2.

 伸ばしかけた手を止めて、石燕が戸口を振り返った。


「また来やがったか。どうせ流言だろうが。手前ぇの話にぁ、付き合っていられねぇよ」


 しっしと、石燕が手を払う。


「流言じゃぁねぇ! 読売を持ってきたんだよ! こいつが、翁の探している幽霊かもしれねぇだろ! せめて読んでくれよ!」


 読売をばんばんと叩いて、懸命に売り込む。石燕が顔を顰めた。


「手前ぇの持ってきた話は全部が全部、外れだっただろうが。だいたいなぁ、探していんのは、額から抜け出した絵だ。幽霊じゃぁねぇ」


 小僧が、その場に座り込んだ。


「絵が抜け出すなんざ、幽霊や妖怪の類に決まっていらぁ! 俺が必ず見付けてやる! 額の中に戻してやるからよ!」


 じっとりと石燕を睨めつけた。石燕が大きく息を吐いた。


「わぁかったよ。読むだけ読んでやる。読売を、こっちに寄こしな!」

「それでこそ、翁だ。今度の話は、当たりの予見がするぜ。しっかと読んでおくれよ」


 小僧が顔色を、ぱっと明るくして、石燕に早足に近寄った。


「あの小僧は、何者だ? 師匠の新しい使い走りけぇ?」


 長喜は、こっそりと石鳥に問いた。石鳥が声を潜める。


「左七郎って名でな。一月くれぇ前ぇから、幽霊話を師匠に持ってきている餓鬼だ。何でも、師匠が昔、浅草寺に納札した絵の次第を追っているんだとさ」


 長喜は首を捻った。しばし考えて、ぽんと手を叩いた。


「浅草寺ってぇと、師匠が廻国巡礼していた頃の絵だろ。一年くれぇ前ぇに、額から役者だけが抜け出して、大騒ぎしたよな。何だって今更、関わりのねぇ小僧が探し廻っているんでぇ?」


 月沙が石鳥の肩に肘を置いて、にやりとした。


「仔細は知らねぇが、本人は真面目に探すつもりのようだぜ。絵を幽霊だと思っているし、師匠と子興が見付けられねぇ幽霊を見付け出そうってぇんだ。面白ぇ餓鬼だよな」


 月沙が、シッシと笑う。


 宝暦の始め、歌舞伎役者の中村喜代三郎の狂言姿を描いた絵を、石燕が浅草寺に納札した。縦二尺四寸、幅八寸の白木の肉筆画は観音堂常香爐の脇の柱に掛け置かれていた。

 今でこそ、錦絵にも描かれる似絵だが、四十年近くも前には、まだ描く絵師もなく、珍しかった。見物客が押し寄せ、江戸中で大評判を呼んだ。


 だが一年ほど前、白木の額を残して役者の絵だけが忽然と抜け落ちた。当時、長喜も石燕と共に探し回った。だが、着物の袖すら見付からなかった。


(死ぬまでに、もう一度、拝めりゃぁいいけどなと、師匠が諦め半分に話していたよなぁ)


 ぼんやりと思い返す長喜に、月沙が手を振る。

 月沙が左七郎に歩み寄り、頭を何度か突いた。左七郎は気付く様子が全くない。いつの間にか喜乃と並んで座り、石燕が読み終えるのを静かに待っている。


「もしや、あの小僧、お前ぇらが見えていねぇのか?」


 先ほどから左七郎は、喜乃や長喜には、ちらちらと目の先を向ける。だが、石鳥と月沙には向かない。

 石鳥が深く頷いた。月沙の悪戯を止めもしない。


「あねぇに幽霊を見たがっているのに、俺らの気すら感じちゃいねぇのさ。可哀想だよなぁ。歌麿兄さんといい、関心のある奴ほど、見えねぇんだなぁ」


 石鳥がしみじみと話すので、長喜も左七郎が不憫に思えてきた。


「師匠も何だかんだで放っておけねぇようでな。初めは袖にするんだが、最後にぁ構っちまうんだよ」


 長喜は、はっと顔を顰めた。


「まさか、あの小僧が手紙にあった火急の用件か? 俺ぁ、面倒な餓鬼の世話なんざ、御免だぜ」


 石鳥が、首を傾げる。


「師匠が期待しているのは、左七郎ってぇより、幽霊のほうだろうぜ。左七郎の持ってくる話は流言ばかりだが。役者の幽霊が出るってぇ噂は本物だからよ。もしかしたらと、思っているんだろうぜ」


