12月25日

学生としての僕にとっての、冬休みの始まりの日。人としての僕にとっての最後の日。そんな朝を迎えた時、もう朝は朝じゃなくなっていた。


 昼といっても差し支えない時間に、ノソノソベッドから這い出した僕は、適当にカップ麺を作って食べた。人生最後の食事かもしれないだとかは、考えなかった。


 それから、机に向かって手紙を書いた。決して遺書というわけではなく、父親への手紙だ。感謝、謝罪。何を書けばいいのかさっぱり分からなくて、たっぷり一時間便箋と睨めっこをした結果「父さんの作った朝食おいしかったよ。ちょっと、女の子を送り届けてくる」とだけ書いた。


 湖凪さんから真美さんへ宛てた手紙も預かっているので、ポストに出すために外へ出た。冬特有の、この上なく澄んだ青空が広がっていた。


 桜並木の枝は素寒貧で、死体が並んでるみたいで笑った。湖凪さんのジョークのセンスが移ってきたのかもしれない。まずいな、早く死なないと。


 ペンキが所々剥がれて、真っ赤とは呼べなくなったポストに、二人分の手紙を入れた。カタンカタンと音を立てたのを見届けて、部屋に帰った。もう、することもなかった。


 そういえば、僕はどうやって死ぬのだろうと思って数日前に湖凪さんに聞いていたことを思い出す。自分の死因くらいは知っておきたい。


 やっぱり首絞めなのだろうかと思ったけれど、湖凪さんは薬殺だと答えた。眠るように死ねるのだそうだ。怖いので薬の出どころは聞いていないが、元々家にあったものらしい。


 少し赤らんできた空を見た。昼に空を見上げたのなんて、いつぶりだろうか。少なくとも、湖凪さんより前でないことは確かだと思うけれど。


「あ、飛行機雲」


 空には、何かを二分するかのように真っ直ぐ引かれた白い線が走っていた。僕たちと、それ以外の人との明日の境界線を表しているように思えて、小石を蹴った。僕も、決してあの飛行機が落ちればいいのにとは思わなかった。


 家に帰ると、ずっと見続けた川面を見て夜を待った。どんどん日が暮れてきて、空気が冷えて。それでも、揺れず、凍らず。ずっと僕に川面は付き合ってくれていた。


 僕は机に置いてあった予備の便箋で紙飛行機を折って、川面まで飛ばしてみた。風向きが良かったのか、僕の飛行機はチャポンと川面に落ちていった。飛行機雲は見えない。


「さて、行くか」


 何も載せていない飛行機が、水流に乗った草船みたいに見えなくなった時。僕は出かける準備をした。部屋の鍵はかけなかった。


 電車に乗ると、クリスマスが終わることを悲しんでいる人たちの中に、ぽつんと僕が浮く形になった。全員が僕の死を悲しんでいるように見えて、なんだかいい気分だった。


 いつもの駅で降りた。すでに半額のケーキ販売の声が聞こえている。クリスマスを惜しむ人。クリスマスは関係ない社会人。関係したいけど、関係できない人。それら全員をすり抜けて、僕は病院へ向かった。その全ての人が僕を覚えていないだろう。


「天野くん」


 病院に入ったところで、急に声をかけられた。また、いつぞやの記者かと思ってびっくりしたが、あれ以来音沙汰はない。あのあと、本当に出鱈目な記事がもう一つ出て、そのうち病院内のリーク元もわかったらしいけど、興味はなかった。


