夏⑥

「ね、花火を見ようよ」


 八月も中頃になった日、目を覚ますなり湖凪さんは、はしゃいだような声で言った。


「花火?」


「そ、これこれ」


 掲げられたのは、花火大会の宣伝チラシだった。確かに記載されている日付は今日だ。だが、問題はその横に書かれている方だった。


「…湖凪さん、それ、もう終わってるよ」


「うん、知ってる」


 僕が困惑するように、気遣うように放った言葉に、あっけらかんとそう返されて僕の頭にはハテナが乱立する。


 もしかして、ついに脳になんらかの影響が?なんて失礼極まりないことを考えていると「だからさ」と湖凪さんは続けた。


「だからさ、奏が私に見せてよ、花火」


 唖然としていると、僕は病室の外へと追い出される。なんでも、準備があるから、その間に僕も準備をしろとのことだ。花火の準備をしろってか。


 仕方がないので、僕は近くの大型スーパーでありったけの花火を買い込んだ。それを、大きめのレジ袋に詰め込んで病室の前で待つ。


「奏、入ってきていいよ」


 お許しが出たのは、僕がスーパーと病院間を往復する時間に足すこと十分ほど経った頃。


 部屋に入ると、そこには既に花火が打ち上がっていた。


「どう?似合う?」


 ひらりと、花弁が湖凪さんの動きに合わせて翻る。くるりと一回転。僕が幻視した、散っていくはずの火花は、美しくそこに在り続ける。


 黒地に映る青い花。夜に咲く、貴方みたいだ。


 浴衣を着て、指に巾着袋を引っ掛けて、簡易に結えた黒髪を揺らす湖凪さんから目を離せない。


「似合うよ、綺麗…本当に」


 夏の熱に浮かされたまま、目を奪われたままはっきりと君を見据えて、絞り出すようにそれだけ呟いた。本当は言い表す言葉なんか無限にあるのだろうけど、熱に奪われた思考力と、僕の拙い語彙では、たったそれっぽっちしか出てこなかった。 


「さ、急ご、時間がないよ!」


 湖凪さんは、それに何も答えなかった。いや、もしかすると、応えてくれてはいたのかもしれない。


 袋で塞がらない僕の右手を取った時に感じた、慣れたよりも熱く感じる体温が僕の勘違いでないのなら。浴衣に合うように、髪をかけて露わになった耳がほんのりと色づいているように思えたのが、僕の見間違いでないのなら。


 何かを誤魔化すように走って、蒸し暑さの中辿り着いた駅のバス停は、充足感が蔓延している場所だった。要するに「楽しかったね」という、現実が思い出にすり替わっていく真っ最中の匂いがするのだ。


 到着したバスが、浴衣姿の人混みを吐き出し終わった頃、僕は閑散とした会場行きの車両に乗り込んだ。


 浴衣を着込んだ湖凪さんを見て、バスの運転手は不思議そうな顔をして「これ、もう一度花火会場へ向かう便ですよ」と僕たちに言った。


「ええ、知ってます」と、満面の笑顔で言った湖凪さんに、運転手はもう一度小さく首を傾げたけれど、それ以上何か言うことは無かった。


 結局僕ら以外乗り込まなかったバスが発車した。バス特有の、埃っぽさと芳香剤が混ざり合ったような匂いに、大袈裟な音と不規則な揺れも加わって頭がクラクラした。


 広い最後列の右の窓側に詰めるように座った僕たちは、他に誰も人がいないのに、秘密を共有するかのような小さな声量で、他愛無い話をした。揺れに合わせて鳴る、花火の入ったナイロン袋の音にかき消されてしまうくらい、二人だけの世界にちょうど響く声で。


 二十分ほど揺られただろうか、邪魔が入るのを嫌がった僕らの心情を汲むかのように、誰も拾わずに、バスは止まる事なく目的地へと流れ着いた。


 僕が先に降りると、浴衣で歩きづらそうな湖凪さんに手を差し出した。少し意外そうに手を取った湖凪さんに「花火、楽しみだね」と言うと、それが聞こえたらしく、バスの運転手は心底気味が悪そうな顔をしていた。 


