4.
薄暗い竹林の奥の、少し開けた場所に吾柳庵はある。左七郎が勢いよく戸を開けた。
突然に、黒い影が、ばさりと落ちた。
「ひぃぃい! 化物だ! 長喜、出た! お喜乃、危ねぇから近付くなぁ!」
腰を抜かした左七郎が、その場に引っくり返った。情けない声を出しながらも喜乃を庇う姿が、涙ぐましい。
「左七郎、よく見ろ。あらぁ、月沙だ。化物には違ぇねぇが、悪さはしねぇよ」
髪をばらけて宙ぶらりんに揺れる月沙が、にたりと笑う。左七郎が目を凝らした。
「月沙……月沙かよ! 驚かすなぃ、馬鹿野郎! 俺ぁまだ、じぃっと見ねぇとお前ぇらが、わからねぇんだ!」
顔を真っ赤にして左七郎が憤慨する。
「知っているよ。だから揶揄っているのさ。何度も同じ悪戯に引っかかる間抜けな左七郎。面白いねぇ、左七郎」
遠慮もなく笑いながら、月沙が左七郎を見下す。
「石鳥! 何とかしてくれよ。これじゃぁ中に入れねぇ。月沙をどかしてくれよ!」
庵の中に向かい、声を上げるも、石鳥の返事がない。
「石鳥は今、墨まみれの師匠の着物を洗濯しているんだ。庵の裏の井戸までなんざ、お前さんの声は届かないよ。残念だねぇ。さぁ、どうしてくれようか」
長喜は、ぶらりぶらりと揺れる月沙の体を捕まえた。月沙を抱えて、中に入った。
「邪魔だぜ、月沙。手前ぇがいつまでも戸口にいたら、俺らも中に入れねぇ」
月沙が蛇のように身をくねらせて長喜の腕から逃れる。面白くなさそうに口を尖らせた。
「洒落のわからねぇ野郎だなぁ、子興は。出迎えてやったんだぜ。礼の一つも、あっていいだろうに」
「要らねぇ出迎えだ。手前ぇは左七郎を揶揄いてぇだけだろ。毎度毎度、よく飽きねぇなぁ」
「せっかく、見えるようになったんだ。妖怪の怖さを存分に教えてやらねぇとな。俺が相手なら、危なくねぇだろ」
ほんの一月ほど前から、左七郎は月沙と石鳥の姿が見えるようになった。切っ掛けは特になく、突然だった。生まれて初めて見る妖怪の姿に、左七郎は大層、驚いた。
その姿が滑稽だったのか、月沙は左七郎が庵を訪れるたびに悪戯を仕掛ける。
(わかっているだろうに、毎回、決まって驚くから、月沙もやめねぇんだよな。歌麿兄ぃと同じで、元々が怖がりなんだろうな)
座り込んだままの左七郎に月沙が首を伸ばす。その頭に拳骨が落ちた。
「まぁた左七郎を脅かして遊んでいんのか! いい加減にしろよな! お前ぇのせいで妖怪の評判が悪くなるだろ!」
洗濯から戻った石鳥の雷が落ちた。月沙が、べそを掻きながら庵の中に戻る。
「お前ぇも毎回、同じような悪戯に怯えんなよ。月沙は命を取るような悪さはしねぇんだ。知っているだろ」
呆れる石鳥に、左七郎が救いの眼差しを向ける。
「驚いちまうもんは、どうしようもねぇよ。慣れねぇよ。月沙と石鳥がずっと翁と一緒に暮らしていたって、知ったばかりなんだぜ」
情けない声音で左七郎が俯く。喜乃が手を差し出した。
「人も妖怪も、変わりないよ。いると思えば怖くもない。私は初めから、怖くなかったよ。左七郎も、少しずつ慣れるよ」
喜乃の手をそっと握って、左七郎が立ち上がった。
「そう、だよな。お喜乃が言うなら、きっと怖くねぇな。俺も慣れねぇといけねぇな」
左七郎が顔を赤らめる。長喜は石鳥と顔を合わせた。二人して、含み笑いをした。
「でも、月沙は左七郎に悪戯しすぎだよ。もっと優しく出迎えてやれば、左七郎だって慣れるんだ。揶揄うのは、もう、およしよ」
月沙が口端を上げて、にやりと笑んだ。怪しい笑みに、左七郎がぞっと顔色を変える。
「俺が笑っただけで、こねぇに
「やぃ、手前ぇら! いつまでも戸口で遊んでいねぇで、中に入ぇりな! 用があって来たんだろう」
石燕が声を張る。相も変わらず、庭に向けて文机を置き、絵を描いていた。
「師匠、今日は、長喜兄さんと伝蔵さんと鉄蔵の絵を描いてきました。ご指導を、お願い致します」
喜乃が石燕の前に坐し、頭を下げた。
「精が出るなぁ、お喜乃。お前ぇが描く絵は動物や花が多いから、人の絵もしっかり学べよ。どれ、練習してきた絵を、じっくり見せな」
喜乃が手渡した絵を、石燕が満足そうに眺める。
「で? 左七郎は何しに来やがった。月沙に脅されに来たわけじゃぁ、あるめぃよ」
石燕が横目に見やる。齢七十六になる石燕は、見目こそ老けたが、絵は衰えを知らない。板本は出していないが、今はゆっくりと奉納画などを手掛けていた。
