7.
空が白み、朝日が昇り始める。竹林に白い陽が差し込んだ。
長喜は喜乃と左七郎と並んで、石燕の絵を眺めていた。白木の額の中には、狂言姿の中村喜代三郎の絵が戻っていた。
「本物の幽霊が依代にしていたのか。幽霊は翁と一緒に黄泉に逝ったんだな。絵だけが、現に残ったのか」
独言のように左七郎が呟く。
「翁が旅立った時、俺ぁ、寝ていたのかよ。何で起こしてくれねぇんだよ。翁も、悪ぃと思ったなら、起こしてくれりゃぁ、良かったんだ」
いつもなら大声で怒鳴るであろう左七郎の声は、落ち着いていた。
「寝ていたんじゃぁなく、気ぃを失っていたんだろうぜ。大勢の妖の気は、今のお前ぇにぁ、毒だからよ。けど、声くれぇ掛けるべきだったよな。すまねぇ」
長喜は洟を
「ちゃぁんと、お別れは、できたのかよ。翁とも、石鳥や月沙とも、話せたんだよな」
左七郎が、遠慮もなく長喜に顔を向ける。
「ちゃんとできたかは、わからねぇ。けど、礼は伝えられた、と思う」
左七郎が絵に向き直った。
「本当に良い絵だなぁ。浅草寺に参った時に、母上はこの絵に見惚れていたんだぜ。あん時の俺ぁ正直、絵の良さなんざ解らなかった。けど、今なら解るよ。翁が立派な絵師だってさ。俺も翁の絵みてぇに、人の心を動かす戯作を書きてぇなぁ」
左七郎が羨慕の眼差しを向ける。
「精進していりゃぁ、いつか書けるさ。俺もお前ぇと同じに、もっと精進しねぇとな。今よりずっと巧くなってから黄泉に逝くと、約束したからよ」
左七郎と顔を合わせて笑んだ。
二人が話している間も、喜乃はじっと喜代三郎の絵を見詰めていた。
会話が途切れると、吾柳庵から音が消えた。風のない朝は、笹の葉の擦れる音すら聞こえない。只々、静かだった。
左七郎が膝を叩いて立ち上がった。
「さてと、俺ぁ耕書堂に、ひと走りして蔦重さんに報せてくらぁ。長喜とお喜乃は、翁の傍にいてやれよ」
絵のすぐ隣に横たわる石燕の亡骸に目を向ける。魂の抜けた石燕の顔を長喜は、ぼんやりと眺めた。
喜乃が左七郎の腕を引いた。
「左七郎、いつも気を遣ってくれて、ありがとう。一人で行かせて、ごめんなさい」
左七郎の耳が、じわりと朱に染まる。
「一人で走ったほうが速ぇからな! でもまぁ、お喜乃に礼をされんのは、嬉しいな。長喜は今、気抜けているから、お喜乃がよっくと見ていてやれよ」
逃げるように戸口を出ていく左七郎の背中を見送る。
(左七郎に案じられるほど、俺ぁ、自失して見えんのか。だったら、石鳥と月沙が案じるのは当然だな)
悪気はないのだろうが、左七郎の言葉が棘のように刺さった。
喜乃が長喜に向かって居直り、頭を下げた。
「長喜兄さん、ごめんなさい。私を庇ったせいで、師匠の死期が早まってしまった。本当なら、もう少し、現にいられたかもしれないのに。兄さんから大事な師匠を奪って、ごめんなさい」
喜乃の小さな肩が震えている。どれだけの気力を振り絞って頭を下げているか、長喜にもわかった。
「私は、疫病神なんだ。私が傍にいたら、今に長喜兄さんや左七郎や周りにいる大勢の人まで、師匠のようになるかもしれない。私のせいで傷付くかもしれない。私は、いちゃぁいけない子なんだ」
長喜は、とっさに喜乃の肩を掴んだ。
「そねぇな訳があるか! いちゃぁいけねぇ子なんざ、いる訳がねぇ! 喜代三郎が話していただろ。師匠の寿命は、とうに過ぎていた。現にしがみ付いていただけなんだよ。近ぇうちに黄泉に逝くって、師匠も石鳥も月沙も、気が付いていたんだ。お喜乃のせいじゃぁ、ねぇ」
喜乃の肩が強張っている。自分が思う以上に強く掴んでいたと気が付いて、長喜は手を緩めた。
