夏⑦

結局、僕は夏の匂いの正体を見つけられずにいた。もう夏も終わるという八月の終わり頃、ふと、そう思った。


 それは、湖凪さんに付き合って毎日外に出ていたとはいえ、出歩いていたのが夜だったからなのかもしれないし、そもそもそんな香りはないからなのかもしれない。


 何も見つけ出せずに、僕の人生最後の夏が終わろうとしていた。


 真美さんに言われた言葉が、ずっと頭の中に残っている。湖凪さんのなんなのか。何で在りたいのか。


 湖凪さんに生かされて、湖凪さんに殺される。そんな僕にとって『湖凪さんとどんな関係のまま終わっていくのか』というのは、重要なアイデンティティな気がしていた。


 だから、ずっと考え続けていた。蝉の音と川の流水の音に身を任せながら。幸い、夏休みというシステムのおかげで時間だけは有った。


 ただ、湖凪さんといる時だけは、迷いを出さないようにしていた。彼女といる、極めて有限な時間だけは、余計な面を見せて、無駄な感情を抱かせたくなかったから。


 八月二十五日。また、湖凪さんの時間が削れてなくなってしまう日。毎月、この日は少し不安そうに揺れる瞳が、病室を訪れた僕を出迎えた。


「おはよう、湖凪さん」


「うん、おはよ」


 寝起き十分後ほどだというのに、相変わらず全くそれを感じさせない、芯のある声。結局買わないままだから、この病室に椅子は無い。だから僕は、壁の棚の上に置かれたアドベントカレンダーを手に、ベッドの端に腰掛ける。


「引こうか」


「珍しいね、奏から言い出すの」


「…なんとなくね」


 あなたの時間がすり減る日。自身の答えの出ない悩みが、急かす焦り。夏が終わると教えるように減っていく蝉の声。


 そんなもの達のせいで、時間というものに追われる感覚が今日は強かったからだった。


「さーて、何が出るかな」


 間伸びした声と共に開かれる紙。僕には珍しく、今日はどこかに出かけたい気分だったから、自分の適当な『何もなし』を引かないように祈った。


 その祈りの効果なのか、カレンダーの中身の結果としては、僕の願いは叶った。無事に外出することになったが、湖凪さんの準備と着替えを待つ廊下で、僕はため息が止まらない。


「お待たせ…そんなため息ばっか吐いてると、幸せ逃げちゃうぞー」


「ため息もつきたくなるよ」


「決まったことをぐちぐち言わないの。そんな時間は私たちには無いよー」


 最もらしいことを言って反論を封じた湖凪さんは、自然に僕の手をとって歩き始めた。戊も抗いはしなかった。


 駅へと向かう。時刻は二十二時過ぎ。まだまだ眠らない街は、駅周辺を起点に多くの人が存在している。その人口密度のせいか、今夜は少し涼しくなると聞いていたのが嘘だと断定したくなるくらいには蒸し暑い。


「湖凪さん、暑くないの?」

 

 湖凪さんの今日の服装は、長袖の白シャツの腕を捲り、その上に黒のサマーベストを着て、膝下までのこれまた黒いロングスカートを合わせている。夏になってからはずっとTシャツにゆるっとした涼しげなパンツだったので、いつもよりやたらとフォーマルだ。


 僕の問いかけに、湖凪さんはあっけらかんと「そりゃ暑いよ」と言った。分かってて聞いたのだ。だって、繋ぐてが汗ばんでいて、いつもより熱い。


「今夜は涼しいって、間違いだったね」


「うん。しょうがないね。けど、気温予想は見てないし、関係ないんだ」


「え?」


 改札で聞き慣れないであろう駅の切符を買った湖凪さんは、券売機の操作のために一度離していた手をもう一度繋いで、笑いながら言った。


「だって、奏の実家に挨拶に行くんだもん。ちゃんとした格好しないと」


 言いたいことは幾つもあったけれど、その気遣いと笑顔に全て誤魔化されてしまった。これが惚れた弱みというやつなのかもしれない。


 そう、僕たちはこれから、僕の生家に向かう。カレンダーにそんな意味の分からない願いを入れた犯人は「だって、奏の生まれた家見てみたかったんだもん」と供述している。ちなみに、八月だったのに理由はなく、ランダムで適当に紛れ込ませたらしい。


