夏⑩

考えては眠って、考えては眠ってを繰り返した。気づけば、学生の夏の終わりの日になっていた。


 八月三十一日。朝とは言い難いけれど、真昼というのもおかしいぐらいの時間に目を覚ました僕は、顔を洗うと制服に着替えた。


 別に僕だけ夏休みの終わりが一日早まったとか、そういうわけではない。だが、学校には行かなければならない。


 カーテンを開けると、窓から見える風景は茹だるよう。今にも溶けてしまいそうな黒々しいアスファルトを見て、一つ大きなため息を吐いた。 


 右ポッケにスマートフォン、左ポッケに財布。それだけを持って外に出ようとして、思い返すように尻ポッケに皺の寄ったハンカチを畳んで突っ込んだ。

 ドアを開けるまでに、数秒の勇気が必要だった。外の世界は、僕を熱風と共に迎えた。エントランスを抜ける頃には、じんわりと背中に汗が滲んだ。


 久しぶりの制服は、まるで、初めて着る入学式の時のように自分に馴染んでいないような気がした。途中ですれ違った、同じ高校の女生徒はあんなにも似合って見えるのに。


 校門をくぐり、昇降口から三階へと向かう。体力のない僕は既にヘトヘトで、階段を登るのがキツイ。

 ハンカチで汗を拭うと、設置された自販機で麦茶を買った。喉が鳴るくらいの勢いで、中身の三分の一程度を流し込んだ。勢いがつき過ぎたせいで、少し口の端からこぼれた液体が、制服の襟を濡らした。


 廊下の端の目的地の前まで辿り着き、スマートフォンで時間を確認する。約束の時間は十二時半。まだ、十分ほど時間がある。ここ数ヶ月で、時間を大切にする癖がついた気がする。


「確かに、ちょっと変わったのかもしれないなあ」


 そんなことを呟くと、目の前のドアノブに手をかけた。ぬるい金属の温度に、熱帯夜の風を思い浮かべる。

 扉を開けると、中には一人の教師がいた。しかし、目的の人物はまだいないようだった。名前を告げると、ソファーに座って待っているように言われた。しばらくすると、その教師もいなくなった。呼びに行ってくれたのか、そうでないのかは分からないけど、どうでも良かった。


 クーラーが体表の汗を冷やしていく感覚を存分に楽しんでいると「体を冷やすと風邪をひくよ」なんて声が聞こえた気がした。でも、当然そんなことを言ってくれる人は日中にはいなくて。その幻覚の代わりにドアが開いてとある人物が顔を覗かせた。言うまでもなく、僕を呼び出した人物だ。


