秋①

九月になって、僕たちはまたアドベントカレンダーの中身を行う生活に戻った。それは夏と変わらない日々のようで、少しだけ変わった日々だった。


 どこが変わったのかと聞かれると、うまく答えられない。些細なことが重なって違いになっているから、それを列挙するには僕らには時間が足りない。


 湖凪さんにおはようを言う時。出かける時に手を握る時。何かがそっと重なる時。


 そんな瞬間に少しだけ、進む季節の分だけ僕たちの間には言葉に出来ないものが棲み始めた。


 湖凪さんはそれを「距離が縮まった」と称した。何の距離かは、お互いに言わなかったけど分かっていた気がした。


 ただ、幾つか九月になって明確に変わったものが存在した。


 一つは単純に、僕が学生の身分を思い出したことだ。簡単に言うと、夏休みが明けて新学期になったのだ。

 学校では僕は何も変わらない。当たり前と言えば当たり前だが、僕に話しかける人は一人もいないし、放課後はすぐに帰る。湖凪さんの起きていられる時間の減少とともに、そこまで夜更かしはしなくなったものの、相変わらず授業の半分ぐらいは寝ている。


 強いて言えば担任の授業は寝なくなったくらいだろうか。借りがいくつもあるのでバツが悪いのだ。

 担任は、プールの鍵を返しに行くと「悪いことしてねえだろうな」とだけ言って、何も聞かなかった。やっぱり僕は、大人になれる未来があったなら、こんな人になりたかったと思った。


 そしてもう一つ。これは個人的には大きな変化だった。


 湖凪さんがモノトーン以外の服を着るようになったのだ。秋らしい、ブラウンとホワイトのチェックスカート。オレンジ色のパーカー。紅い花を象った髪留め。


 どれも湖凪さんの美しさを彩るものだったけれど、最初は随分と慣れなかった。ずっと暗い部屋に篭った後に、急に陽光に焼かれた目が違和感を感じて、慣れるのに時間がかかるようなものだった。


 そういえば、最初深夜営業の喫茶店で話している時に、モノトーンの服装に統一しているのには理由があると言っていたが、結局教えて貰っていない。それを思い出して、理由を尋ねてみると「墓まで持っていくことにしたの」と言われた。皆目見当もつかない。


 変化といえばそれぐらいだ。僕たちは時間を大事に、寄り添って毎日を生きている。アドベントカレンダーで死への花道を飾り付けながら、ゆっくりと今日を生きている。


「奏。やっぱりここ乗り越えれるよ」


「湖凪さん、それ犯罪…」


「受付のところのお金は置いとくし、大丈夫でしょ」


「全然大丈夫じゃないと思うよ」


 ゆっくりと、というのは嘘かもしれない。時には激しく、僕たちは生きている。


 九月の後半。今僕たちがいるのは、街の外れにある植物公園の前。もうちょっと正しく言えば、すっかり閉園した後の植物公園の前だ。


 少しの遊具と、たくさんの花壇。温室で育てられる珍しい植物などが売りの場所らしい。なぜ僕たちがこんな所にいるのかというと、


「でも、街中だとここぐらいだよ?きちんと金木犀の匂い嗅げるの」


 当然アドベントカレンダーの中身が原因である。


 本日の内容は「金木犀の匂いを確かめたい」である。しかもこれは僕が書いた紙だ。


 夏の匂いという確かな正解がないものと違って、金木犀は秋の匂いの代表格として語られる。その割には、僕はその匂いに覚えがなかった。

 もし嗅いだことがないのなら、死ぬ前に一度確かめたかったし、もし嗅いだことがあるのなら、どこで嗅いだものなのか思い出したかったのだ。


「だからといって犯罪はさあ…」


「いざとなったら怒られる時も一緒でしょ。大丈夫よ」


「何が大丈夫なの?」


 僕が金木犀の香りに覚えがないと言うと、どうやら湖凪さんも思い出せないものだったらしい。嬉々として金木犀がある場所を調べてくれたのだが、連れてこられてみると閉園後だった。


