秋②

気づけば九月二十五日になり、また湖凪さんの起きていられる時間は一時間減った。二十二時から、午後一時まで。たった三時間だ。


 そんな秋が本格化し始めた時分、僕はとあることに悩んでいた。また、生死を迷っているとか、湖凪さんとの関係に迷っているとか、そういう訳ではない。

 そこまで深刻ではないけれど、同程度には重要な悩みだった。


 とある日曜日、僕は湖凪さんが目覚めるまでの時間を利用して、病院近くのターミナル駅の周りをうろうろしていた。


 店を覗き見ては、首を傾げる。店を覗き見ては、スマートフォンに何か打ち込んで次の店を目指す。周りから見ると、結構奇怪な人間だったんじゃないかと思う。

 ただ最近、湖凪さんと過ごす日々の中で、そういう目線には鈍感になっているようだ。タクシー運転手に訝しがられるのなんて、最近では珍しくもないことだから。


「うーん…」


 駅併設の商業ビルのエレベーターで呻き声を漏らす。非常に難しい問題に直面していることから来るものだ。


 スマートフォンの画面と睨めっこしては首を傾げる。ここ数日はそれの繰り返しだった。


 検索エンジンに打ち込まれた履歴は、どれも自分が調べたとは思えないものだ。人生で初めてこんなことに悩むのだから、貝を出すのに時間がかかっても仕方ないと自分に言い聞かせる。


「どうしようかな…湖凪さんの誕生日プレゼント」


 僕が悩んでいるのは、湖凪さんに贈る誕生日プレゼントについて。


 そもそも、僕は誕生日というものに縁がない。自分が祝われた記憶も、今年の四月の一回っきりだし、他人のを祝ったことなんて、もちろん一度もない。


 その上、僕は自分の誕生日にかなり高価な物を貰ってしまっている。値段だけが全てではないといえど、評価指標の一つであることは確かだ。


 自分の左腕を確認すると、すっかり着けていることに違和感がなくなってしまった時計がある。投票権代わりにと、一度湖凪さんの元に戻った桜色は、今はまた元通り僕の腕にある。


 これは、正直十八歳の僕がつけるには分不相応すぎる値段だった。それに釣り合うお返しというのに加え、死ぬ前最後の誕生日。さらに、湖凪さんは二十歳という節目の年だ。


 何か特別なものを、という心ぐらい僕にも備わっている。


 そしてその心に従うと、今のところピンと来るものが一つもないのである。


 湖凪さんの誕生日は、十月二十五日。奇しくも、また湖凪さんの時間が少し奪われていく日なのだ。


 その不安感みたいなものさえ消せるプレゼント…。考えれば考えるほどドツボにハマってしまっている気がした。


 こういう時頼れる人間がいないというのも、自業自得とはいえしんどいものがあった。僕は全体的に人生経験が浅すぎるのだ。


 だからとりあえず、いろんな物を見て選択肢を増やすことに従事しているのだ。残り時間は少ない僕だけれど、湖凪さんのために使う時間は幾らでもあった。


 幾らでもあるとは言ったものの、結局時間だけが過ぎていくような日々だった。もちろん、湖凪さんと過ごす時間は特別で、他のことなんて考えられないくらい幸せだったけれど、それ以外の時間は彼女の笑顔のために考え続けた。


 湖凪さんの誕生日まで一ヶ月を切った頃。僕は性懲りも無く、店を練り歩いていた。収穫はないと言っていい。


 良さそうな店を探そうと周りを見渡していると、誰かと体がぶつかった。突然のことに驚きながら謝る声の方を見ると、


「あ」


「ん…?」


 そこにあったのは、知っている顔だった。


「あんた…湖凪と一緒にいた」


「真美さん…」


 湖凪さんの親友にして、僕に大きな悩みを抱かせた女性。真美さんだった。


 どうやら前回と同じく友人と一緒のようで、誰かが真美さんを呼んでいる声が聞こえる。


「湖凪…元気?」


「元気ですよ」


 共通の話題が湖凪さんオンリーワンであるため、会話がろくに続かず、すぐに場に沈黙が降りた。所謂気まずい空間というものだろう。お互い去ることも、何か話すこともない空間に僕たちはいた。