「よう、久しぶりだな」


「どうも」


 僕を呼び出したのは、担任教師だ。数日前に僕のスマホにかかってきた不在着信は、彼からだった。

 今の「どうも」には、この前はどうもありがとうございますという意味もある。もちろん担任もわかっているようだった。

 もう一度かかってきた電話に出ると、要件は簡単に言うと「用があるから学校に来い」だった。


「なんだ、飲み物買ったのかよ」


 両手にペットボトルを持った先生は、片方の水を僕の前に置く。くれるというなら、ありがたくいただいておこう。

 約一ヶ月ぶりに会った先生は、夏仕様なのか髪を短く刈り込んでいて、爽やかだった。水を飲む姿がやけに映えている。 


「んで、わざわざ来てもらったのは進路のことでな。クラスで決まってないの、もうお前だけなんだわ」


 まあ、そうだろうと思っていたが、案の定進路のことだった。呼ばれたこの部屋は進路相談室なので、当たり前なのだが。


 湖凪さんの傍にいなければ、僕は世間では受験生。受験生でないなら、就職活動中という年齢だ。


「それで?まずは、大学進学か就職かってとこだな。どっちの可能性が高いかだけでもいい。どうだ?」


「…すいません。まだ、それも」


 その前に、生きるか死ぬかを決めなきゃいけないのだ。話はそれからだ。


 僕の顔をじっと見た先生は、嘆息を一つ挟んで、一枚の紙を取り出した。


「悩んでるって顔だな。まあ、分かるよ。進路決めろなんて、酷だよなあ」


 机に置かれた紙は、進路希望用紙。第一から第三希望まで、僕はずっと白紙のまま提出していなかった。


「ま、今日は意思確認だけだ。なんか、迷ってんだろ?一番時間稼げるし、私学の大学受験するってことにしといてやるよ」


 その言葉に、思わず目を点にする。きちんと決めろと言われると思っていたから。


「なんだよ?その顔」


「いや、僕が言うのも何ですけど、そんな適当でいいんですか」


「はあ?適当じゃねえよ」


 何を言うんだという顔で、先生は取り出した大学一覧表を僕に渡す。


「お前が適当に、何も考えてなくて決めてねーなら、俺はここでテキトーに決めちまえって言ったよ。あ、それ見て何となく私立大学三つ書け。今日のとこはそれで良い」


 僕は呆然とした気分が抜けきらないまま、渡されたペンを手に目についた大学を書いた。一つ目は、湖凪さんが通っていたらしい大学にしておいた。


「先生は、どうやって進路決めたんですか」


「ん?俺か?」


 筆を走らせながら、何かの一助になれば良いと目論んで、そんなことを尋ねた。先生は顎に手を当てて、かつてを思い出すように目を瞑る。


「そうだなあ…俺は、そもそも高三の頃には教師になりたかったんだよ。ほんと単純な理由でな」


 気づけば、僕はペンを操る手を止めて先生の話に聞き入っていた。


「お前教えるの上手いな。物心ついてから、何人にもそう言われた。それのせいかなあ、勝手に『俺は教師が天職なんだ!』って思ってたから、教師になるために生きてた」


 何かになるために生きる。僕もそう在れば、死のうなどと思わなかったのだろうか。


「だから、大学もとりあえず教育学部か教育大って感じだな。だからお前も、好きなもんから考えてみたら良いじゃねーか?って、もう良いだろ。書けたか?」


 先生は恥ずかしそうに頬を書くと、話を遮るように僕を急かす。僕は慌てて、残りの大学名を記入して、進路希望用紙を手渡す。


「よし、じゃあ決まったら言え。時間を稼ぐにも限界があるぞ。時間は有限なんでな」


「ええ、多分それはこの世で二番目によくわかってると思いますよ」


 不思議そうな顔をした先生に礼を言うと、出口へと向かう。ドアノブに手をかけたところで後ろから「悩みすぎんなよ。何かあったら言え」と声が聞こえた。

 振り向き、もう一度礼を言うと外に出た。僕は、また灼熱の中に戻っていく。


 外に出ると、少し風が吹いていた。ないよりはマシ、という程度だけれど暑さが紛れる気がして、ありがたかった。


 帰り道、ここ数日間に貰った言葉を、頭に浮かべながら歩いていた。湖凪さんと夜桜を見た桜並木の道。今は、青葉が茂っている。


『私は、あなたが好き』


『好きにしなさい』


『好きなものから考えてみたら良いじゃねーか』


 僕の好きなもの…それはきっとたった一つのはずで。


 そこまで考えた時、風が止んだ。真昼間なのに、周りには人っ子一人居なくて、生活音もない。一瞬、世界が止まったんだと錯覚した。

 なぜだか僕はこの時間には、湖凪さんが居ない気がしていた。


 そんな世界に身を置いた僕の心は、たった一つの感情で支配されていた。


 住宅街近くの真っ直ぐの道。遠くに赤になった信号が見えた。立ち尽くした僕を慰めるように止まった世界は、青信号に変わった時に終わりを告げた。


 再び風が吹いて、僕の汗を優しく撫ぜた。どこかから遠吠えと、クラクションの音。


「そっか…」


 僕はスマートフォンを取り出して、一本の電話をかけた。そして、元来た道を引き返すことにした。


 木々のざわめきが心地いい。木々たちは待っている。次の春を待っている。


 揺れる青葉と同じように、もう僕達が迎えることのない春をひたすらに待ち望んでいる。答えは、それだけだった。

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