6.

 強い打撃があり、体が地面に転がった。慌てて顔を上げる。目の前には、竹林に囲まれた吾柳庵があった。


「子興! 手前ぇは何をしていやがんだ! 無茶すんなって、いっつも注意しているだろうが! 何度しつこく叱ったら覚えやがる! この馬鹿野郎が!」


 石鳥が長喜の肩を揺らして怒鳴る。


「無茶、したのかな? 俺にも、さっぱりわからねぇ。武家の男に斬られそうになって……、そうだ、師匠とお喜乃は無事か?」

「長喜兄さん! 師匠が! 師匠が怪我をしている! 背中に傷がある! 師匠! 返事をしてよ、師匠!」


 悲鳴にも似た喜乃の叫び声に、後ろを振り返る。石燕が地面に身を埋めていた。

 顔から血の気が引いた。石燕の背中が大きく裂けていた。


「畜生、何で怪我なんかしているんだよ! せっかく逃げ切ったのに!」


 傷口に手拭を押し当てる長喜を、月沙が制した。


「子興、やめておきな。徒労だからよ。この傷は、治せねぇ。体が崩れ始めたんだ。もう血も流れねぇよ」


 月沙が、いつになく沈痛な面持ちで、落ち着いた物言いをする。


「何を、言ってんだ? 意味が分からねぇ。師匠はさっき、お喜乃を庇って斬られ……」


 斬られていない。確かに覚えている。男の刀が石燕の背に届く前に、白い光が刀を遮った。


「全く馬鹿な男だねぇ、石燕。無理に死期を伸ばそうとするから、体のほうが参っちまったのさ。あたしと共に、さっさと黄泉に逝けばよいものを、ねぇ」


 喜代三郎が、石燕を見下げる。石燕が、むっくりと起き上がった。


「こねぇな傷くれぇ、どうともねぇがなぁ。死神の迎えも来たし、逝くしかねぇかなぁ。まだまだ、現を写し足りねぇが。刻が満ちたんだなぁ」


 石燕が、からからと笑う。喜代三郎が、鼻を鳴らした。


「誰が死神だってぇ? 刻なら、とっくに満ちていんだよ。これ以上は、待てねぇ。さっさと黄泉に逝く支度をおしよ」


 二人の話が解せず、長喜は呆けた。


「あたしは石燕が、黄泉に逝く時を待っていたのさ。現に残るために、石燕の描いた手前ぇの絵を依代にしてね。五年以上も探し廻って、ご苦労さんだったねぇ」


 喜代三郎が長喜に向かい、クックと笑う。


「師匠や俺らが、絵の消えた次第に気が付いたのは、近時でな。子興やお喜乃には内緒で逝くつもりだったんだ。まさか、魂が離れる前ぇに体が崩れるたぁな。師匠らしいぜ」


 石鳥が眉間を寄せて腕を組む。


「怒るなよ、子興。お前ぇやお喜乃を想うからこそ、話さなかったんだぜ。お前ぇは人のために無茶をする時があるからよ。俺らは、お前ぇを案じていんのさ」


 月沙が、憂い顔で笑う。月沙と石鳥の表情で、長喜は悟った。


(そうか、今ここで、師匠は死ぬんだ。黄泉に逝くんだ。月沙と石鳥も、一緒に逝くつもりなんだな)


 隣に坐する石燕を振り返る。地面にどっかりと腰を下ろした石燕が、じっと長喜を見詰めていた。


「子興、頼んでいた絵は、出来上がっていんだろ。見せてくれるか」


 懐に手を入れる。描き上がった絵を掴んだ手を中々、引き出せない。

 喜乃が長喜の腕に手を添えた。


「長喜兄さん、その絵を師匠に渡してあげてよ。私は、兄さんが描いた師匠の絵が好きだよ。月沙も石鳥も笑っている兄さんの絵が、好きだよ。だから今、渡そう」


 喜乃の潤んだ瞳は覚悟を決めていた。長喜は、絵を石燕に手渡した。石燕が長喜の絵に目を落とす。後ろから石鳥と月沙が覗き込んだ。

 文机に向かい絵を描く石燕は、笑んでいる。隣で酒を呑む月沙と、洗濯物を抱える石鳥も、笑っている。いつもの吾柳庵の光景が、紙の上に蘇った。


「これぁ、良い絵だなぁ。今にも動き出しそうだ。お前ぇの絵は本に、あったけぇなぁ。心に沁みらぁ。これで、吾柳庵の暮らしを黄泉に持っていける。有難うな」


 石燕の目尻が涙で濡れた。


「弟子の中で妖怪の絵を描いたのは、お前ぇだけだったなぁ、子興。一等巧い絵が消えても、構わず描けよ。見せてぇ相手には、こうして見せられるんだ。お前ぇの絵は道標みちしるべになる。人の心を温める。お前ぇは、さしずめ鎮魂の絵師だなぁ」