 自然と下に降りた真美さんの視界に、僕が握ったままのスマホが入るまでは。


「誕生日プレゼント…そっか。湖凪の誕生日、もうすぐだもんね」

 その、思わず漏れたといった風な言葉を聞いた時、僕の頭に決してこの気を逃すなというアラートがなった気がした。普段僕を冷遇している分の、神からの優しさだと思った。


 真美さんの方は、どうやら友人が痺れを切らしたようで、さっきよりも大きな声で名前を呼ぶ声が聞こえた。それを合図に、僕を一瞥して「じゃあね」と言って踵を返した真美さんの手を、僕は意を決して掴んだ。


 驚いたように振り返った真美さんの顔には「まだ何か用か?」と書いてあった。


「あの、相談に乗ってもらえませんか」


 振り返った真美さんは、疑問符で埋め尽くされた顔をしていた。けれど、


「湖凪さんのことで」


 僕が付け足した言葉を聞くと、明日の七時にこの前あったファミレスで。と言った。

 彼女にも「親友をください」と、きちんと挨拶をしなければならないかもしれない。それくらい「湖凪さんのことで相談がある」と告げた時の真美さんの顔は真剣なものだった。


 去っていく後ろ姿を見て、湖凪さんの親友とは仲良くしたいなと思った。大事に思うものが同じなら、それくらいは僕にもできる気がした。


 次の日、指定された時刻の五分前に僕はファミレスに辿り着いた。店内を見渡すけれど、まだ真美さんはいない。


 店員さんに後でもう一人くることを告げ、ドリンクバーを二つ注文した。相談に乗って貰うのだから、それくらいは払おうと思う。


 薄いオレンジジュースを飲んでいると、トートバッグを持った真美さんが入ってくるのが見えた。軽く手を挙げると、真美さんは伸びた背筋のまま僕の方へ歩いてきて、対面へ座った。


「来てくれてありがとうございます」


「湖凪のことだって言うし、君は湖凪の大事な人みたいだったから。気にしないでいいよ」


 僕は軽く頭を下げると、メニュー表を開いた真美さんに、ドリンクバーを頼んでいることを告げる。それを聞くと、彼女はすぐにメニューを元の場所に戻した。ドリンクバーだけでいいらしい。

 飲み物を取りに席を立った間に、ここで湖凪さんとドリンクバーだけで語らった日々があったのだろうかなんて想像をした。


「えっと、そうだ。まだ君の名前聞いてなかったね。会話しにくいから教えてよ」


「天野奏といいます」


「どんな字?」


「天気の天に、野原の野。あと、合奏の後ろの字です」


「ふーん」


 なぜそんなことを聞いたのだろうかと表情を見るけれど、真美さんは何の気なしと言った様子でストレートティーを飲んでいる。どうやら特に意味はなかったらしい。

 何だかその空気に、湖凪さんに近い物を感じた。それは湖凪さんから譲り受けてこの人の中にある物なのか、今の湖凪さんに染み込んだ物なのかが少し気になった。


「それで、相談って?湖凪へのプレゼントのこと?」


「はい」


「何に悩んでるの?」


 相変わらず、ズバズバとモノを言う人だと思った。会話のテンポについていけずに、少し言い淀む。


「…ちょうどいいプレゼントが思いつかないんです」


「ちょうどいいっていうのは、難しいよね。天野くんと湖凪の関係と、天野くんの思いの丈によって変わる物だと思うから」


「思いの丈で…?」


「そりゃそうでしょう?会社の上司。友人。恋人。そんな風に、関係でちょうどいいは変わるし、友人の中でも想う気持ちの大小でちょうどいいって変化すると想うから」


 友人の一人どころか、人と関係を築いてこなかった自分にはピンと来ないが、言っていることは分かる。プレゼントが、その人への想いを具現化させた物だということも。


「だからさ、聞きたいんだけど。天野くんって湖凪とどういう関係なの?」


 「あの時は答えてくれなかったしね」と、真美さんはストローでストレートティーをかき混ぜた。あの夏に答えられなかった問いに、季節を超えてもう一度向き合う。

 天を仰いで、少し考えた。あの時みたいに、答えが存在しないものの正解を見つけようとしているんじゃない。見つけた正解の、答えを表すのに最も適した言葉を探そうとして。


「そうですね…お互いにとって、お互いじゃないとダメな人ですかね」


 僕が恥ずかしげもなく言ったのがおかしかったのだろうか。真美さんの手からかき混ぜていたストローが滑り落ちて、カランとコップの中の氷を打ち鳴らした。

 さまざまな感情が内包されているような気がした、見開いた目は僕を見ている。僕を見透かそうとしている。


「…付き合ってるの?」


「いえ、特にそういうわけでは」


 僕たちの間に、そういった類の言葉は無かった。そんなものがなくても、最後までお互いが隣にいることが分かっているのだから。ただ、世界で最も愛おしいと、態度で示し合うだけ。