 普段使うことのないホームから、空いた電車に乗り込む。車内には、疲れ果てたという様子のサラリーマンと、暇そうにスマホを眺める大学生、部活なのか重そうなバッグを床に放り出したジャージ姿の学生。

 誰も、乗り込んできた僕らに目線を欠片ほども向けない。それが、この電車に飽きるほど乗って慣れている証査みたいな気がして、実家がある路線なのに、そうなれていない自分の人生が不思議だった。

 引っ越しの荷物を送った後、今の部屋へと向かう時。それ以外に二年と少しの間、この路線に乗ったことはない。だから、窓に映っては消えていく風景がすごく物珍しかった。実家の最寄り駅のアナウンスが告げられる直前まで、それは変わらないままだった。


 電車で二十分。自宅の最寄りからは、十五分ほど。なのに、僕は二年間ここに足を運ばないままだった。


 どこにでもありそうな、ギリギリ快速電車に飛ばされない駅。そんな印象の駅の改札を出ると、流石に見知った景色があった。というのも、僕が通っていた中学がすぐ裏手にあるからだ。それを教えると、案の定湖凪さんが行きたいと言ったのだが、あまり時間もないので次の機会にと宥めた。


 珍しく僕が手を引く形になって、実家への道を行く。ある程度通い慣れた道だったはずが、ここ二年で少し様変わりしていた。

 狭かった駅前の道路に拡張の工事が始まっていたり、駅前には記憶にないコンビニがあった。その他にも、所々に。暇つぶしに、その違いを湖凪さんに語りながら歩いた。知るはずもない風景の話を、まるで自分も答え合わせをしているかのように一喜一憂してみせるのが、愛しかった。


「間違い探しみたいで面白いね?」


「そう?僕はなんだか居心地悪いけどな」


「自分の服を誰かが着てるのを見てる感じ?」


「多分、そんな感じかな」


 歩いて十分ほど。駅前の小さな騒がしさも失せた頃に見えてきた住宅街の、最奥の筋の中。そこに僕の実家はあった。


「大きい家」


「確かに、普通の家よりは大きいかもね」


 確かに僕の両親は、どちらも高給取りで裕福だった。ただ、それを感じさせる大きな家も、中にいるのが一人だけじゃ寒々しいだけだった。


「変わらないな」


 広いガレージに、車が一台も止まっていないのを見て、世界に生まれるかも定かではない音量でそう呟くと、いつも使っているキーケースの中に、おまけと言わんばかりにぶら下がっている実家の鍵を使った。どうやら鍵は変わっていないらしい。


「お邪魔します」


 湖凪さんがそう言って、玄関で一礼するのを見て、僕はなんと言うべきなのか迷って、結局無言で靴を脱いだ。ただいまと、そう言えば良かったのだろうか。


 廊下とリビングの電気をつけると、相も変わらない生活感がほとんどない整った部屋が照らし出された。


「へー、片付いてるね」


「多分、毎週ハウスキーパーが来てるから」


 恐らく、その人物も変わっていないだろう。オマケ程度に、ダイニングテーブルの花瓶に活けられた一輪の花が、僕が家を出る前と変わらないから。


「で?奏の部屋はどこなの?二階?」


 しばらくリビングを面白そうに物色していたが、どうやら次は僕の部屋に興味が出たらしい。特に見られても困るものが存在しないので、二階へと案内をした。使いもしない、セカンドバスルームに、書斎。そして、並んで寝ることもないであろうのにキングサイズのベッドが置かれた寝室。そんなものの中に紛れ込んでしまったように、僕の部屋は存在した。


「うわ、広い。けど、物少な」


「まあ、使うものは今の部屋に持ってっちゃったからね。家具とかベッドは新しく買ったけど」


 フレームとマットレスだけのベッド。服も物も入っていないだだっ広いクローゼット。ネイビー単色のカーテン。未だ子供用のキャラクター下敷きが置かれている勉強机。この上なくつまらない部屋だ。


