夏⑨

物音で目を覚ました。そんな目覚めの仕方をした朝は、ここ数年覚えはなかった。自分の部屋の壁は防音がしっかりしているし、湖凪さんが僕より先に目覚めるなどありえないからだ。


 ぼんやりと、そういえば昨夜は実家に戻って眠ったんだと思い出す。終電を追いかけてタクシーに乗るのもバカらしかったし、少し歩きたい気分だった。


 物音の原因は、おそらく父が出社用意を始めたのだろう。当然父は僕が実家に戻ってきているとは露ほども思っていないだろうから、気遣いなどできるはずもない。


 眠気はなぜかなくて、僕は一階に降りた。階段を降りる音にギョッとしたのか、髭剃り途中の父親がリビングからこちらを覗いていた。


「おはよう」


「なんだ、こっちで寝てたのか」


「うん。なんとなくね」


「あのお嬢さん…佐藤さんといったな。は、きちんと送り届けたんだろうな」


「あー、うん」


 曖昧な返事になってしまうのは、昨夜の駅でのことを思い出してしまうから。


 「それならいい」と、髭剃りに戻る父を見ながら、ほのかな罪悪感が胸に去来する。まあ、駅までは送ったのだし、完全に嘘というわけではない。


 髭剃りを終えた父とすれ違い、バスルームへ向かう。さっとシャワーを浴びると、幾分か気分がスッキリした代わりにまた眠気がやってきて、髪の毛を拭いている間何度もあくびを噛み殺した。

 ドライヤーを終えてリビングに戻ると、コーヒーとトーストの匂いがした。しかし、そんな芳しい香りを忘れてしまうほど、僕の胸は驚きで一杯だった。


「父さん、料理なんてできたの?」


 バスルームを出てすぐ横のキッチンには、ワイシャツの上にエプロンをした父の姿があった。


「ああ、最近な。ようやく、慣れてきた段階だが…」


 僕の知っている両親は、朝食などとる暇はなく、取ったとしてもどこか外食だったと思う。なんだか、知らない生き物を見ているみたいだった。


 ダイニングテーブルを見ると、トーストもコーヒーも二人分用意されていた。自分の分としか思えなかったので、また驚きながらも席に座った。


「奏も食べるか?」


 スクランブルエッグの入った小さなフライパンを持った父が、そんな声とともに僕の顔を覗き込んできた。戸惑いながら頷くと、トーストの皿の隅にバターの香りがするスクランブルエッグが乗せられた。湯気の向こうに父が座った。


「いただきます」


「いただきます」


 揃えるように、トーストにかぶりついた。ちょっと焦げた味がするけれど、温かい。


 両親と朝食を取った記憶など、存在しなかった。正確には、まだ両親が仕事と僕の面倒を見ることの両立を目指していた頃にたまにはあった気がするが、もう思い出せない。気がするという程度だ。


「奏、お前高校を出たらどうするつもりなんだ」


 朝食を終えた父が、コーヒーを飲みながら尋ねてくる。僕の口の中にはまだ、スクランブルエッグが残っている。朝食は早く食べるものというのが染み込んでいるように、父の食べるスピードは早かった。


「わかんない」


「わかんないってお前…もう卒業だろう?」


 スクランブルエッグを飲み込んで曖昧な返事をすると、父は眉を顰める。まあ、親としては当然の反応だろう。


「そうだけど…今日までそんなこと考えられなくてさ」


「今日まで?」


 そう、昨日湖凪さんに言われるまで、僕の人生は高校三年生のクリスマスで終わるという選択肢以外なかったのだ。

 それ以外の未来を考えろと言われた今日に言われるにしては、随分とタイムリーな話題だった。


「まあ、夏が終わるまでに決めるよ」


「夏が終わるまでってお前。夏休みも、もう終わる頃だろう」


 今日は八月二十六日。夏休みの終わりまで一週間を切った、何気ない日。湖凪さんの時間が、また一時間減ってしまった日だった。


「まあ、好きにするといい。どうせあれも文句を言わんだろう。無論私もな」


 父の言う「あれ」とは、僕の母親のことだろう。今まで何を選ぼうと文句を言われた試しがないので、父の言うことに間違いはない。そもそも母は、すでにこの家庭には興味がないだろう。

 母が外に別の関係を築きつつあるのは、三年前ですら薄々察していたのだから。てっきり父もそうだと思っていたのだけれど。


「すまない、そろそろ行かないと。まあ、久しぶりに帰ってきたんだ。ゆっくりしていきなさい。お前の家でもあるんだからな」


 そう言って、父は立ち上がり鞄を持つと玄関へと向かう。僕はそれを追いかけると、ジャケットを羽織り、靴を履く父の背中に問いかけた。


「もしかして父さん、最近は結構この家に帰ってきてるの?」


 父は振り向くと、苦笑いとも微笑みとも取れない顔をして、何も答えずに出ていった。行ってらっしゃいは聞こえただろう。


「好きにすればいい、ね」


 それはきっと『好きに生きればいい』ということなのだろう。それを勘違いできるほど身勝手な人間ではないと知れたのが、朝の三文に代わった得だった。


 軽くテーブルの上を片付けると、父とそう差はない時間に家を出た。夏の日差しが容赦なく僕の肌を焼いた。


 駅に辿り着く頃には汗だくで、襟足から背中に伝っていく汗が不快だった。練習着の運動部生たちの群れに紛れて電車に乗り込む。タイミングよく電車が来てくれたのには助かった。ホームに長時間居たくはなかったから。


 途中の駅で乗り換えると、一駅で自宅の最寄り駅に着いた。どの駅にも設置されているアイスキャンデーの自販機でシャーベッドを買って、歩きながら食べる。頭がキーンとして、顔を顰めた。涙が出た。


 自宅に着く頃には、とっくにアイスは無くなっていた。どうやら今日は真夏日らしい。アイスが溶けるスピードが異常で、道中のアスファルトに黒いシミを作った。下を向けば、まだ増えてしまいそうだったから、空を見ていた。


 部屋へ帰ると眠気がぶり返していて、すぐにでもベッドに飛び込みたかったけど、もう一度シャワーを浴びることにした。なんとか服を脱ぎ、さっと汗だけ流したら、髪をろくに拭くこともなくベッドに倒れ込む。


 すぐに眠気がやってきて、目を閉じる。クーラーの音に混じって、川の音が聞こえた。夢で自分の心を訪ねると「確かに今の自分はこの音を聞いても死ぬことばかりを考えなくなったな」と答えが返ってきた。


 川面に映すのは、いつもあなたのことばかり。


 起きたら、既に夕陽が沈む時間だった。のそのそと、水を求めて布団から這い出た。時間を確認しようとスマホを見たら、不在着信一件と表示されたので驚いた。このスマホに電話がかかってきた事など、数える程度しかない。


 番号に覚えがなくて、不思議に思いながらも折り返し電話をかけたが出なかった。まあ、用があるならもう一度かかってくるだろうと、スマホをベッドに投げて夕食を作ることにした。


 テキトーに作った豚肉の炒め物と、インスタントラーメンを平らげて時計を眺めた。いつもなら、そろそろ湖凪さんのところへ出かける準備をする頃だ。


『夏が終わるまでには、答えを聞かせて』


 ベッドに寝転がると、また僕は迷宮の中だ。僕は誰の何になりたいのか。あなたを選ぶのなら、何になりたいのか。


 ぐるぐると考えた。考え続けた。道中、彼女が目を覚ます時間になったら、ただあなたに会いたかった。


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