 逃げるように去っていくバスを見て、僕は何だか笑ってしまった。「趣味が悪いよ」と言った湖凪さんも、笑みを隠せていなかった。


 辿り着いたのは、とある小さな遊園地の駐車場。明らかに訪れる人数と釣り合っていないと断言できるほど広い駐車場は、夏祭り会場として有効活用されているらしい。もちろん、ついでに遊園地に寄ってくれれば儲け物だという魂胆もあるのだろうけれど。


 埋立地であるここは、海のすぐそばだ。対岸から上がる花火を見るには絶好のポイントなんだそうだ。


「祭りの後って感じがするね」


 アスファルトに落ちている、出店の食べ物の容器らしきものを軽く蹴って、湖凪さんはそんなことを言った。


 所々にポイ捨てされたゴミ達。中には氷と印字された、夏の風物詩らしき容器もあった。何となく僕も蹴り上げると、毒々しいほどに青い液体が宙を舞った。


「花火、一発目?」


「ちゃっちいね」


「夏らしいけどね」


 カラカラと転がっていくプラスチック容器の音を聞きながら、ガサゴソとビニール袋からありったけ買ってきた花火を取り出した。


「甘ったるく無いほうの花火をしようか」


「確かに、煙たくて香ばしいもんねえ」


 そういえば、花火を水に漬けるためのバケツなりを持ってくるのを失念していたなと思うけれど、どうせ周りに燃えるものもなければ、最悪すぐそこは海だと自分に言い聞かせて、手持ち花火にライターで火を付けた。


 バシュッという派手な音が鳴ると同時に、目がチカチカするような光が目を焼いた。炎でできたススキのようなそれを、無造作に振り回した。火の粉が、雪みたいに舞った。


「危ないよー」


 そんな形だけの言葉を放った湖凪さんも、すぐに両手に花火を持って舞い始めた。弾けるように噴出するもの、色が次々に変わるもの。さまざまな光を伴って、くるくると出鱈目に。


 雪の舞う中を、桜舞う中を、思い出した。次は火の粉かと笑いながら、それらとは違ってお互いの火に焼かれないように近づけない。近づけるギリギリを測り、火の際で触れ合えないこの時間が、そのまんま今の僕たちを表しているような気がした。


 弾幕も、体力が尽きた頃に小型の打ち上げ花火を一斉に空に打ち上げた。まとめてみると、意外と迫力があって驚いた。一分ほどの間、僕らの頭上は夜とは思えないほど明るくて、いつものネオンとは違う照らされ方をした湖凪さんの横顔は、この上なく幻想的で


「綺麗だ」


 漫画みたいに、僕の言葉が聞こえないほどの轟音はない。だから、湖凪さんは花火の最後の息吹が消えたのを見届けると「綺麗だったね」と言った。


 僕は「うん、とっても」とだけ返した。勇気と主語のない言葉だから、仕方なかった。


 最後に締めとして、線香花火を一本ずつ灯した。腰を下ろして、じーっと弱々しい光がアスファルトに溶けていくまで見守った。


 お決まりだとでもいう様に、どちらの火が長生きするかの勝負を持ちかけられたので、乗っかってみると、僕らの線香は同時に息を引き取った。


 湖凪さんは、とても嬉しそうに「本当に私たちみたいだね」と笑った。ちなみに、負けるのを嫌がった湖凪さんが、僕の線香花火に息を吹きかけて臨終させた結果の同時だったので、本当に僕たちそのものだ。