 なのに、少ないながらも置かれた忘れ物たちを、湖凪さんは一つ一つ静かに見つめている。


「あ、これ」


 湖凪さんが声を上げたのは、クローゼットを開けた時だった。僕がそちらを見ると、手には中学時代の学生服があった。


「えーー、学ランだったんだ。私、中高ってブレザーだったから、ちょっと物珍しいんだよね。奏も今はブレザーだし」


 ハンガーにかかったそれを、繁々と見つめて目を輝かせる湖凪さん。何にテンションが上がっているのかは、一切分からないが、こんな何もない部屋でも楽しめるものがあったなら何よりだ。


「ね、奏。これ着てみてよ」


 訂正する。こんな部屋、面白くないのでさっさと出てしまおう。


「嫌だよ」


「なんでよ。お願い」


「サイズ小さいし」


「嘘。これ、サイズ大きめに買ってるもの」


 妙なところで洞察力が鋭い。事実、成長を見込んで買った学ランは今の僕でも着られるほどのゆとりはあるだろう。


「ほら、学ランだけでいいから」


 僕がものすごく嫌そうな顔をしているのを見て、妥協点とばかりにハンガーから学ランだけを外して渡して来るけれど、別に妥協点にもなっていない。

 ただ、これまでの付き合いで言い出したら聞かないのを知っているので、僕は引ったくるように学ランを取ると、湖凪さんから体を背けて羽織ってボタンを閉める。僕はこんなに甘い人間だっただろうか。


 おずおずと湖凪さんへと向き直ると、そこには構えられたスマホがあって。パシャリというシャッター音が鳴り、フラッシュが光った。

 驚きに目を瞬かせる僕と、悪戯成功にニンマリと破顔する湖凪さん。ああ、結局死ぬまで僕はこの人には敵わないんだろうと思うと、日中の迷いが今だけはどこかに消えているような気がした。


「あはは、似合ってるよ!太々しい感じの目が、凄い中学生っぽい」


「中学生要素に学ラン関係ないじゃん」


 少しの恥ずかしさと共に学ランを乱暴に脱ぎ捨てると、一階に降りた。コーヒーサーバーでコーヒーを作っている間、冷蔵庫に何か甘いものがないか探したが、見事に何もなかった。せいぜい、しなびかけた野菜くらいのものだ。


 仕方がないので、戸棚から来客用の未開封のクッキー缶を取り出す。ついでにグラスも。両親が取引先から貰ってきて溜めているのを思い出した。消費期限を見ても、大丈夫そうだ。


 コーヒーの沸き立つ音。猫の鳴き声。グラスに氷を放り込む音。そして、クッキーを咀嚼する音。


 その一つを止ませて、湖凪さんがポツリと呟く。


「やっぱ、ご両親は居なかったか」


「居ることの方が珍しいというか、ほとんど帰ってこないからね」


「残念」


「どうして?」


「居たら言おうと思って。息子さんを下さいって」


「流石のうちの親も、それ言われたら飛んでくるだろうからやめて貰える?」


「じゃあ、正確に、息子さんの命をくださいって言おうか」


 たまに湖凪さんは、ケラケラ笑ってこの手のブラックジョークを言う。ちなみに僕は毎回笑っていない。


 コーヒーサーバーが、仕事を終えた音を立てた。氷がたっぷり入ったグラスにそれを注ぎ入れると、パキパキと氷が弾けるような音がして、湯気がどんどん死んでいく。


「ああ、確かに寂しいかもね」


 コーヒーと真逆の色を基調としたリビングを眺めて、湖凪さんは言った。反響するその声が、答えだった。


 カランカランと死んでいく氷が鳴らす音。遠吠え。ブレーキ音。うるさい静寂の音。


 こんな孤独を際立たせる音を聞いても、何も感じなかった。一つ小さな自分以外の呼吸音があるだけで、温かい。溶ける氷の気持ちがわかった気がした。


 だから、その音が鳴るまで気づかなかった。決定的な音が鳴るまで。


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