夏⑪
夜になると、僕は病室へ向かった。湖凪さんが目覚める二十二時より、少し前に。
まだ蒸し暑い夜の中、少し懐かしく感じる駅にたどり着く。ほんの少しの間来なかっただけなのに、なぜだか駅の様子が違って見えて、一枚写真を撮った。
駅ですらそうなのだから、湖凪さんの顔を今の僕が見たらどう思うのだろうと、そんなことを想像しながら病院への道筋を辿った。
裏口から院内に入る。汗を拭う。自分の靴音だけが響く廊下。久しぶりに少し怖いと思った。
湖凪さんの前まで辿り着くと、ちょうど部屋のドアが開いた。少し驚いて、つんのめるように立ち止まる。
「…婦長さん」
「あら、天野くんですか」
出てきたのは、手にタオルなんかを持った婦長さんだった。起きていられる時間を有効活用するために、湖凪さんは婦長さんに体を拭いてもらったり、頭を洗ってもらったりしている。たまに熱いシャワーが浴びたいと言う時はあるが、その時以外は大抵そうだ。
恐らく、ちょうどそれが終わったタイミングと被ったのだろう。
「ここ数日見ないので、どうしたのかと思いましたが、お元気そうで何よりです」
出会い頭に、少し皮肉げにそう言われて言葉に詰まる。相変わらずこの人は何となく苦手だ。
バツが悪くて、ポリポリと頬を掻く。何か返したかったけど、それを最初に言うのは湖凪さんが良かったから。
そんな僕に何を思ったのか、婦長さんは何も言わずに僕に背を向けた。足音が遠ざかっていく。それに混ざって、蛍光灯からカラカラ音がする。水銀のせいだとか、そうじゃないとか。
「あの」
「何か?」
僕は頭の上から鳴る音を聞いて、言うべきことを思い出してその背中を呼び止めた。相変わらず表情のない顔がこちらを向き直った。
「蛍光灯、新しいのに変わりましたね」
「は?」
無表情に、困惑の色が加わった。僕の顔と天井の間を視線が行き来した。彼女のことが、少し好きになれそうだった。
「いや、何でもありませんよ。ごめんなさい」
最後まで不思議そうな顔をして、再び背を向けた彼女には、僕の発言の意図がさっぱり分からなかっただろう。それでいいと思った。
左腕ではなく、スマホを見て時間を確認した。少し予定外のことはあったものの、おおよそ予定通りの時間に病室の扉を開けた。
ノックをしても、返事はない。知っているのに、僕はいつもノックを欠かさない。それが湖凪さんの存在を認めることだと、僕は思うから。
部屋の中に入ると、そこは夏の終わりに差し掛かっても何も変わらない場所だった。相変わらず存在しない椅子。棚の上のアドベントカレンダー。そして、窓の側のベッドには美しい眠り姫。
眠り姫。一部の世間ではそんな呼び方をされているけれど、彼女はお姫様なんて柄じゃない。お転婆で、気分屋で、甘いものが好き。それでいて、王子様なんて崇高なものじゃない僕なんかを好きになる、ただの女の子だ。
棚の前へ向かって、もう八月の窓がたった一つしか残っていないアドベントカレンダーを手に取る。棚の上には、恐らく僕と合わなかった期間のカレンダーの中身が転がっていた。
風鈴を買いに行く。何もなし。何もなし。クレープを食べる。スイカを食べる。
これらを一人でしたのだろうかと想像する。僕といない時間の湖凪さんは、あまり想像ができなかった。思い返せば、湖凪さんが起きている時間は、ほぼ全て僕と共にあったのだ。それが、ごっそりと抜け落ちてしまったのが、今更とても残念に思えた。
「スイカを食べられなかったのも、残念だな」
そんな独り言と共に、僕は残り一つの窓を突き破って中身を取り出す。紙には予想通りのことが、丸っこい字で書いてあった。
湖凪さんが目覚めるまで、後五分強。僕はベッドの端に腰掛けると、その刻をじっと待った。秒針の音に合わせるように、一つ深呼吸をした。
「おはよう、湖凪さん」
眠り姫が目を覚ましたとき、僕は何ら変わらない言葉で彼女を迎えた。湖凪さんも、それを分かっていたかのように澄んだ目で、僕を捉えた。
「早速なんだけどさ」
「うん」
「プールに行こうよ」
手に持った紙を広げてそう言うと、湖凪さんはポカンとした顔をした。それが、本来あるべきの寝起きすぐの顔に見えて、僕は笑った。
「わあ」
湖凪さんが声を上げたのは、僕がプールに繋がる鍵を開けた時だった。錆びた錠前は、ギシギシ音を立てて外れた。