「師匠が現にしがみ付いていた訳が分かるか? お喜乃に絵を教えたかったからだ。師匠があねぇに楽しそうに絵を教えていたのは、久振だった。俺ぁ、嬉しかったんだぜ。だから、手前ぇを責めるんじゃぁねぇ。お喜乃のせいじゃぁねぇんだよ」
言葉が一気呵成に口から流れ出す。喜乃に話しているようで、自分に言い聞かせているようだった。
喜乃の言は当たっているのかもしれない。喜乃を庇った事実が、ずっと遠ざけていた黄泉の入口を近付けたのかもしれない。長喜の頭の片隅にも同じ思いは、あった。
(けど、それじゃぁ、お喜乃が可哀想だろうが。こいつぁ只、毎日、絵を描いて生きているだけなんだぞ。誰も傷付けちゃぁいねぇ、何も悪さをしちゃぁいねぇのに)
命を狙われ殺されかけた娘が、大事な人を失った長喜を案じている。自分を疫病神だと罵る。もしかしたら、耕書堂に来た時分から、喜乃の中には、今と同じ思いがあったのかもしれない。だからこそ居所を定めずに転々としていたのかもしれない。
(誰か、こいつを守ってやれねぇのかよ。こねぇに小さな身に背負いこんでいる重いもんを、降ろしてやれねぇのか)
長喜は愕然とした。喜乃の重い荷を降ろしてはやれない。喜乃の身に降り掛かる危険を払ってはやれない。けれど、せめて、隣で絵を描き続けるくらいなら、長喜にもできる。
伝蔵の顔が浮かぶ。あの時、交わした言葉が蘇る。
(忠告は忘れちゃぁいねぇ、深入りは、しねぇよ、伝蔵。只、お喜乃の傍にいてやりてぇだけなんだ。そんなら許してくれるだろ)
喜乃の肩を引き寄せた。小さな体を抱き寄せる。
「お前ぇは、耕書堂から出ていきてぇのか? 俺と一緒に、絵を描くのは、嫌か?」
長喜の腕の中で、喜乃が首を振った。
「耕書堂にいたい。長喜兄さんと、もっとたくさん絵を描きたい。皆と一緒に暮らしたい。でも、私がいたら、また、誰かが傷付く」
喜乃の声が震えている。涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。
「傷付くかもしれねぇし、何事もねぇかもしれねぇ。未来は誰にも、わからねぇだろ。お前ぇは今まで通り、耕書堂で仕事をこなして、絵を描いて暮らすんだ。なぁ、お喜乃。お前ぇは何が描きてぇ? 俺ぁなぁ、人も妖怪も描きてぇ。あったけぇ心を描きてぇなぁ」
しゃくり上げながら、喜乃が、ゆっくりと口を開く。
「私は、師匠の絵みたいな、役者を描きたい。喜代三郎さんは、本当に綺麗だった。師匠の絵も、とても綺麗だ。師匠に、もっと人の絵を練習しろと教わった。だから、役者の似絵を、練習したい」
声は遠慮を含んでいる。だが、言葉の中身は、いつもの喜乃だ。
「立派な標があるだろうが。だったら今度、芝居に行こうぜ。余計な考えは捨てちまえ。好きな絵を懸命に描いていりゃぁ、師匠が黄泉から見守ってくれらぁ」
喜乃が上目遣いに長喜を見上げる。
「一緒に芝居に行っても、いいの? 長喜兄さんは、私といるのが、嫌じゃぁないの?」
「嫌なもんかよ。二人だけで行くのが無理なら、十郎兵衛様をお誘いしてみようぜ。それなら、お喜乃も落ち着いて芝居を観られるだろ」
笑みを向けると、真っ直ぐな瞳が、ようやく笑んだ。長喜は、胸を撫で降ろした。
(どうにも俺ぁ、お喜乃を放っておけねぇ。鉄蔵がこの場にいたら、前みてぇに父親と揶揄われるな)
隣に横たわる石燕が笑っているようで、恥ずかしくなる。けれど、長喜の心に、ずっと掛かっていた雲が少しだけ晴れて、細い光が差し込んだようだった。
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