 長喜の血の気が下がる。同時に石燕の舌打ちが響いた。


「こいつぁ、違うな。探すんなら女の霊じゃぁなく、女形の霊だ。俺が描いた絵は中村喜代三郎ってぇ女形の役者だからよ。前にも教えたろうが」

「捕えてみたら女形かもしれねぇだろ! 暗がりじゃぁ、女と女形の違いなんざ判るもんか! 探し出して、はっきりさせようぜ!」


 左七郎が石燕に迫る。


「そねぃに半端な絵ぇを描くわけがねぇだろう! 俺の絵の幽霊なら、暗がりでも立派に女形に見えらぁ!」


 石燕が、ぴしゃりと諫めた。左七郎の体が、びくりと震える。

 さすがに放っておけなくなって、長喜は二人の間に割って入った。


「師匠、大声で怒鳴らねぇでやってくれよ。ほら、お前ぇさんも、今日は帰ぇりな」


 童のように鼻を鳴らして外方ほかざまを向く石燕を指さす。


「師匠は意固地だから、こうなると梃子でも動かねぇぜ。今日は諦めて、また別の日に出直しな」


 べそを掻くいた顔で、左七郎が長喜を振り返った。


「あんたが子興とかいう名の翁の弟子かよ。俺と一緒に、絵の幽霊を探してくれよ。俺ぁ、どうしても翁の描いた絵を見てぇんだよ」


 懇願の籠った目で、左七郎が長喜を見詰めた。


「小僧が幽霊を探すのは、ちぃっと難儀だぜ。師匠の絵なら、そこいらに、いくらでも板本があらぁな。好きなだけ見て行けよ」


 長喜が近くにあった本を渡してやる。左七郎が勢いよく立ち上がった。


「俺は小僧じゃぁねぇ! もう十七だ! 一緒に探してくれねぇのなら、手前ぇに用はねぇ! 退きやがれ!」


 左七郎が長喜を突き飛ばす。脱兎の如く、庵を飛び出して行った。転がった長喜は、尻を摩りながら戸を眺めた。


「突然、癇癪を起しゃがって。いってぇ何なんだ、あの小僧は」


 隣にいた喜乃が、長喜の着物を引っ張った。喜乃の手には、左七郎が持ってきた読売が握られている。


「長喜兄さん、師匠の絵の幽霊を探そう。私も師匠の絵が見たい。だから、私と一緒に探してください」


 喜乃が小さな頭を下げる。長喜は閉口した。

 二人の姿を眺めていた石燕が、小さく息を吐いて、頭を搔いた。


「お喜乃が探してぇんなら仕方ねぇなぁ。子興、ちょっくら役者の幽霊、いや、絵を探してきてくれ。近くに諦めの悪ぃ餓鬼がいたら、家に送ってやってくれ。別物だったら、さすがに諦めて帰ぇんだろ」


 白々しい言い回しに、長喜はうんざりした。


「本気かよ、師匠。あの小僧は幽霊やら妖怪の類が見えねぇんだろ。諦めるたぁ思えねぇ」

「幽霊の絵を描いてやれ。お前ぇの描いた絵なら、納得するだろうからよ。頼まぁ」


 石燕が深々と頭を下げる。


「待ってくれ、師匠。そねぇに頼まれちゃぁ、参っちまう。あの小僧は、師匠の役者絵が見てぇんだろ? 俺の絵で納得するはずが……」


 慌てる長喜の腕を、喜乃が引く。


「長喜兄さんは、幽霊の絵が描けるの? 私も、幽霊の絵が見たい。長喜兄さんの描く幽霊が見たい」


 喜乃の瞳が、期待に満ちている。


「お喜乃も、見てぇのか。……だったら、仕方ねぇな。幽霊を探しに行くかね」


 長喜は、がっくりと肩を落とした。

 これ以上、断り続けるのも煩労だ。長喜は渋々と、石燕の頼み事を引き受けた。

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