩胡椒振っただけ」
「おお、なんか料理できる人っぽい」
「味を気にしなければ、火を通して塩胡椒をかけたら、大体食べれるからね」
「私も食べたいな。検査で何も食べてなかったんだ」
「…何がいい?」
「無理しなくていいの。奏が食べてるの同じのでいい」
湖凪さんは、そう言うと、コートとマフラーを脱ぎ、ダイニングテーブルに座った。僕は、この状態の湖凪さんに逆らっても無駄だと、重々承知しているので、諦めて、冷蔵庫から余った野菜を取り出すと、ざく切りにして、なけなしの肉と同時に、油を敷いたフライパンに放り込んだ。
火が通ったのを確認すると、いつも使っている、安っぽいプラスチック皿に乗せ、割り箸とともに、湖凪さんの前に置いた。
「美味しそうだね」
「普通だよ」
「男の人の料理って感じがするね」
よほどお腹が減っていたのか、大きな一口目を終えた湖凪さんの感想に「そりゃ男の一人暮らしですから」と苦笑いしながら返す。
なんだか、不思議な気分だった。いつも一人だった場所に、他の誰かがいるという違和感なのだろうかと、心の中で首を傾げる。
「ごちそうさま」
ものの数分で、皿の上を平らにした湖凪さんは、お腹をさすりながら、立ち上がると、カーテンが開けっぱなしになったままの、窓の外を眺めた。
「確かに綺麗だね、ここから見る川は」
「そうだけど、それだけが取り柄の場所だよ」
「上流から、花びらが流れてくるね」
「少し先に行くと、桜並木があるんだ」
「知ってる。だから、そろそろ行こっか」
彼女は、コートとマフラーを再び身につけると、玄関に向かって歩き出す。僕もそれに倣って、上着と、湖凪さんからもらったマフラーをクローゼットから取り出し、身につけた。
湖凪さんが、先に玄関に向かっていてよかった。マフラーだけ後生大事に、丁寧にしまっているところを見られずに済んだ。
春の夜冷えの中、鍵を閉め、ゆっくりと、川の上流に向かって歩く。僕が、湖凪さんを先導するように、前を歩くのは、珍しいことだった。
川のせせらぎと、文字通り、我が世の春がきたと言わんばかりに、声を張り上げる虫の声の中に、僕らの靴音が淡々と響く。
「うわあ…」
そんな時間が続いて、少しすると、湖凪さんが、感嘆した声をあげた。今、僕たちの目の前には、見事な夜桜が連なっている。
「凄いね」
「僕も夜桜は、初めて見たけど、凄い…」
感嘆の声こそあげなかったが、僕も少々目の前の光景に圧倒されていた。閑静な住宅街のそばにあるとは思えないほどの威容。
遥か昔から、僕たちの祖先がこの花を、この光景を愛してきた理由の一端に触れたような、そんな気がした。
「こんなところが有名にならないなんて、不思議」
「この地域の人たちの特権なんだよ、きっと」
「凄い」と繰り返し、湖凪さんは舞い散る花びらの中、ゆっくりと、踊るように歩を進める。
重力で落ちる淡い色が湖凪さんの上に落ちて、モノクロの彼女を彩っていく。漆黒の髪に、夜を落とし込んだコートに、点々と。
どこまでも綺麗だと思った。咲き誇る桜の中で、咲き誇る彼女の笑顔に、視線が吸い寄せられて、離れられない。
「奏もおいでよ」
手招きに従うまま、僕も、ダンスホールへと。そうすると、彼女は、僕の手を取って、くるくると、出鱈目なステップを踏み始めた。
目が回っても、お互いの足を踏んでも、ただ。月と時間が許す限り、僕らは踊った。意味もなく、ただ。
そういえば、彼女がこうやって踊るのを見るのは初めてではない気がした。いつだったかと、記憶を辿ると、あの大雪の日だと思い立った。
僕が、湖凪さんへの気持ちを自覚したあの日。あの日も、しんしんと降り注ぐ雪の中、彼女は踊っていた。
次は、何が舞い散る中で湖凪さんと踊れるだろう。あと何回、こうして。そんなことを考えていると、不意に視界の端に、花弁以外の何かがちらついた。
それは、無色透明色で。冷たくも温かくもある。
「奏、なんで泣いてるの?」
「湖凪さんこそ…」
二人とも、気づけば、眦の端から、涙が溢れて止まらなくて。なのに、踊る足が止まらない、幸せとは今なのかな、なんて考えて、月光のステージライトが陰るまで、僕たちは涙の理由も問わずに、踊り続けた。
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