 軽くなった紐状の遺体を片手に抱腹している湖凪さんを見ていると、何だか可笑しくなってきて、死を連想させているとは思えないくらい、僕も笑った。


 楽しい時間はあっという間で、気づけば深夜一時を超えて湖凪さんの時間制限が怪しくなった。さっと後片付けをして、タクシーを呼んだ。


 バス停のベンチに座ってタクシーを待っている間に、湖凪さんは眠りに落ちてしまった。肩に感じる重みに僕は少し戸惑った。


 タクシーのヘッドライトの眩しさに顔を顰めながら、湖凪さんに肩を貸して立ち上がる。意識を完全に放り出している人間の身体は予想よりも重かった。本人にはとても言えないことだけれど。


「市内にある、大きな病院まで」


 そう告げると、タクシー運転手は心配そうな声色で「彼女さん、ぐったりしてるみたいだけど、どこか悪いの?急ごうか?」と言ってくれた。


「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。彼女は眠っているだけなので。花火ではしゃぎ疲れちゃったみたいで」


 作り笑いと共にそう言うと、一応は納得してくれた様だった。ならなぜ病院に行くのだとか、突っ込んだ話をされると面倒だったので、寝たふりをすることにした。多少遠回りをされて、料金が上がろうと構わなかった。


 病院の正門前に着いて料金を払うと、再び肩を貸して立ち上がった。一度体験したおかげか、身体は軽く感じた。これが湖凪さん本来の重さなのかと思うほどに、軽かった。


 病院についても湖凪さんを起こそうとするどころか声をかけもしない僕をタクシー運転手は不思議に思った様だが、何も言ってこなかった。今日は運転手さんたちの心にしこりを残す日になったのかもしれない。


 もはや慣れた病院の敷地内を病室に向かって歩く。流石に人一人運ぶのは重労働で、病室に着く頃には、蒸し暑さも相待って随分と汗をかいていた。


 湖凪さんをベッドに寝かせようとして、このままでは浴衣がシワになってしまうと思って躊躇った。花火をしている時も、随分と気に入っていた様子だったから。


 仕方なく、一旦壁に身を預ける様な形にすると、病室を出た。正面入り口の方へ向かっていくと、ナースステーションにたどり着くまでに、お目当ての人物に出会えた。


「すいません、婦長さん、ちょっといいですか」


「あら、天野くんですか」


 婦長さんは、看護師の中で唯一、湖凪さんの事情を承知している人だった。藤井先生にも、何か困った時には彼女を頼る様に言われていた。四十代くらいの、黒髪を短く切り揃えた、凛とした人だ。僕は、節分にふざけて病室を豆だらけにした後にこっぴどく叱られて以来、少し彼女のことが苦手なのだが、背に腹は変えられない。


「実は…」


 事情を話すと、婦長は何も言わずに承知してくれた。湖凪さんが着替えている間、僕は薄暗く不気味な廊下で一人立っている。古くなっているのか、不規則に点滅する電灯が不気味さを増長させている。


「もう入ってきて結構ですよ」


 お許しが出たので病室に足を踏み入れると、いつもの寝巻きに着替え、無表情で眠る湖凪さん。傍には綺麗に畳まれた浴衣があった。


「ありがとうございます」


「いえ、仕事のうちですから。それにしても、彼氏ならこれくらい自分でしたらどうですか」


 揶揄いを少し含んだその言葉に、僕は「彼氏なんかじゃありませんよ」と、そう一言返すのが精一杯だった。


 年の功で、僕の態度に何かを察したのか「そうですか」と呟くと、湖凪さんの体にタオルケットをかけ、ドアの方へと向かっていった。


 そしてドアを開けると同時に「佐藤さんとの間に築いた何かを確認する時間は、残念ながらそこまで多くないですよ」と、そう呟いて、足音が遠ざかっていった。


「電灯切れかかってますって、言いそびれちゃったな」


 いつもの椅子に座って、寝顔を盗み見ながらそんなことを独りごちた。もしかすると、必要なのかもしれない。火の粉の中でも、触れるために手を伸ばす勇気と言葉が。


 僕らの間に唯一足りないものは、待ってはくれないのだから。

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