3.

 夕暮れ時、長喜は喜乃の手を引いて、八丁堀・栄稲荷の前に立っていた。


(初めっから、探させるつもりで手紙を寄越したんだろうから、構わねぇけどよ)


 石鳥の話していた「役者の幽霊」の噂は、長喜も知っていた。一年前に抜け出た絵だとは、考えもしなかったが。手紙を寄越すくらいだから、石燕には思うところがあるのだろう。


(役者の絵を探してほしいのも、本音だろうが。師匠の火急の用件は、やっぱり左七郎だろうなぁ)


 石燕が最も気を揉んでいるのは、左七郎の安否だろう。見えない人間は時に、驚くような無茶をする。


(無鉄砲で癇癪持ちの小僧が危ねぇ目に遭わねぇように見張れ、ってぇなところだろうな)


 長喜は辺りを見回して、左七郎の姿を探した。

 逢魔ヶ刻は薄暗く、辺りの景色を識認しづらい。見ているつもりで、いつもの景色が見えていない。同時に、見えない何かが見えたりする。

 栄稲荷の小振りな鳥居の前に、小さな人影が見えた。きょろきょろと忙しなく眼を動かしているのは、左七郎だ。

 その真後ろにもう一つ、大きな黒い影が見えた。


「長喜兄さん、何かいる。鳥居のところに、人? あれは人じゃ、ない?」


 喜乃が指さす。喜乃には左七郎の姿が見えていない様子だ。

 途端に影が倍以上も大きくなり、左七郎の姿を飲み込んだ。


「おい、左七郎! 危ねぇ! 走れ! 鳥居の向こう側に走れ!」


 大声で怒鳴りながら、長喜は走った。びくりと肩を揺らして立ち上がった左七郎が、二の足を踏む。追いついた長喜が、左七郎の肩を押した。ぐらりとよろけた左七郎が、鳥居の向こう側に尻餅を搗いた。


「お前ぇ、子興かよ! 突然、何しやがる! 転んだだろうが、馬鹿野郎!」


 悪態を吐く左七郎を鳥居の奥に引き摺り込んで、長喜は影のほうに目を向ける。

 影が大きく畝って形を変え始めた。ぐにゃりぐにゃりと不揃に伸び縮みする。その前に、喜乃が立っていた。


(しまった、お喜乃の手を放しちまった)


 長喜は喜乃に向かい、大声を上げた。


「お前ぇもこっちにこい、お喜乃! 鳥居の中なら、そいつぁ悪さできねぇ。早く来い!」


 喜乃が、黒い影を一心に見詰めている。長喜の声が届いていないようだ。

 一段と大きく畝った影が、喜乃に伸びた。


「お喜乃! 聞こえてねぇのか、畜生。影に飲まれるぞ!」

「あすこに、何かいるのか? その影ってぇやつに飲まれたら、どうなるんだ?」

「わからねぇ! けど、良い事体には、おそらく、ならねぇ! 下手すりゃ、死ぬかもしれねぇ!」


 立ち上がろうとした刹那、足に痛みが走った。左七郎を突き飛ばしたときに捻ったのか、足首が腫れている。体が、ぐらりと傾き、長喜は体勢を崩した。


「お喜乃を鳥居の中に連れてくれば、いいんだな? 俺が行ってやる!」


 言うが早いか、左七郎が飛び出した。


「馬鹿野郎! 見えねぇ手前ぇが行っても危ねぇだけだ、戻れ!」


 何とか立ち上がり、足を引き摺って左七郎を追う。

 大きく膨れ上がった影は、すでに喜乃の姿を隠していた。左七郎が影に飛び込む。


「左七郎! お喜乃! 聞こえたら返事しろ! 影の外に出てこい! 鳥居の中に来い!」


 懸命に叫ぶが、返答はない。

 まるで咀嚼するようにくねる影に、長喜の血の気が引く。

 ぱん、と黒い影が爆ぜて、左七郎の姿が現れた。左七郎が喜乃を背負って走り、鳥居の中に戻った。


「お喜乃! 左七郎! 怪我はねぇか。気分は悪くねぇか? どこか痛むところはねぇか」


 背中の喜乃を降ろして、左七郎が自分の体を見回す。


「俺は何ともねぇ。お喜乃も、大丈夫だよな? 俺からすりゃぁ、垣根の前にいたお喜乃をおぶって連れてきただけだ。あんたが狼狽している訳がわからねぇ。そねぇに危ねぇやつがいるのけぇ?」


