秋③

十月二十四日。日付を越えれば、湖凪さんの誕生日。僕はプレゼントを受け取るため、いつもより早く家を出た。

 気づけば秋は深まっていて、すでに夜は肌寒かった。この前、湖凪さんに選んでもらった薄手のコートを着ると体感温度はちょうどいい感じだった。コートのポケットには真美さんから預かったプレゼントを忘れずに入れた。


 いつもの駅まで辿り着くと、プレゼントを受け取って、とある場所に預けた。無理を言っている自覚はあったので、菓子折りを一つ贈った。


 目的を全て終えると、病院へと向かった。街路樹は紅く色付き、不意に落ちる葉が道へと降り積もっていた。

 今日眠ってしまえば、湖凪さんが起きていられる時間はたった二時間。冬の足音が近づいてくる。


 その前に、秋に名残を残さないようにしようと思った。そう出来るかは、今日にかかっていると言っても良かった。


「少し緊張するな」


 いつぶりなのか思い出せない体の強張り。けれど、決して不快ではなかった。わずかな空気の冷たさに、よく体が馴染んでいた。


 病室に辿り着くと、例に違わず表情もなく、きちんとした姿勢で眠っている湖凪さんに出迎えられた。当然、ノックに応答はなかった。


 規則正しすぎる呼吸音に合わせるように、座ったベッドのマットレスを指で叩いた。寝顔には、反応が一つもない。


 その一つ一つが、彼女が二十歳になるまでのカウントダウンだと思うと、寝息がとても愛おしかった。もちろん、死へのカウントダウンでもあるのだけれど。


「おはよう。湖凪さん」


「おはよう。最後の十九歳だねえ」


 「あと一時間しかないけれど」と湖凪さんは笑う。アドベントカレンダーをめくった。『何もなし』だった。良かった。とんでもなく時間がかかることだったら、仕込みが全て無駄になるところだった。


「ねえ、湖凪さん」


「んー?」


「行きたい場所があるんだ」


「綺麗な格好した方がいい?」


「任せるよ」


 湖凪さんは「楽しみにしてるよ?」と言って、僕を病室から追い出した。ハードルが上がっている気がしたが、もう、どうにでもなれと思った。


「お待たせ」


 現れた湖凪さんは、いつもよりもめかし込んでいた。準備に時間がかかったから、そうではないかと思っていたが、やっぱりだ。


 シックな黒のワンピースに、チェック柄のストール。髪も珍しくアップにして、靴はヒールを履いている。露わになった耳に、耳飾りが揺れていた。


「…綺麗だ」


「あはは、ありがと。びっくりした。奏もそういうこと言うんだね。次は笑顔もプラスできたら満点あげちゃおっかな?」


 サラッと難しい注文をする。次の機会のために覚えておこうと思う。死ぬまでに一度くらいはあなたから満点を貰いたい。

 思わずこぼれ落ちた言葉だから、意識するのは難しいと思うけれど。


「…行こっか」


「うん、しっかりエスコートしてね?」


 湖凪さんの手を取る。僕が湖凪さんを先導するのは珍しい。今日は珍しいことだらけだ。特別な日なのだから、それでいいのかもしれないが。


 ヒールを履いていたからタクシーを使おうとしたけれど、湖凪さんが歩きたいと主張したので、徒歩で向かうことになった。そこまでの距離はないから大丈夫だろう。


 ヒールの音、通り過ぎる車の音、あなたの話し声。距離をあっという間に感じるには十分だった。


「着いたよ」


「ここ?」


「そう」


 辿り着いたのは、馴染みある場所である。特に意外性があるわけではない。


「いらっしゃいませ」


 ドアを開けると、見知った紳士が僕たちを迎え入れてくれた。そう、ここは深夜営業の喫茶店だ。いつもと違うのは、カウンター席にあらかじめ二人分のナプキンとシルバーが置かれていることだ。


「本日は貸切ですので、ごゆっくり」


 キッチンに引き上げていくマスターの後を追うように、席に着いた。僕の席の足元にはプレゼントが置かれていた。


「貸し切ったの?」


「貸し切った」


 本当は、レストランの展望フロアでも貸し切ろうかと思っていたのだけれど、ここにした。僕たちが初めて食事を共にした場所はここだから。


「二人だけで、ゆっくり食べたかったんだ」


「マスターもいるけどね」


「どうにもならないこと言うなあ」


 今更ながら、僕の家でも良かったと思ったが、自分一人の力でできないこともあるので仕方ない。


「本日のスペシャルメニューです、どうぞお召し上がりください」


 コトリと僕たちの目の前に湯気が立ち上る皿が置かれた。これが、僕が頼んでおいたメニューだった。


「ロールキャベツ…?」


「うん」


 僕がマスターに作るように頼んだのは、ロールキャベツだった。湖凪さんと家族との思い出の品。


「湖凪さん。僕は今日、贈りたい言葉が三つあるんだ」


「三つ?」


「そう。でも、こんな特別な日に言葉だけじゃもったいないと思ったから、それを表すものをものを贈らせて欲しいんだ」


「ロールキャベツが、その一つなの?」


「それだけじゃないけど、一部ではあるよ」


 僕は「さあ、冷めないうちに食べようよ」というと、ナイフとフォークを持った。やっぱりプロの作ったものは格別に美味しい。僕のように、キャベツの端を焦がしたりはしない。


「美味しいね」


「奏のも美味しかったよ?」


「また作るよ」


「死ぬまでに?」


「死ぬまでに」


 また、そんな不謹慎ジョークを混ぜながら食べているうちに、気づけば湖凪さんの十九歳がもうすぐ終わるところまで来ていた。


「あーあー、ティーンエイジャーも終わりだね」


 湖凪さんは壁に掛かった時計を見つめながらそう言った。こそっと僕に「そろそろ人生も終わりだけど」と呟いたのは聞かなかったことにしている。僕は相変わらず笑っていない。