 かけられた声は、知っている安心できる声色だった。


「藤井先生」


 目の前には、悲痛な顔をした一人の命の終わりを惜しむ大人がいた。そんな顔をしないでくれ。


「湖凪さん、藤井先生に救われてたと思いますよ」


「でも、命を救うのが僕の仕事だよ…」


「命じゃなくて、心を救うお医者さんもいるんでしょ?」


「残念ながら専門じゃなくて」


「それでも、湖凪さんは、藤井先生が主治医でよかったって言ってましたよ。僕も、そう思ってます」


 そう言うと、藤井先生は目を伏せた。優しすぎるこの人は、その優しさで多くの人を救うのだと思う。仕事ではなく、一人の人間として。


「佐藤くんを救えなくて、すまない」


 彼は僕にそう言い残すと、去っていった。その背中に、僕もごめんなさいを告げる。きっと、迷惑をかけてしまうから。


 最後の時を過ごすのに邪魔だという配慮で、病院内には誰の気配もなかった。サンタの折り紙が、剥がれて床に落ちている。


 今日も、ノックに返事はない。表情を覗き込んでも、いつも通りの無表情だから、いい夢を見れているのかは、分からなかった。


 秒針の音に合わせた呼吸音。ふと、​​僕が王子様だったら良かったのに、なんて益体のないことを考えた。そうすれば、彼女の時間を救ってあげられるのに。


「きっと、湖凪さんに言ったら笑われちゃうな」

 

 そう独りごちると、気づけば湖凪さんが目を覚ますまで数分というところまで迫っていた。

 秒針の音をカウントする。寝息のリズムと同じだということに気づいた。三、二、一。


「おはよう。湖凪さん」


「おはよう」

 

 伸びをすることも、目を擦ることもない、ずっと真っ白に美しい湖凪さん。気づけば、手を伸ばして抱きしめた。


「どうしたの?」

 

 答えない。答えられない。


「しょうがないなあ…」

 

 ぽんぽんと、背中を叩かれる。寝息のリズムと同じように。あなたが目覚めてない時は、平気だったのに、あなたの顔を見て、僕の何かが決壊した。死ぬのが悲しいんじゃない、あなたと少しの間だろうとも離れることが悲しいんだ。


「大丈夫。見つけてくれるんでしょ?」


「うん、約束するよ」


 細い指をなぞって、約束を、誓いを思い出す。


「行こっか」


 僕たちが最後の場所に選んだのは、病院の屋上だった。来た事はなかったのだけれど、病院内から出る許可が降りなかったので、ここを選んだ。流石に、他のところで死なれると困るらしい。


 転落防止用のフェンスに背中を預けた。ひんやり冷たかった。そのうち、そんなことも思わなくなるのだと思う。


「手紙、出してくれた?」


「出したよ。きっちりと」


「そう。じゃあ、もう思い残すこともないか」


 湖凪さんは、残った財産を全部真美さんに譲ると書いたらしい。名も知らぬ親戚に取られるよりは幾分かマシだと言っていた。真美さんは、苦学生だけれど薬剤師になる寸前まで来ているらしい。苦労の分幸せになってほしいと、夜景を見ながら湖凪さんは言った。


 あなたから貰った時計で、時間を見た。もう、数分しか残されていなかった。


 顔を見合わせて頷くと、湖凪さんが小さな小瓶を取り出した。どうやら、それの中身が僕を湖凪さんと共に連れてってくれるチケットらしい。


 湖凪さんは、それを口に含むと僕に優しいキスをした。僕に優しい毒を、植え付けるみたいに。


 最後のキスは、酷い味だった。僕の命を刈り取る味。酷く簡素な『死』の味がした。人工の無味乾燥な錠剤が口の中で少し溶けて、苦くて、酸っぱかった。でも、君に触れているという事実で心だけは甘かった。

  

 長い長い口付けが終わって、僕の喉が君の口から移されたものを飲み干す音を鳴らした。

  意外とすぐに気分が悪くなったり、目眩がしたりはしない。

 

 きっと、ゆっくり湖凪さんを見つめることを許された、最後の猶予だ。


 唇が離れると、僕はずっと湖凪さんの目を見つめる。何も言えないでいた。

 

 見つめたその目は、潤んでいて、終わる前の最後の風が湖面を揺らしてるみたいに儚く美しい。

  

 ああ、愛おしいと、そう思った。あと数分で眠りに落ちる眠り姫の視界には今、僕しかいない。花火が散る瞬間みたいに、終わりの間際だからこそ、より一層彼女は美しいのかもしれない。せめて無愛想な僕の顔が、彼女からも終わりの儚さで少しは綺麗に見えていますように、なんて。

  

 何が最後の言葉になるか分からなかったから、慎重に言葉を吟味しようとして、結果的に、口から出てきたのは、ありふれた言葉だった。


「おやすみ、湖凪さん」

  

