第三章 役者の似絵と一抹の影

1.

 喜乃を連れて吾柳庵に通い始めてから、あっという間に五日が過ぎた。

 喜乃は石燕の指南が楽しいようだ。毎日、自分の筆やら紙を纏めて身支度を整え、長喜の部屋の前で待っている。不精者の長喜も、喜乃にこう待たれてしまうと、吾柳庵に行くより他にない。


 庵に着くと、石燕が喜乃に早速と絵の指南を始める。校合など二の次だ。長喜の作業は捗々しくなかった。


「もう何冊も妖怪の本を出しているのに、何だってこねぇに絵が、わんさとありやがるんだ」


 火や水などの種類ごとに分けた絵は、本に入れる枚数を遥かに超えている。

 長喜のぼやきに、月沙がけらけらと笑った。


「師匠は、この世の妖怪を総て描き切る気なのさ。妖怪は、まだまだいるぜ。数冊の本になんざ、収まりきらねぇよ」


 石鳥が、真面目に頷いた。


「確かになぁ。鬼火だって、細かく分けりゃぁ、十も二十もいるからなぁ。師匠、もう一冊、出したほうがいいぜ」

「そねぃに分けていたら、鬼火だけで一冊できらぁ。目立つやつを絞るぞ。師匠、外せねぇ絵を数枚、選んでくれよ」


 絵の束を石燕に突き付ける。石燕が振り返り、低い怒声を響かせた。


「今ぁ、お喜乃が気張って絵ぇを描いているんだ。邪魔ぁするんじゃぁねぇよ。静かにしやがれ」


 ひっ、と息を飲んで、長喜は手を引っ込めた。

 石燕が、ちょいちょいと喜乃の絵を指さす。長喜は、喜乃の気を削がないように気を付けながら、そっと覗き込んだ。

 喜乃は、庭で昼寝している三毛猫を描いていた。

 猫の丸まる背中の線は、すぃと流れ、柔らかい屈曲を描いている。まだまだ流麗とは言い難いが、五日前とは確実に変わっていた。


(こいつぁまた、ずいぶんと上達したなぁ。師匠の教えがしっかと身についていらぁ)


 ちらりと石燕に目の先を合わせる。石燕が満足そうに、にやりと口端くちはしを上げた。

 絵を描き上げた喜乃が、筆を置く。小さく息を吐いて石燕を見上げた。


「師匠、描けました。猫の体の柔らかさを意識して線も柔らかくなるように描きました」

「線は、良く描けているな。それで、何だって、そねぇに体を長く描いたんだ? 胴も膨らんでいるな。あの猫は、痩せこけているぜ」


 喜乃が猫を指さす。


「あそこで寝ている猫は、伸びていて、立っている時より体が長く見えました。お腹も少し大きいです。だから、見たままを描きました」


 確かに体は痩せているが、腹は膨らんでいる。子を孕んでいるのだろう。絵の猫は、四肢の合間に見える腹がぽっこりと出ている。本物より大仰かもしれない。


「お喜乃は、見たままを描きてぇのか。絵の中で、可愛らしく描いてやろうとは、思わねぇのけぇ?」


 喜乃が、自分の絵を見詰める。


「見たままを描かないと本物じゃないと、思います。私が可愛く描きたいと思って描いた絵と、目の前の猫の絵は、別の絵だと思います」


 石燕が、目を細めた。喜乃が描いた猫を、とんとん、と指で突く。


「この猫の絵も、お前ぇが気に入っていりゃぁいい。だがな、お喜乃が描きてぇと思って描いた絵が、お喜乃の絵だ。可愛らしく描きてぇなら可愛らしく。格好よく描きてぇなら格好よく。見たままが良けりゃ、見たままに描きゃぁいい。どんなふうに描いたって、いいんだぜ」