 まるで童にするように、石燕が長喜の頭を撫でた。


「最期みてぇな言い方を、しねぇでくれよ、師匠。俺ぁまだ、覚悟ができねぇ」


 耐えきれず、長喜の目から涙が溢れた。


「最期だよ、子興。いや、長喜よ。餓鬼のような駄々を抜かすねぃ。お喜乃は、ちゃぁんと受け止めているぜ」


 喜乃は長喜の隣で、拳を握り締めていた。涙を堪えて石燕を見詰めている。

 石燕が、長喜にしたのと同じように喜乃の頭を撫でた。


「お喜乃。この先も、楽しんで絵を描きな。絵の中は手前ぇの自由だ。手前ぇの描きてぇ絵を描き続けろ。そうすりゃぁ一等、巧い絵になる」


 唇を噛み締めて、喜乃が頷いた。


「師匠のお陰で、絵を描くのが、とても楽しくなった。もっと巧くなりたいと思った。師匠の指南を、一生涯、忘れません。これからもずっと、死ぬまで絵を描き続けます」


 喜乃の涙声が震える。並んで涙を拭う長喜と喜乃を眺めて、石燕が微笑んだ。石燕が、いつになく優しく笑うので、長喜の涙は止まらなかった。


「現で山ほど描いて、今よりずっと巧くなって、俺も黄泉に逝くから。師匠が腰を抜かすほど巧くなって逝くからよ。黄泉に逝っても三人で絵を描いていてくれよ」

「ったり前ぇだ! 極楽でも地獄でも、現では描けねぇ絵が描けるだろうぜ。楽しみだなぁ」


 石燕が立ち上がる。暗いはずの竹林に柔らかな光が差し込んだ。長喜も立ち上がり、石燕の後を追う。

 石鳥が、長喜の肩を叩いた。


「師匠の世話は案ずるねぇ。俺が、今まで通りにするからよ。お前ぇはお喜乃の世話を、よっくと焼いてやりな、長喜よ」

「いいや、違うぜ、石鳥。今は、お喜乃が長喜の世話を焼いていんのさ。べそ掻きの長喜。早々に黄泉に来ても追い返すぜ。子興の号より良い絵が描けるように、現で精進おしよ」


 にししと笑って、月沙が石鳥と共に石燕を追う。石鳥と月沙の言葉に、力が抜けた。


(二人に気を遣わせたな。お喜乃も心を決めていんだ。これが最期なんだから、俺も、しゃんとせにゃぁ)


 笑顔を作って、顔を上げた。


「まだまだ黄泉にぁ、行かねぇよ。俺の描く絵を黄泉から、しっかと見ておきな! ……二人とも、達者でな」


 ひらひらと手を振る月沙と石鳥に、口端を上げて見せた。

 後ろに並んだ喜代三郎が、喜乃を振り返った。


「お前さんの母親は、いつでもお前さんを見守っているよ。何にも気にせず、好きに生きな」


 大きく目を見張り、喜乃が喜代三郎に走り寄った。


「母上を、ご存じなのですか? 母上は、何か仰っていましたか? 今どこに、いるのですか?」


 矢継ぎ早に問いを投げる喜乃の口元に、喜代三郎が指を立てた。


「多くは教えられねぇ。けれど、いつもお前さんを案じている。信じて強く生きるんだよ」


 開きかけた口を閉じて、喜乃が小さく頷いた。


「母上の言葉を伝えていただき、感謝します。喜代三郎さん、助けてくれて、ありがとうございました」


 喜乃が、小さな頭を深々と下げた。喜代三郎が目を細めた。


「やっぱり、あんたは、お志乃の娘だねぇ。よく似ている。あたしが出会ったお志乃は幽霊だったが、目元が特に似ているよ。意志の強い真っ直ぐな目だ。綺麗な目だ」


 喜代三郎が、すぃと喜乃の目を撫でる。微笑んで、石燕に並んだ。


「左七郎に、よろしくな。悪かったと伝えてくんな。二人とも、達者で生きろよ」


 力強い笑みを残して、石燕が白い光に向かい、歩き出す。

 背筋を伸ばして、長喜は深く礼をした。


「師匠、今まで御指南を、ありがとうごぜぇやした! 恩返しは黄泉でするから、待っていてくだせぇ!」


 長喜に並び、喜乃も礼をする。白い光が消えて竹林に夜が戻るまで、二人は石燕の背中を見送っていた。

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