6.

 十郎兵衛が文を携えて吾柳庵を訪れたのは、暑さのぶる五月下旬だった。喜乃が文を出してから、三月ほどが過ぎていた。


 返事か届かずに気を揉んでいた喜乃は、十郎兵衛の持ってきた文に飛びついた。

 食い入るように文を読む喜乃を、長喜は固唾を飲んで見守る。

 長喜の隣に十郎兵衛が腰を下ろした。


「長喜殿には感謝してもしきれぬ。お喜乃様が、これほど多様なお顔をされる日が来ようとは。儂の元におった幼子の頃は、表情などなかった」


 十郎兵衛が文を読む喜乃を感慨深く眺める。


(十郎兵衛様は、昔っからお喜乃を案じているなぁ。まるで父親の顔だ。十郎兵衛様も俺と同じ心持なんだろうな)


 二人を見比べて、微笑ましい気持ちになった。

 文を読み終えた喜乃が、顔を上げて長喜を見詰めた。


「描いても、良いって。父上も兄上も、私が絵を描くなら、援助するって。御許しが出たよ、長喜兄さん。私、絵を出せる!」


 明るく輝いた喜乃の目に動かされて、長喜は立ち上がった。


「やったな、良かったな、お喜乃! お喜乃の絵を江戸中の人に、知ってもらえるな!」


 思わず喜乃を抱き上げた。喜乃が嬉しそうに笑う。

 生き生きと笑う喜乃が、眩しかった。


「本当に、おめでとうございます、お喜乃様。して、雅号は決まっておりますかな。是非、お教えください」


 十郎兵衛の目は、喜乃の言葉を待っている。

 長喜は喜乃を降ろした。二人が、十郎兵衛の前に坐す。


「号はもう、決まっているの。私は、写楽を使いたい。私は、写楽のお志乃の娘である事実に、誇りを持っている。それに、石燕師匠は、現を楽しく写すのが絵師だと教えてくれた。私の雅号は、写楽以外にないわ」


 喜乃が十郎兵衛をしっかりと見据える。


「写楽を雅号とすれば、近江の残党に居所を知られる危険が増すでしょう。彼奴らが動かぬ間に吾柳庵に身を潜めたからこそ、今の暮らしがある。耕書堂との繋がりを疑われれば、今の安穏を手放さねばならぬ情態になるやも、しれませぬぞ」


 喜乃が十郎兵衛から目を逸らさずに頷いた。


「写楽の名を使えば危険を伴うと、私も思う。長喜兄さんとも、蔦重さんとも話し合ったの。二人も、承知してくれた。これから出す絵は、私の生きる証よ。私は、写楽の名だけは、譲れない」


 十郎兵衛が小さく息を吐いた。


「そう仰るだろうと、思うておりました。儂も大炊頭様も、です。特に、阿波守様が憂慮されておりました。もし、お喜乃様が写楽を号に使うならば、正体を明かしてはならぬ。それが条件だと、仰せつかっておりまする」


 喜乃が長喜と顔を見合わせ、頷いた。


「十郎兵衛様の仰る懸念は、蔦重さんも考えていたみてぇで、先に話を纏めていたんでさ。写楽は俺が背負う。それで何とか、安心していただけねぇでしょうか」


 長喜の言葉に、十郎兵衛は首を振った。


「ならぬ。長喜殿はお喜乃様と共に暮らす身だ。長喜殿に危機が迫る事体も避けたい。絵師の写楽は斎藤十郎兵衛である。阿波守様からの御指示です。何卒、受け入れていただきたい」


 先ほどとは違う表情で、喜乃が長喜と顔を見合わせた。


「儂が写楽近習役筆頭であるは周知の事実。それに、お喜乃様ほどではござりませぬが、儂も絵を嗜みまする。疑う者は、ありますまい。疑われるとすれば、絵の練熟振りでございましょうな」


 十郎兵衛が品良く笑う。


「本当に、宜しいんですかぃ? 十郎兵衛様に危険が迫る羽目に、なりゃしやせんか?」


 長喜の憂慮に、十郎兵衛が頷いた。


「儂は今、江戸屋敷に身を寄せておる。立場も含め、儂に危害を加える愚かな輩は、おるまいよ。それに儂は、お喜乃様を産まれた時分から存じております。助力の心は、長喜殿に負けませぬぞ」


 十郎兵衛が喜乃に優しく微笑み掛ける。

 喜乃が目を潤ませて、頭を下げた。


「ありがとう、十郎兵衛。ありがとう。私の我儘を被ってくれて、本当に、ありがとう」


 身を低くして、十郎兵衛が喜乃に語り掛けた。


「どうか、御顔を、お上げくだされ。礼なら文で、父上様と兄上様にお伝えくだされ。儂には名を貸す程度しかできませぬ故、大した決意ではこざりませぬ」


 ぽろぽろ涙を流して、喜乃が首を振る。

 長喜は十郎兵衛に頭を下げた。


「俺からも、礼をさせてくだせぇ。お喜乃のために御尽力くださり、本当にありがとうごぜぇやす。十郎兵衛様がいてくれなけりゃぁ、お喜乃にも俺にも、今はねぇ。有難く思っておりやす」


 十郎兵衛がしきりに首を振る。


「お喜乃様が健やかに成長されたお姿を拝見できる今が、儂は本に幸せなのだ。十年前は、先の見通しなど付いてはいなかったのだから。だからこそ、長喜殿には感謝をしてもしきれぬ。お志乃様にも、やっと顔向けができる」


 十郎兵衛が竹林に目を向けた。

 釣られて長喜も、同じほうを向く。


「お喜乃の母ちゃんも、きっと喜んでいるぜ。東洲斎写楽は、これから江戸で大評判の絵師になるんだ。楽しみで、胸が躍らぁ」

「東洲斎、写楽、ですか。お喜乃様と長喜殿らしい、良い雅号ですな」


 十郎兵衛の呟きに、喜乃が頷いた。


「東の斎を楽しく写すという意味よ。遠く徳島にいる父上や兄上にも届くようにって、長喜兄さんが考えてくれたの。十郎兵衛も気に入ってくれて、良かったわ」


 穏やかな時が三人を包む。

 これから始まる喜乃の画業に思いを馳せる。今までとは違う、新しい未来になる予感がする。長喜は胸を膨らませていた。


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