 その言葉に、万感の思いを込めた。もっと言うべき言葉はあったのかもしれない。ありがとう、綺麗だよ、他にはなんだろう。きっと、もっと気が利いたことを言える人間に、彼女と共に進めていたら僕はなれていたのかもしれない。でも、ここで僕らは終わりだから。今言える精一杯と、終わりの中にあった、僕達の最後の言葉は、これでいい。

  

 湖凪さんは、やはりよく笑う人だ。僕の見た彼女は最後の最後まで、笑っていた。

  

 その笑顔が歪んだ。数秒遅れで歪んだのは僕の視界のほうだと気づいた。そして、終わりなんだと何となくわかった。

  

 どうやら、口付けの代償が、もう時間だと告げて来たらしい。

 

  シンデレラの魔法がとけるみたいに、夢のような時間が終わっていく。

  

 最後の力を振り絞って、彼女から贈られた腕時計を見ると、日付が変わるまで、あと数秒。

  

 要するに彼女が眠りにつくまでも、それだけしかない。

 

  僕は、眠り姫からの最後のプレゼントで死へ向かう。

 

  眠り姫と共に、死へ向かう。

 

  眠り姫が毒を盛るなんて笑えない話だと思いながら、意識が途絶えていく。

  

 最後に、彼女の声が聞こえた。


「おやすみ、奏」

 

 その言葉が耳に響くのを合図に、自我が、思考が、自分というものが、底抜けの無い闇に沈んでいくのを感じる。

 

  一年前にこうなるはずだったんだと思うと、随分生きながらえたものだ。

  

 でも、ここは海と違って温かかった。冷たい潮流に流されて恐怖と戦いながら、自分を失うんじゃなくて、誇って自分で消えていける。

  

 信じられないほど、怖くなかった。倒れ伏した感覚と一緒に訪れた気がした手の温かさがあれば、何も怖くなかった。湖凪さんも、そうだっただろうか。お揃いでつけた指輪が触れ合った金属音の様なものを、あなたは感じられたのだろうか。文字通り穏やかな眠りにつけただろうか。僕は、優しい毒になれたのだろうか。

  

 走馬灯のようなものが見えた。時計の針が恐ろしいスピードで回って、でも確かに、僕と君が出会って、終わっていく。

  

 プツンと幕が切れて、ああ、いよいよかと思った。世界が黒一色になった。

 

 そしたら、まるで映画のエピローグみたいに闇が開けて、湖凪さんがいるのが見えた。

 

  そこは、真昼の街の中だ。先に信号を渡り終えた湖凪さんが、早く来いと手を振る。僕は、点滅しだした信号機を見て、それに答えるように走り出した。

  

 少し小走りになっただけなのに、息が切れている僕に「運動不足だよ」と言うから、昼に駆け出せるようになった君について行くために、運動することを約束して。

  

 楽しみにしてると笑う湖凪さんに手を引かれて、歩き出す。

  

 どこに行くかは分からない。でも、僕達は歩幅を合わせながら、ゆっくりと確信めいた方角へ向かって行く。

 

  温かな幻だと、分かっていた。多分二人とも。

  

 君も僕も夜に包まれたまま死んでいく。次の太陽を見ることも無い。


 最後に一言だけ言おうと思って、握る手に力を込めた。

  

 それを感じたのか、君がこちらを向いた。太陽が照らす柔らかな笑顔に向けて、一言だけ。


「愛してる」

  

 湖凪さんが驚いたような顔をして、それから、とびきりの笑顔が咲き誇る。そして、見惚れる僕をからかうように、何か言った気がした。

  

 でも、聞き取れなくて。徐々に見惚れる笑顔すら、段々と強まっていく陽光が邪魔して見えなくなって、そして。

  

 世界が消えて、僕ら二人の居場所だった暗闇に戻って。

  

 まだ君が隣にいるかも分からないまま、消えた。

  

 もう、朝日を望まない場所に、消えた。

 

 またいつかきっと、微かな香りだけが、僕らを出会わせる。最期までそう信じて。


 クリスマスが終わった。


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