 喜乃の顔や手を調べながら、長喜が大きく息を吐いた。


「心ノ臓が口から飛び出るかと思ったぜ。どう危険かはわからねぇが、あの影からは、嫌な感じがするんだよ。飲まれたら黄泉に連れ去られそうな、薄ら怖ぇ感じだ」


 左七郎がふぅん、と鼻を鳴らした。


「でも、長喜兄さん。私は怖いと思わなかった。悲しいような、優しいような、懐かしい気持になった」


 左七郎が首を傾げた。


「あんたとお喜乃で、話がまるで違うぜ。妖怪ってぇのは、そういうもんなのけぇ? てぇか、あんたが見ている黒い影とやらは、妖怪なのかよ」


 喜乃の感覚に首を捻りながら、長喜はもう一度、影に目を向けた。

 黒い影は動きを止めて、鳥居の中を見ている。目はないが、こちらを見ているのがわかった。長喜には存在自体が、どこか気味悪く感じられる。


「てぇげぇは同じような感じ方をするもんだ。あの影は、妖怪じゃぁねぇのかもな。幽霊、でもねぇし。よくわからねぇ」


 長喜は影をじっと見詰めた。影は喜乃を眺めているように思えた。


「見えていても、わからねぇんだな。だったら、見えていようがいまいが、変わらねぇな。よし、子興。俺と一緒に翁の絵を探そうぜ! あんただって、翁の絵を見付け出してぇだろ。俺が手伝ってやらぁ」


 左七郎が自信満々に言い放つ。


「嫌なこった。俺ぁな、手前ぇを諫めに来たんだよ。今ので、わかったろ。見えねぇ奴が人でねぇもんと遭うのは危ねぇんだ。絵を探すのは、やめておけよ。結局、栄稲荷の幽霊だって、師匠の絵じゃぁなかったんだ。一年以上も前ぇに消えた絵を今更見付けるのは、難儀だぜ」


 左七郎が拳を強く握って、長喜に鋭い目を向けた。


「難儀なのは、わかっていらぁ! それでも俺ぁ、見付けなけりゃならねぇんだ。俺の母上は、あの絵がまた見られるのを支えに生きているんだ。諦めたりは、できねぇんだ!」

「支えにって、お前ぇの母ちゃんは、病か何かか? 師匠の絵に関わりでもあるのけぇ?」


 左七郎が、俯く。


「元々、体が弱ぇんだ。俺を憂苦して気が参っているんだ。だからせめて、好きな絵を見せて元気付けてやりてぇ。力を貸しておくれよ」

「気持ちは分かるがなぁ。お前ぇを憂苦しているなら、まずは安心させてやれよ。母親に気を揉ませている訳は、わかっているんだろ。絵を探すのは、それからだろ」


 左七郎が、ぐっと黙り込む。

 突然、目の前の影が、ぎゅっと縮んだ。辺りの空気が張り詰める。


(何だ? 胃の腑が抉られるような気持の悪さだ。何が、起こったんだ?)


 遠くから、許多の足音が近付いてくる。隣にいる喜乃が、長喜の袖を強く掴んだ。顔が引き攣っている。


(とにかく身を隠したほうがいい。ここにいるのは、危ねぇ気がする)


 恐竦した気這いのせいか、影のせいなのか。根拠のない危機が頭を擡げた。


「お喜乃、左七郎、社の中に身を隠すぞ。急げ」


 小声で諭して、二人を社の中に押し込む。


「何だって、急に隠れるんだ? もっと、おっかねぇ化物でも出たのかよ」


 指を口に充て、しっと制する。

 喜乃が社の奥で一人、屈んで震えていた。


「お喜乃、どうした? 怖ぇのか? 俺が隣にいてやるから、怯えんな。大丈夫だぜ。ほら、手を繋いでやるよ」


 長喜より先に気が付いた左七郎が喜乃の隣に腰を下ろす。社の戸を狭く開いて、長喜は外の様子を窺った。足音が徐々に稲荷に近付いて来る。同じ場所にいる影の逼迫が増していく。