左七郎が石燕に躙り寄り、身を乗り出した。
「根津の幽霊が、また出たんだ。前ぇから噂になっている狂言姿の役者の幽霊だ。あれぁ、翁の絵に決まっているぜ。これから張り込んで取っ捕まえる。良い報せを待っていてくれよ」
石燕が左七郎から目を逸らした。
「あの幽霊なぁ。確かに、俺の描いた喜代三郎かもしれねぇな。だが、張り込みはしなくっていいぜ。もう必用なくなった」
庭のほうに向いた石燕の目は、景色を見ていない。どこか遠くを眺めているようだった。長喜の胸が、すっと冷えた。
「何を言い出すんだよ、翁! ようやっと尻尾を見せたんだぜ。額に絵を戻せるかもしれねぇんだ。この機を逃す手はねぇ!」
石燕が、ゆっくりと左七郎に目を戻した。
「それも、そうだなぁ。お前ぇらは、この五年、あの絵を探し廻ってくれたんだからな。本に有難ぇよ。喜代三郎を取っ摑まえるんなら、この庵に来な。あいつぁ、俺に会いに来るからよ」
柔らかく笑んだ石燕の目に、左七郎が勢いを失った。
「翁に、会いに来るのか? 今まで探し廻っても、どこにも姿を現さなかった絵が、手前ぇから来るってぇのかよ」
恐る恐る、左七郎が問う。石燕は深く頷いた。
「だからここで、大人にして待っていな。何、そう先にゃぁ、ならんだろうぜ。お喜乃の手習いに付いて来りゃぁいい」
左七郎の頬が、じんわりと赤らんだ。
「お喜乃と一緒に来るのは、構わねぇが。この庵も根津だしな。翁の案なら、確かだよな。なぁ、長喜」
左七郎が長喜を振り返る。
「あぁ、そう、だな。根津を張るなら、ここでも、良いかもな。お喜乃の付き添いも、あるからな」
歯切れの悪い返しになった。
「そうだ、子興よ。お喜乃に付いてくるだけじゃぁ、お前ぇも暇だろう。その間に、俺の絵を描いてくれるか。お前ぇにしか頼めねぇ絵だぜ」
石燕が喜乃の絵に目を落としたまま、序でのように話す。まるで、世間話の続きのように流れた言葉に、長喜は息を飲んだ。
「どうせ描くなら、俺らも絵に入れてくれよ。俺と石鳥と師匠の三人で絵を描いている姿がいいな。石鳥は、どうだ?」
月沙が、寝転がって徳利を傾ける。珍しく咎めもせず、石鳥が月沙の話に乗った。
「そうさな。俺ぁ、いつもの三人を描いてほしいなぁ。ここで暮らしている俺と月沙と師匠とを、さ。楽しく笑っている様が見てぇな」
「いつもの姿なら、絵を描いているところだろう。俺らは絵師だぜ。描いている時が一番に笑っていらぁな」
「手前ぇは酒をかっ食らって寝ているだけだろうが。ったく、しだらねぇ。いつ絵を描いていたんだよ。そねぇな輩が、絵師を名乗るな」
二人のやり取りが、どこか遠くに聞こえた。いつもの通り、月沙と石鳥は言い合いをして、石燕は喜乃の絵の指南をしている。何も変わらない、いつも通りだ。
「なぁ、子興。描いてくれよ。俺らは、子興の描いてくれる俺らが見てぇんだよ」
石鳥と月沙が長喜を見詰めていた。その目は、笑んでいるのに真剣だ。
(師匠も、月沙も石鳥も、わかっているんだな。俺が、心を決めなけりゃぁ、ならねぇんだ)
石燕の死期が近い事実に、二人は気が付いている。石燕自身も感じ取っている。冥府への道を迷わぬように、長喜に絵を描いてくれと、せがんでいるのだ。
「わかったよ。月沙と石鳥の絵を描くのは、初めてだからな。師匠の似絵を描けるなんざ、弟子冥利に尽きらぁ。任せてくれよ、師匠」
満面の笑みを作って、長喜は俯きかけた顔を上げた。きっと笑顔はぎこつないだろう。崩れないよう懸命に努めた。
「ありがとうよ、子興。俺ぁ、ずぅっと前ぇから、子興に絵を描いてもらうと決めていたんだ。引き受けてくれて、助かるぜ」
石燕の目が細く笑む。優しい眼差しが胸に沁みて、長喜は俯いた。
「そうと決まりゃぁ、さっそく下絵を考えねぇとな。石鳥、紙をくんな! 月沙、たまにぁ墨でも摺りやがれ!」
声が震えぬように、いつもなら出さない大声を放った。
「そこいらに、いくらでも投げてあるだろう。好きな紙を使えよ。あぁ! 下絵なら良い紙は使うなよ」
「墨を摺るのは手間だなぁ。けど、それで子興が絵を描いてくれるんなら、左七郎に手伝わせるかね」
いつも通りの石鳥と月沙の態度が、有難かった。いつまでもは続かない暖かな風が、少しでも長く吹くように。そう願って、長喜は筆を握り締めた。
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