「三、二、一」


 終わっていく。僕と出会った湖凪さんの年齢が。


「ゼロ!」


 そして始まっていく。最期まで続く、新しい歳が。


「生まれてきてくれて、ありがとう」


 これが一つ目だ。あなたに伝えたい言葉。


「これを伝えるなら、僕と出会ってからだけじゃ足りないと思ったから、湖凪さんの過去も祝いたかったんだ」


「だから、ロールキャベツ?」


「それぐらいしか思いつかなかったんだ」


「生まれてきてくれて、ありがとうか…お母さんたちも喜んでると思うよ」


「前、お墓参りするって言ったのにまだ出来てないな」


「近日中に行きましょ。私も、皆んなに二十歳になったよって報告したいから」


「いいね、花屋さんに寄って行こう」


 そして二つ目。僕は足元から包みを取り出すと湖凪さんの目の前の机に置いた。


「改めて、誕生日おめでとう」


「ありがとう。すっごく嬉しい。開けてみていい?」


「もちろん」


 リボンの紐を解くと、濃紺のベルベット生地の小箱が姿を現す。手のひらに乗ってしまうくらいの小さな小箱。


「これって…」


 本当は、気取っている気がしてすごく恥ずかしい。けれど、伝えたいという気持ちの方が大きかったから、目を逸らさなかった。


「指輪?」


「そう。どうしても、これが贈りたくて」


 シルバーリングに、雪の結晶をデザインした宝石が付いている。お店の照明が反射して、控えめに光っている。


「今だから白状するけど、僕が湖凪さんを好きだって気づいたのは、雪の日なんだ」


「この店にも来た、大雪の日?」


「そうあの日。僕は気づいたんだよ、湖凪さんを最初っから好きだったってことに」


「最初から…って…」


「うん、きっと一目惚れ。だから運命だって言ったんだ」


 雪の中で転がって、あなたへの想いを自覚した日。その日のことを、僕は死んでも忘れない。忘れないためのものが欲しかった。湖凪さんの指を見るたび、思い出していたかった。


「これさ、エンゲージリング用らしいんだ。一般的には、婚約用らしいんだけど、僕は直訳して約束って意味の指輪にしたいと思う」


 顔を真っ赤にしている湖凪さんに、二つ目の言葉を。


「死ぬまで一緒にいるよ。これからも、死ぬまで一緒に生きよう」


 これが伝えたい二つ目の言葉だった。夏のプールで約束したけれど、それを形にしたかったのだ。約束の輪に込めて。


「奏…」


「うん…?」


「指に、奏が嵌めて」


 そっと目の前に、薬指が差し出された。僕は慎重に、壊れ物を扱うように、そっと愛しい指を手に取って、指輪を差し込んだ。


「綺麗だよ」


 僕は素直にそう言った。自分のセンスへの肯定も兼ねて、笑顔も一緒で。


「…満点」


「当日に満点取っちゃったよ」


 あなたの特別な日を、満点の僕で迎えられたことを嬉しく思った。でも、もう一つ残っている。


「もう一つ、受け取ってくれる?」


「うん。幸せで溺れそうだから、いっそ呼吸ができないくらい追い込んでよ」


 僕は足元から、もう一つ用意したものを取り出す。また、小さな箱。


「香水なんだ、金木犀の」


「香水…」


「僕がもう一つ贈りたい言葉はさ」


 彼女の耳元へ顔を寄せる。首辺りに、湖凪さんの吐息を感じた。まだ、生きている証拠だ。


「僕は向こうでも、天国でも絶対にあなたを見つける」


 宣言だ。あなたを死んでも離さないという、僕の執着。


「一緒にいるのは、死ぬまでってことじゃなかった?」


「向こうは向こうで、また約束するよ」


 こっちでの約束を果たしたら、次は僕があなたを迎えに行こうと決めたのだ。砂漠を越えても、海を渡っても、昼の中だろうとも。


「こっちでは、湖凪さんに見つけてもらったから。次は、僕が見つけたいんだ」


 湖凪さんは答えない。ただ、ぼうっと僕を見ている。きっと、何かを想像しながら、僕を見ている。


「いや…かな?」


 沈黙に耐えかねて、僕が今までの威勢はどうしたと思うような弱音を吐くと、急に視界に影が差した。僕のカサついた唇に、甘い感触があった。


「嫌なわけ…ないでしょ。馬鹿」


「…良かった」


 その後、僕たちはマスター謹製だというバースデーケーキを食べた。二十歳おめでとうとチョコレートで書かれたプレートの上には、小さなホールのショートケーキ。そして、弾ける蝋燭が刺されていた。


「まるで、あの日の花火みたいだね」


「思い返せば、十九歳にはいっぱいの思い出があるね」


「二十歳も、同じくらい思い出で一杯にしよう」


「二ヶ月の間に?」


「そう」


「起きてられる時間なんて、ほとんどないのに?」


「そう」


「約束ね」


「約束するよ」


 結んだ指に、金属の冷たさを感じた。帰ろうとして、繋いだ手にも。


 病室に着くと、真美さんからのプレゼントを渡した。小包が開けられて、そっと大事そうに小棚に仕舞われるまで、僕はそれの正体を知ることはなかった。

 それから、たまに湖凪さんの着替えを待っている時間の中で、戸棚が開く音が聞こえることがあった。僕は何も言わない。きっと、それは僕が覗いていいものではないのだ。


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