ここは、僕が通う高校の敷地内だ。まさか人生で、一日のうちに三回も登校する羽目になるとは思わなかった。
「なんで、プールの鍵なんて持ってるの?」
「先生に頼み込んだ」
僕は桜並木の青葉の下で、藤井先生に電話をかけた。それは、湖凪さんの病室に行って『プールに行く』というアドベントカレンダーが、まだ残っているかどうかを確かめてもらうためだ。
案の定返事はイエスだった。妙な確信があった。僕はその報告を聞くと、踵を返して学校に戻った。そして、担任に頼み込んでプールの鍵を一晩貸して貰うことに成功した。中学校に行った時、湖凪さんは学校のプールに入りたそうだったから。
一時間もしないうちに舞い戻ってきた僕に、担任は大層驚いていた。「なんだ?水泳選手にでもなるのか?」と揶揄われたものの、何だか嫌に素直に許可をとってくれた。
「許可をくれた先生って、あの担任の先生?よく許可くれたわね」
「そう。僕も驚いたけど、映画研究会が夏の思い出フィルムを作ることになってるらしいよ」
「素敵な先生ね」
「僕には勿体無いくらいね」
プールの近くは、湿気が凄い。タイルはぬるぬるしていて、僕たちは何度かすっ転びそうになったけど、何とかプールまで辿り着いた。
二人とも何も言わずに腰を下ろし、足だけを水に浸けると、軽くバタ足するみたいに足を動かした。チャプチャプと、間の抜けた水音が響いた。
「気持ちいいね」
「お尻の部分が濡れて、ちょっと気持ち悪いことを除いたら最高だね」
夜の学校は静かで、世界に二人だけみたいだった。僕らには時間もなくて、話したいことはいっぱいあって、伝えたいこともいっぱいあるのに、僕は少しの間黙ったままだった。この熱を、足先から染み込んだ夏の温度が冷ましてくれるまで。
「ねえ、湖凪さん。伝えたいことがあるんだ」
「…うん」
「僕さ、ここ数日考えたんだよ」
「うん」
「まずは、僕はそんなに変わったんだろうかって」
自分を見つめ直すなんて、人生でした覚えがないから大変だった。常に一緒だった自分の体の中身のことなのに、さっぱり分からなかったんだ。
「変わったよ、奏は」
「そうかもしれない」
よく考えれば当たり前なのだ。あなたに恋したあのクリスマスの瞬間から、僕はずっと変わり続けている。ずっと、あなたの一挙一動に変えられ続けているのだ。
「いつか言ったよね。大事なものが増えれば増えるほど、死ぬのが怖くなるって」
「雪の日だね、忘れるわけないよ」
僕も忘れるわけがない。あの雪の日は、ずっと僕の原動力なのだから。それこそ、僕が変わり始めた日。
「僕さ、部屋から川面を眺めて気づいたんだ。死ぬことを考えなくなってた」
いつも、川面に映していたのは自分が死ぬことばかりだった。それが、今は違う。
「それどころかさ、死ぬのが怖いって思ったんだ」
驚きだ。あの僕が、そんなことを思うなんて。自分が嫌いで、死にたかった僕がだ。
「その時、自分の言葉を思い出して考えてみたんだ。じゃあ、僕が失いたくない大事なものって何なんだろうって」
「うん、聞かせて」
「全部湖凪さんとのことだったんだ。物も、記憶も、人も。全部」
自分でも笑ってしまうほど、浮かんでくるのは湖凪さんのことばかり。
「自分でも不義理なのは分かってるんだ。父さんや、担任の先生、マスターだったり、藤井先生の優しさに気付けないわけじゃない。気づける僕になってたんだ、あの人たちの良さを」
全部あなたのおかげだ。死の淵にいながらも優しいあなたの体温に触れて、あなたと同じ世界を少しだけ覗いた僕だから、そうなれた。
「でも、それと同時に分かったんだ。それは、湖凪さんがいるからなんだって」
今日の昼間の桜並木の最中、一瞬訪れた無音の世界。あの、湖凪さんのいない世界の中で僕は知った。
あの世界の中で、僕は死にたかった。何も守るべきものも、失う物もなかった。あなたが失われただけで、桜並木の用水路に飛び込んでしまいたかった。
「湖凪さん、言ったよね。きっと変わった俺には、いくつもの普通の幸せが待ってるかもしれない。それを捨ててまで、私を選ぶのかって」
「うん」
「違うんだよ。湖凪さんがいなくなった時点で、そんな未来はきっとないんだ」
湖凪さんがずっと寄り添ってくれている未来。それが存在すれば、僕はきっと湖凪さんが語ったような、普通の幸せを掴めたのかもしれない。
でも、それはもうない。あなたを失った平熱の僕じゃ、余熱で誰かを愛せる人間にすら足りない。