「最悪バレても、余命幾許もないんです…って言えば、大抵のことは何とかなると思うの」


 まあ、要するに今の状況は不法侵入一歩手前だ。あと、僕は相変わらずその手の悪趣味なジョークには笑わないことにしている。 


「ほら、時間が勿体無いよ」


 湖凪さんは、僕より一足先にヒョイっと門を飛び越えると、僕をじっと見つめてそんなことを言う。頭では分かっている。僕が湖凪さんに見つめられて、断れた試しがないことを。


 大きなため息を吐いて、僕は門を飛び越えた。湖凪さんが、これで共犯だと言わんばかりにほくそ笑んだ。アイビー色のスカートが揺れた。


「ここ、子供の頃にお母さんに連れてきて貰ったことがあったの。だから、一石二鳥って感じ」


 記憶と擦り合わせるように、キョロキョロと辺りを見下ろしながら、湖凪さんは僕の手を引く。相変わらず僕が手を引かれる側なのは、初日から変わらない。


 花壇でできた傾斜を降りて、芝生の広場を抜けると、いよいよ金木犀がありそうなゾーンに辿り着く。


 古びた看板に従って、歩き始める。どこかで時鳥の鳴き声が聞こえた。


 しばらく道なりに歩くと、僕たちは多数の住人に迎えられた。忍び込んだ、夜の花畑。営業時間外だから、ライトアップなんてものもされていない、素顔の花たちが僕らを迎えた。


「わ、綺麗」


「コスモスかな」

  

 樹木の道順に従って歩いた先の宵闇もあって、終わりが見えない花畑には一面のコスモスが咲き誇っている。


「綺麗だね」

 


  僕も湖凪さんも、そんなありきたりな言葉を復唱するしかないくらい圧倒されていた。気高く、背筋の伸びた美しさに、目を奪われていた。

  

 かかっていた雲が晴れ、月明かりが花たちに化粧を施し始めるまで、僕らは目的も忘れて、そうしていた。


「行こっか」

 

 先に僕が思考を復活させて、花の海の水面に何かを映しているかのような湖凪さんの手を引いて、花畑の奥の方へと歩き始めた。 暗いから、どれが金木犀かスマホのライトで照らしながら、花達の名札を確認しながらゆっくり歩いた。


 ハナミズキ。錦木。ナンキンハゼ。ブルーベリーの木。

  

 少し歩くごとに移り変わっていく香りと光景に、そして引っ張る手から伝わる柔らかさと体温に少しクラクラしながらも、金木犀の元へと。方向もわからぬまま。

 

 そんな時、湖凪さんが唐突に立ち止まる。手を引いていた僕は、若干つんのめるような形になった。


「湖凪さん…?」

 

 僕が少し非難がましい目をして名前を呼ぶと、湖凪さんは空いた手で鼻をツンツンと示した。それに倣うように、花に空気を吸い込んでみると、ハッとした。一際強い匂いが、まるで「ここにいる」と教えてくれるように香っていた。


 独特でいて、強い香りなのに、なぜだか優しく感じる、不思議な匂いだった。香りを嗅ぎに行くという行為を自ら行わなくとも、きっとこの花は通りすがるだけで教えてくれる。


 「もう秋だよ」と。

 

 匂いの根源へ向かうと、月明かりに照らされた黄金色の小さな花々をつけた樹木が。目的の金木犀が、そこにはあった。


「これが秋の匂いなんだね」


「何だか、懐かしい」


 懐かしいという言葉に至極納得した。この匂いを嗅いだだけで、脳裏に過去が映し出された。恐らく、湖凪さんもそうなのだろう。ぼんやりと月明かりに照らされて、目を閉じていた。


