5.

 葉月も半ばになると、爽やかな風が吹く。夕刻ともなると、少し肌寒く感じた。

家路を急ぐ人の流れの中を、長喜は石燕と喜乃と共に歩いていた。湯島天満宮に石燕の絵を奉納した帰りだ。根津権現の大鳥居に差し掛かると、どっと人が増えた。


「何だぁ。秋祭りでもしているのかぇ? 人が多いなぁ。歩きづれぇったらねぇ」


 石燕のぼやきに、長喜は首を振った。


「皆、根津の幽霊を見に来てんのさ。ここんとこ、毎日のように現れるからなぁ。ほら、あすこで読売を売っているぜ」


 人混みに紛れぬよう、喜乃と手を繋ぐ。長喜の指さすほうを眺めて、石燕が鼻を鳴らした。


「幽霊てぇのは、俺の描いた喜代三郎かぇ? それならまぁ、悪ぃ気分じゃぁねぇな」


 石燕が得意そうに、にんまりと顎を摩る。

 根津の幽霊はすっかり人気になった。華麗な幽霊の舞を一目なりとも見ようと衆人が集まり、屋台まで出ている。石燕の言の如く、まるで祭りの騒ぎだ。

 左七郎は吾柳庵に泊り込みを始めた。浅草寺から白木の額を借り受けて、細心に備えている。左七郎の執着と真剣さは凄みを増していた。

 周りの鬧熱かんねつに反して、長喜の心は沈んでいた。


「長喜兄さん、大丈夫? 顔色が悪いよ。疲れている? 長喜兄さんも、人が多いのは嫌いなの?」


 喜乃が長喜の手を引き、立ち止まった。憂い顔が長喜を見上げる。


「人の気にあたったかな。俺も人混みは得意じゃぁねぇんだ。さっさと抜けちまおう」


 胸が、つきんと痛む。心が重い訳は他にある。長喜の懐には、描き上がった石燕の肖像が仕舞ってある。もう何日も持ち歩いているのに、渡せずにいた。

 突然、群衆から喚声が湧いた。


「向こうのほうに出たらしいぞ! 日本橋だって! 界隈を、ふらふら舞っているらしい」

「話が違ぇぞ! 根津だと聞いてきたのに! 出ている場所まで追っかけるぞ!」


 群衆が一気に動き出す。流されそうになるのを踏ん張って、長喜は根津権現の鳥居の中に逃れた。


「今日は日本橋かぇ。ずっと根津にいたのに、どういうわけだ? 幽霊の気が変わったのかねぇ」


 石燕を振り向く。真面目な面持ちで群衆を睨んでいた。


「子興、俺ぁ、幽霊を追っかける。お前ぇはお喜乃を連れて、吾柳庵に帰ぇりな」


 今にも走り出しそうな石燕の肩を、長喜は慌てて掴んだ。


「待ってくれ、師匠。一人で行かせられるかよ。俺も行くぜ。左七郎にも声を掛けて連れて行ってやろうぜ。一人で、ずっと張っていんだ。教えてやらにゃ、気の毒だ」

「なら、手前ぇが報せに行け。俺ぁ、先に幽霊を追っかけるからよ。頼んだぜ」


 一歩を踏み出した石燕を、喜乃が止めた。


「師匠、そっちじゃぁない! 日本橋にいるのは、師匠の絵じゃぁない。師匠の絵は、きっと根津に来る。違うから、待っていようよ」


 石燕が足を止める。懸命な喜乃を振り返った。


「何故、そう思う? お前ぇ、何か感じるのか? 喜代三郎の幽霊にぁ、会っちゃぁいねぇだろ?」


 喜乃が石燕の袖を掴んで俯いた。


「師匠の絵の幽霊には、会っていない。けど、わかるんだ。今、日本橋にいるのは、きっと私の母上の幽霊だ。あっちには、行っちゃぁ、ならないんだ」


 喜乃が長喜を見上げた。


「耕書堂に来たばかりの頃、影の化物に遭って、私が熱を出したろ。あの影は、母上だったと思う。今も時々、あの影が私に会いに来る。だから、あの影の気は、知っているの」


 長喜は石燕と、顔を見合わせた。長喜も初めて聞く話だ。


「何だって、母親だとわかったんだ? あの影が、名乗ったのか? 俺ぁ、影なんざ、気が付かなかったぜ」


 喜乃の顔が、更に俯く。


「影が、段々と人の形に近くなって、この頃は、母上の顔が見えるんだ。ぼんやりしていたけど、母上だった。私の行く先が危ない時に、報せてくれるんだ。誰にも話しちゃぁいけない気がして、長喜兄さんにも黙っていたの。ごめんなさい」