 丸い目をさらにまん丸にして、喜乃が石燕を見上げた。


「私の好きなように描いて、いいのですか? それでも本物になりますか? 偽物と、捨てられたりしませんか?」


 石燕が深く頷いた。


「当たり前ぇだ。絵の中は手前ぇだけの領分よ。お侍も町人も、男も女もねぇ。好きに描きな! 誰に何を言われようが、気にするねぃ! お喜乃が描きたくって描いた絵は、全部が本物でぇ!」


 喜乃の目が、輝きを増していく。喜乃が、長喜を振り返った。


「長喜兄さんも、好きなように描いている? 見たままだけじゃなく、想いとかを込めて、絵を描いたりするの?」


 突然の問いかけに、長喜は首を捻った。


「そうさな……。難しく考えていねぇが、俺ぁ昔っから、好きなように描いているな。想いは、勝手に筆に乗るし、絵に載っている気が、するなぁ」


 長喜の後ろから月沙が、ぬっと顔を出す。


「子興は、人の意見なんざ、初めっから聞いちゃぁいねぇよ。不断、のらりくらりとしているが、変に固陋だからねぇ。お喜乃も、兄さんを見習って好きに描きなぁよ」

「こら! お喜乃に妙な教えをするなぃ! 師匠の教えが乱れるだろうが! お喜乃、月沙の意見なんざ、聞かなくっていいからな」


 いつの間に、喜乃の肩を抱く月沙を石鳥が引き剝がした。


「可愛いお喜乃を可愛がって、何が悪いのさ。石鳥は無頼だねぇ。お喜乃、石鳥は見習うなぁよ。こいつぁ、真面目過ぎて面白みがねぇからな」

「手前ぇら、ちぃっと黙りやがれ。お喜乃が考えを纏めているからよ」


 月沙と石鳥を睨みつけながら、石燕が短く制した。顎で喜乃を、くぃと指す。月沙と石鳥が、ぴたりと動きを止めた。

 喜乃が自分の絵を見詰めて、じっと考え込んでいた。騒がしい月沙と石鳥など、目に入っていない様子だ。


「好きなように、想いを込めて描いていい。見たままでなくても、本物になる。好きに、描いていい。想いは筆にも、絵にも載る」


 独り言を呟いて、喜乃が、にっこりと笑った。

まるで解き放たれたような防備しない笑みを見て、長喜は胸が痛くなった。


(もしかしてお喜乃は、手前ぇの好きにしちゃぁいけねぇような場所に、今までいたのかな)


 たった五歳の童が、いったいどんな生活を強いられていたのか。耕書堂に来る前の喜乃の生活は、長喜が思っているより、ずっと過酷だったのかもしれない。


「お喜乃は笑うと可愛いねぇ。ずっと笑っていたらいいよ。私が、笑わせてやろうかね」


 顔をずぃと近づけて、月沙が喜乃に向かい舌を出す。びくり、と肩を震わした喜乃を長喜が庇った。


「面白い顔じゃぁなくって、おっかねぇ顔だ。お喜乃が驚く振舞いは、やめやがれ」


 石鳥の拳が、月沙の頭に落ちる。


「お喜乃は、どんな顔していても可愛いだろうが! 手前ぇは、お喜乃から離れやがれ。そもそも今は、絵の指南をしている途中だぞ。邪魔をするんじゃぁねぇよ」


 石鳥に引き摺られる月沙を見ていた喜乃が、吹き出した。喜乃が声を出して笑った姿を、長喜は初めて見た。

 石燕が優しく笑んで、喜乃の頭を撫でた。


「色んなもんを見て、感じて、手前ぇの気持ちに素直に生きな。感情が豊かなら、絵も一等巧くなるからよ」


 喜乃が素直に頷く。


「吾柳庵は楽しいです。師匠に、もっとたくさん習いたいです。絵も、たくさん描きたいです」


 素直な目が石燕を見上げる。石燕が頷き、筆に手を伸ばす。

 同時に、庵の戸が勢いよく開いた。


「翁! 出やがったぜ。女の幽霊だ! 八丁堀の栄稲荷の近くだとよ! 読売を持ってきてやったぜ!」


 長喜の知らない小僧が、息を切らせて立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る