「ね、奏。奏は何を思い出した?」


「僕は小学校の帰り道かな。学校の裏門の側にあったんだ」


「私はね、家を思い出したの。お母さんも、お父さんも生きてた頃に住んでた家」


 僕の手を握る力が、わずかだけれど弱まった気がした。思い出している頃の湖凪さんが握っているような、不思議な感覚。


「小さな小さな、三階建てのアパート。階段を降りたすぐ近くに金木犀があったんだ」


 僕が知らない湖凪さん。何も失っていない頃の彼女は、どんな人だったのだろう。


「私の背丈ぐらいの小さな木だったの。いい香りがするねって、お母さんに言ったわ。どうして忘れてたんだろう」


 一度嗅げば、在りし日を思わせる匂い。誰かを思い出し、忘れず、見失わない匂い。


 僕は、悪いと思っていながらも金木犀の木に近づくと、一房分の花束をもぎ取った。そしてそれを、不思議そうに見ている湖凪さんの髪にそっと差し込んだ。


「どうしたの?」


「忘れたくないなと思ったんだ」


「この瞬間を?」


「湖凪さんのこと、全部」


「きっと、思い出せるわね」


 この香りを嗅げば、どこか知らない世界に迷い込んだ僕も、あなたを探し出せるだろうか。そんな日が来るまで、もう幾許もないところまで僕たちはたどり着いている。


「ね、せっかくなら、もう少し奥まで行ってみない?」


「珍しいね、奏がそんなこと言うなんて」


 揶揄うような笑みが、答えだった。


 いろんなものが僕たちを迎えた。


 人工池にかかる橋。渡ると、寝ていた鯉がびっくりしたのか、大きな音を立てて水を跳ねさせた。それに驚いた湖凪さんが、危うく池に転落するところだった。

 間一髪のところで堪えて、高鳴っているらしい心臓を抑えているのを笑うと、危うく僕が突き落とされる羽目になりそうだった。相変わらず、運動神経が悪いのは気にしているらしい。


 橋を渡った先には、アスレチックのようなものが聳え立っていた。大きな滑り台に登った。湖凪さんは大きな歓声と共に滑り降りた。その声にまた驚いたのか、池の方から水音がした。


 ターザンロープとやらをした。僕は見たことがないものだったので試行錯誤していると、紐に抱きつくような形になったところで、湖凪さんに背中を押された。滑車付きのロープが、僕をそこそこのスピードで湖凪さんから離していく。


 突然のことに妙な声が出たみたいで、小さな衝撃とともに滑車が止まると、後ろから大きな笑い声が聞こえた。

 恥ずかしさと、若干のイラつきから、走って湖凪さんの方へと駆け出した。特に何をしようと思ったわけでもないのだけれど。


 そこから先は、単純な追いかけっこだった。芝生の上を駆け抜け、アスレチックの中を逃げていく湖凪さんを追いかけて、体力が尽きるまでそうしていた。


「楽しかったね」


「それに、疲れたよ」


 汗だくになって、気づけば二人とも芝生の上に寝転んでいた。二人とも、金木犀の匂いで童心を思い出したのかもしれない。僕は子供の頃、こんなアクティブではなかったけれど。


 二人共、気づけば笑っていた。空には朧雲。お月様が半分顔を隠して、恥ずかしそうに僕らを見ていた。


「ね、奏。今度さ、お父さんとお母さんに会ってよ。あと、お婆ちゃんにも。」


「あの世でってこと?」


 僕がそう返すと、湖凪さんはケラケラと笑った。「不謹慎ジョークは、奏の方が才能あるよ」なんて言われたけど、少しも嬉しくない。


「違うよ、お墓参りしてってこと」


「なんて言えばいいのかな。お嬢さんを下さい?」


「正装で来てね」


「そうするよ。湖凪さんの両親に嫌われたくないからね」


 死ぬ前の小さな約束をした。今は全員いなくなってしまった彼女の家族に、僕はなんて言おうか本当に分からなかった。

 一番聞こえがいいとするならば「お嬢さんと生涯添い遂げます」だろうか。嘘ではないのだし。


 ただ一つ、決まっていることがあった。墓前に供える花の名前だけは、既に決めてあった。


 黄金の輝きが鈍らぬうちに、湖凪さんの家族に会いたいと、そう思った。

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