「謝らなくっていいが……。そうか、お喜乃にだけ会いに来ていたんなら、母親かもしれねぇな。お喜乃の大事な秘密だったんだろ。師匠を止めるために、話してくれたんだな」


 屈んで喜乃に目を合わせる。喜乃が俯いたまま、頷いた。


「危ないかもしれない所に、行ってほしくないから。師匠も長喜兄さんも、大切な人だから、怪我なんか、してほしくないんだ」


 喜乃の頭を優しく撫でる。長喜は、ちらりと石燕を見上げた。石燕が、決まりの悪い顔をして頬を掻いた。


「今更、焦りすぎたなぁ。お喜乃、ありがとうよ。待っていりゃぁ、あいつぁ来るんだ。俺から出向く必用もねぇや。さぁ、一緒に吾柳庵に帰ぇるかね」


 石燕が喜乃の手を取る。喜乃がにっこりと笑って、石燕の手を握り返した。


 背中に、ざわりと嫌な寒気を感じた。とっさに振り返る。人気の疎らになった路地に、武家風の男衆が身を隠すように立っていた。


(あれぁ……もしや。前に写楽を探していた連中、か? また、お喜乃を探していんのか?)


 直感が頭に浮かんだ。

 この五年間、何故、一度も連中に遭遇しなかったのか。何故、今、写楽という言葉が頭に浮かんだのか。先ほどの喜乃の話で、おおよその見当がついた。


(あの影の化物……、お喜乃の母親が、今まで危険を避けてくれていたんだ。今は俺に、危ない、逃げろと忠告していんだ)


 嫌な汗が全身から噴き出した。


「子興、振り返ぇるな。いつも通りに歩けよ。きょろきょろするんじゃぁねぇぞ」


 喜乃の手を強く握って、石燕が歩き出した。頷いて、長喜は後に続いた。


(師匠も俺と同じに、お喜乃の危険を感じ取ったんだ。お喜乃の母親の幽霊は、日本橋にいるはずだよな? お喜乃が危ないと知って、根津に来たのか? 近くに、いんのか?)


 辺りを見回したい気持ちを抑えて、長喜は前を向く。

 竹林に差し掛かった時、人影が飛び出した。


「写楽の娘は生かしておけぬ。御家の存続のため、その命、この場で貰い受ける!」


 男が喜乃に向かい、刀を振り下ろした。


「師匠! お喜乃! 危ねぇ!」


 長喜の声に応じた石燕が、喜乃を庇って男に背を向けた。刃が石燕の背に迫る。

伸ばした長喜の手の先で、白い光が弾けた。


「くっ……。なんだ、この光は。前が見えぬ。娘は……娘は、どこに消えた!」


 男は目を細め、喜乃の姿を探している。長喜には目の前の光景が、しっかり見えた。

 石燕と喜乃の腕を掴み、走り出す。光の向こうに、小さく人影があった。


「ほぅれ、こっちに来ねぇ、石燕。案内あないしてやろうねぇ。あたしが舞うほうに、走っておいで。さぁさ、もっと速ぅ走らねぇと、追い付かれるよ」


 目の前で、女形の中村喜代三郎が、舞っていた。


(師匠の描いた、喜代三郎だ……。本当に、根津に出やがった。左七郎、いたぜ。師匠の絵が見付かったぜ。俺らを、助けてくれている。今、吾柳庵に行くから、待っていろよ)


 目の端が涙で潤む。懸命に逃げているのに、胸が熱くて、どうしようもなかった。舞う喜代三郎を追って真っ白い光の道を只々走る。

 先に、薄らと黒い点があった。走るほどに点が円になる。黒い円の向こうに、吾柳庵が現れた。


「師匠、お喜乃、もう少しだ。気張って走れ! もう少しで、白い道を抜ける! 吾柳庵に着くぞ!」


 黒い円の中から、無数の腕が伸びてきた。たくさんの手が、長喜たちの体を引っ張る。喜乃と石燕の腕を掴んだまま、長喜は引っ張られるほうに飛び込んだ。

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