「ダメだ。二人が特殊すぎて、全然私じゃ分かんない」


 お手上げだと言わんばかりに、真美さんは一つ伸びをした。特殊と言われるとそうなのかもしれない。世界有数の奇病を患った余命数ヶ月の女と、その隣に居続けて朽ち果てていく男。

 それでも、僕が生きてきて唯一築いた関係だった。僕にとっては、これが唯一の解答例で、スタンダードだ。


「でもさ、私には分からないから。あなたたち二人だけが分かる物を、形にして贈ると良いと思うわ。ごめんなさい。抽象的なことしか言えなくて」


「僕たちだけが分かるものを…形に…」


 そう呟いた時、ふっと思いつくものがあった。初めて、何かが僕の中で形になっていく感覚があった。


「何か思いついた?」


「はい」


 頬杖をついた真美さんは、随分と鋭い人のようだった。昔は感情を表に出さない人だったらしい湖凪さんは、今なら全部考えていることがバレてしまうのではないだろうか。


「なら良かった。湖凪の二十歳、ちゃんと祝ってよね」


 真美さんはそう言うと、残ったストレートティーを一気に飲み干した。少し寂しそうに見えたけれど、そう思ってしまったことは、決して口にも顔にも出すまいと無表情に務めた。


「ごめん、今何時かわかる?」


「八時前ですね」


「そっか。ごめん、大学に戻らないと。今日中に終わらせたいレポートがあるんだ」


「あ、はい」


 真美さんはいそいそとトートバッグを肩にかけて、帰り支度をし始めた。僕も伝票を持って立ち上がる。


「ここのドリンクバー、いくらだったっけ」


「いいですよ。僕が払います」


「…そういうわけには」


「前回も奢ってもらってますし、相談料には安いぐらいですよ」


 本音だった。本当に助かったのだから。


「…なら、お言葉に甘えよっかな。あと、もう一つだけ甘えてもいい?」


 真美さんはそう言うと、トートバックの中から赤いラッピングが施された小包を僕に手渡した。


「本当は、直接渡したいんだけど。多分、それは出来ないんだと思うから」


 鋭い人だ。何となく何かを察しているのだと思う。そして湖凪さんも、この人の鋭さを理解しているから離れたのだと、今なら分かる。


「必ず、渡します」


「うん、お願い。中の手紙に言いたいことは全部書いたから、言伝はいらないわ。天野くんも、私のプレゼントに負けないように頑張りなよ?」


 僕が頷くと、真美さんは満足そうに立ち上がった。支払いを済ませると、もう一度真美さんにお礼を言った。彼女はドリンクバー代と配達代でチャラだと笑うけれど、随分と負けてくれていると思う。


「ね、私には代わりがいたのかな」


 店外に出た別れ際、思わずといった様子で真美さんはそう零した。僕は真美さんとあった夜の湖凪さんを思い出した。僕と出会ってから、唯一あてもなく時間を無駄にしたあの夜。唯一だったということは、そういうことなんだと思う。


「それはないですよ、絶対に」

 

 きっと、湖凪さんが聞いたら怒ったと思うから、僕も少し怒気を含めて言う。


「ごめんね、馬鹿なこと言った」


「本当ですよ」


 真美さんはバツが悪いのを隠すように咳払いをする。僕も聞かなかったことにしようと心に決めた。


「そういえば、さっき時間を確認してくれた時に見えたんだけど、その時計って湖凪が選んだの?」


「え?はい。僕の誕生日に」


「そう。何となくそんな気がしたの」


 最後にそれだけ言うと、真美さんは僕が向かう方面とは逆側へと消えていった。あなたに代わりがいるはずなんてないと、心からそう思った。


 真美さんと別れると、僕は急ぎ足で目的地へ向かった。思いついた物を確保するなら、早い方がいいと思ったのだ。


 それから数件、店を回った。僕はプレゼントを決めると、当日に受け取りに来ることを伝えた。まだ、行くところがあったし、一度家に帰るつもりもなかったから荷物は増やせない。まだ行くところがある。物だけじゃなく、贈りたい物があった。それには、頭を下げに行かなきゃいけない場所がある。

 

 僕たちの間にあるものを、僕の想いを。ほんの少しでもいいから、言葉じゃなくて、態度じゃなくて、物にして渡したい。


 あなたの残りの時間を、少しでも彩るために。僕がそうしたいと思ったから。


 足取りは、随分と軽かった。

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