(あれぁ、まるで殺気だ。俺らじゃぁねぇ、足音のほうに向けて、恐嚇しているんだ)


 足音は、栄稲荷の前で止まった。武士の身なりをした男衆が、話を始めた。


「八丁堀は、この辺りのはずだが。あの男が写楽だという噂は、間違いねぇのだろうな」

「確かな筋の報せだ。同じ写楽の娘を匿っているはずだ。見付け出して近江様に差し出せば、大手柄だぞ」


 小声で話しているであろうに、内容が良く聞こえる。

 影が長喜を見詰めた気がした。


(あいつのせいで、良く聞こえるのか? あの男らの話を、俺に聞かせてぇのか? 写楽? 写楽って何だ? 人の名か?)


 男の一人が、社に目を向けた。思わず、びくりと肩が浮く。影が殺気を増した。男衆を睨み付けているようだ。


「何やら、寒気がするな。この通りではなさそうだ。一本、向こうの通りに行ってみよう」


 頷き合った男衆が、社から離れて行った。切迫した気が緩んで、長喜は大きく息を吐いた。体の力が、一気に抜けた。

 背後で布の擦れる音がした。喜乃の体が床に倒れた。


「お喜乃! どうしたんだ! しっかりしろ! 子興、お喜乃が気ぃ失くしている!」


 左七郎の腕に支えられた喜乃が、肩で息をしていた。額に手を当てる。


「ひでぇ熱だ。影に捲かれた時に、てられたんだろうな。早く寝かせてやらねぇと」


 喜乃を抱き上げる。足首に鋭い痛みが走った。体勢を崩した長喜を左七郎が支えた。


「足を挫いたんだろ。無理するねぇ。俺がお喜乃をおぶってやる。あんたは、ひょこひょこと足を引き摺って、俺の後ろを付いて来いよ」

「一言が多い小僧だなぁ。だが、助かるぜ。お喜乃に怪我なんぞ、させるなよ」


 そっと、外を窺う。いつの間にか、影は姿を消していた。


「でも何で、お喜乃だけが調子を崩すんだ? 俺ぁ、何ともねぇぜ。同じに影に飲まれたはずだろ?」

「見える奴ぁ、気が敏いんだ。敏い奴ぁ、気触れ易い。お前ぇは影の姿も見えちゃぁいねぇ。だから、平気なんだろ」


 左七郎が、目を吊り上げる。


「俺が鈍いって言いてぇのかよ! 確かに、見えはしねぇが、感は良いほうだぞ!」

「鈍いのが悪ぃんじゃぁねぇよ。質の違いだ。いちいち、突っ懸かるな。今は、それどころじゃぁねぇ」


 人気がないのを確かめて、社の戸を開く。鳥居の前で、もう一度、通りを覘く。慎重な長喜を、左七郎が、じっと見詰めた。


「そこにおるのは、長喜殿か? 儂だ、十郎兵衛だ。お喜乃も、共におるのか? 無事であろうな」


 ぎくりと心ノ臓が下がった。稲荷の辻に斎藤十郎兵衛が立っていた。


「十郎兵衛様、ですかぃ? 何だって今、ここに、いらっしゃるんで?」

「報せが……、いや。仕事の帰り道だ。儂の屋敷は、この辺りでな。偶然に、姿を見付けたのだ」


 走り寄った十郎兵衛が、左七郎の背中にいる喜乃に手を伸ばす。


「熱があるのか。早う休ませねばならぬな。耕書堂まで送ろう。ここは、物騒だ。早々に離れたほうが良い」


 長喜の返答を待たずに、十郎兵衛が歩き出す。辺りを警戒する忙しない様子に少しの違和と不安を覚えながら、長喜は十郎兵衛に付いて歩き出した。

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