「だからさ、連れてってよ。僕を、最後の最後まであなたの隣にいて、変われた自分のまま終わらせて。それが僕にとっての普通の幸せなんだ」
僕は立ち上がって、月を睨め付けるように答えを示した。湖凪さんは、僕を見つめたまま、何も言わない。
「ねえ、湖凪さん。ちょっと、立ってみて」
「え?」
僕は、少しよろめくように立ち上がった湖凪さんの手を取ると、目の前の浴槽に飛び込んだ。言葉で足りないなら、行動で。示せ、僕の全部を。
水飛沫の上がる音が、どこか遠くに聞こえた気がした。目の前に立ち上る気泡と、光を乱反射した青い世界。見惚れる間も無く、驚いた顔をして目を瞑ったあなたを、素早く抱き寄せて唇を奪った。
生温かい感触と共に、湖凪さんがうめき声にも近い声を漏らしたのを聞いた。
初めてのキスは、塩素の匂いと、酸素を送り込む『生』の味がした。
浮上する。水面へと、急激に。唇を押さえて、呆然とした様子の湖凪さん。言うことは、決めていた。
「湖凪さん。実は、僕カナヅチなんだよ」
「へ?」
別に隠していたわけでもないけれど、言ったこともないことを口にした。実は僕は、湯船で溺れたことすらある、生粋のカナヅチなのだ。
「だ、だから入水自殺しようとしてたの?」
「うん、確実に死ねると思ったんだ」
万一助かろうとしても、自分には助かる方法が備わっていない。だからちょうどいいと思った。
「今も実は怖いよ。足ついてるのにね」
今考えると、僕が川のそばに居を構えたのは、毎日聞こえる流水の音が僕にとって死の象徴だったからなのかもしれない。
「でもさ、僕はそんな怖いって気持ちよりも、湖凪さんと飛び込みったいって気持ちが勝ったんだよ」
クリスマスの景色。桜の花。花火の威容。死の音でさえ、今や僕にとってはあなたを想起させる物でしかない。
僕の今の世界は、全部あなたで出来ている。
「僕の命は、もう湖凪さんがいなきゃ意味ないんだ。僕の世界は、湖凪さんで全部なんだ。ようやく気づいた。だから、最後まで連れてって。終わらせるのも、湖凪さんであって欲しいんだ」
あなたは僕の何なのか。それは、僕の命よりも大事なもの。
僕は、あなたの何で在りたいのか。僕も、あなたが死ぬまでの全部で在りたい。
「いいの…?」
「いいとかじゃないよ。これしか嫌なんだよ」
「偶然出会って、変なこと言い出した女にそんなこと言っていいの…?」
「あの時、湖凪さんと会わなかったら、僕は今頃海の底だよ」
「…こんなめんどくさい女と、最後まで一緒に居てくれるの?」
「めんどくさいあなたがいいんです」
今浸かっている、こんなぬるい水じゃなくて氷河みたいに冷たい水で一人。今は、足もつく怖くない水の中で二人。本当にあなたに会えてよかった。
「あと、さ。こんな恥ずかしいこと、一回しか言わないから、よく聞いてね」
少し開いた湖凪さんとの距離を縮めるように、数歩前へ出た。服が濡れそぼって、体が重い。
「湖凪さんは、僕との出会いを偶然だって言うよね」
頷いた湖凪さんの頬に触れる。僕の手が冷え切っているのか、それとも湖凪さんの体温が高いのか。水の中にいるのに、なぜだろう。
「でもさ、僕は湖凪さんとのあの日の出会いを、こういう言葉にしたいんだ」
湖凪さんと目が合った。まるで僕らのせいで揺れる、プールの水面みたいに潤んだ瞳。ねえ、きっとさ。僕らの出会いは。
「運命って、呼んじゃだめかな」
笑われるかもと思った。でも、この瞬間の湖凪さんの顔を見逃したくなくて、目線は逸らさなかった。
いざ、想像じゃない未来に立ったら、熱っぽい目をした湖凪さんが、僕の瞳に映り続けている。
どうしたのだろうと思っていると、瞬きのその一瞬の合間を縫って、僕は水面に押し倒された。一拍遅れて、湖凪さんに飛びつかれたのだと分かった。
貧弱な僕は湖凪さんを支えきれずに、背中から水へと沈んでいった。
「こ、湖凪さん…?」
「…顔見ないで」
何とか湖凪さんを抱えたまま立ち上がると、湖凪さんは、僕の胸板に顔を押し付けたまま動かない。
そんな彼女の体に手を回し、抱きしめる。君を愛する準備だけをして生きてきた体で、抱きしめる。
きっと、僕の死にたいという感情もあなたと出会うためにあった。ただ、それだけのことだったのだ。
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