5.

 目の前に光が流れた。木漏れ日が反照して、目が眩む。


「おや、その声は子興かぇ。久方振りだねぇ。なかなか来ねぇから、妖怪に食われたのかと思っていたよ」


 庭の軒先から、月沙が、ひょっこりと顔を出した。徳利を揺らしながら、笑顔で手を振る。


「よぉ、月沙。いつ来ても酔っているなぁ。相も変わらず元気そうで、何よりだ」


 長い髪をさらりと流して、月沙が気怠そうに濡れ縁に腰掛ける。


「私が酔っていないと、師匠が呑みづらいだろう。私は師匠のために、酒を呷っているのさ」


 月沙が目の先を石燕に流す。石燕が豪快に舌打ちをした。


「俺ぁ、お天道様の高けぇ時分から、呑みゃしねぇよ。手前ぇの酒癖の悪さを師匠のせいにするんじゃぁねぇや」


 どかどかと大きな足音がして、石鳥が駆け込んできた。


「やぃ、月沙! まぁた勝手に酒を持ち出しやがったな! あれぁ子興が来てから開けるって、念を押しただろうが。って、子興かぃ。いつ来たんだ?」


 額に汗する石鳥は、墨だらけの着物を抱えている。石燕の着物を洗っていたのだろう。長喜は、気の毒な気持ちで哀れな姿を眺めた。


「たった今だよ。いまだに師匠と月沙に気を揉んでいるんだなぁ。お前ぇも相変わらずだ」


 苦笑して、頬を掻く。くぃっと着物を引っ張られて、長喜は後ろを振り返った。喜乃が長喜の着物を掴んだまま、後ろに隠れていた。


「ふぅん。その小せぇ童が、歌麿の話していた面白れぇ娘けぇ」


 石燕が面白尽の顔で覗き込む。


「獣のようで美しい娘ってやつだろう。私も見たい。子興の後ろにいるのかぃ? 小さくって見えねぇなぁ」


 無作法に近づく月沙を、石鳥が制する。


「そねぇに、じろじろ見たら可哀想だろう。見られる側の気持ちも考えやがれ。童なんだから、怖がるぞ」

「いいだろうが。私ら妖は、いつも人に、まじまじと見られるんだ。たまには人を、とっくと見るのも悪くねぇや」


 月沙のにやけ顔が、喜乃に迫る。石鳥が、月沙の頭をむんずと摑まえた。


「毎日、師匠を拝んでいるだろうよ。本当に性根の腐った野郎だな。酒は勝手に飲むし、童を怖がらせるし。妖怪の評判が悪くなるだろうが」


 石鳥に呆れられても、月沙は不知顔だ。

 長喜は喜乃を眺めた。好奇の溢れた瞳で、二人を見詰めている。


(気に掛けてくれた石鳥にゃぁ悪いが、こいつぁ、怖がっちゃぁいねぇな。楽しそうだ。お喜乃が妖怪を怖がる訳がねぇや)


 おそらく初めて会ったであろう妖怪を前にしても、怯える様子はない。それどころか、喜乃が前にのめっている。

 意を決したように着物を手放した喜乃が、石燕の前に出た。石燕をまっすぐに見上げる。


「弟子にしてください。もう弟子は、取っていないと聞きました。でも私は、どうしても石燕師匠に絵を習いたいです。お願いします」


 喜乃が深々と頭を下げた。

 突然の申し出に、石燕が呆気に取られていた。


「今より、もっと絵を巧く描けるようになりたいです。だから、弟子にしてください」


 月沙と石鳥も、ぽかんと口を開けていた。


(なるほどなぁ。それで、あんだけ張り切っていたのか)


 てっきり、気に入りの本の絵師に会えるのを楽しみにしているのだと思っていた。だが、喜乃は初めから弟子入りを願い出るつもりで長喜にいて来たのだろう。

「くくっ……、あっははは! もう師匠って呼んでいるだろうが!」


 先ほどまで茫然と喜乃を眺めていた石燕が、豪快に笑い出した。


「これぁ、確かに面白れぇや。お喜乃、といったか。そんなら、今から絵を教えてやる。さっさと上がりな」


 頭を上げた喜乃が、目を輝かせた。


「ありがとうございます! 一所懸命描きます。きっと巧くなります」


 石燕に一礼すると、文机に向かった。喜乃の目は、嬉しそうに笑んでいた。


(あんな風に、笑えるんだなぁ。お喜乃の、あねぇな顔を見るのは、初めてだ)


 もしかすると重三郎は、喜乃の気持ちを知っていたのかもしれない。


(絵師にはしてやれなくとも、師匠と絵を描くだけで十分に、楽しいよな)


 満足した気持ちで、喜乃と石燕を眺める。


「まるで、ぬらりひょんと座敷童が並んで筆を持っているみてぇだねぇ。面白れぇなぁ」


 月沙が、悪戯に笑う。


「ぬらりひょんは可愛すぎらぁな。師匠は、どっちかっていやぁ、覚……いや、百々爺だろうな」


 何気なく話す長喜に、月沙が同意する。


「そいつぁ、いいな! 師匠が一人で百鬼夜行しているみてぇだ! 牛鬼も悪くねぇな!」


 盛り上がる月沙と長喜の頭に、石鳥の固い拳が落ちた。


「手前ぇら、いい加減にしねぇか! やぃ、子興。手前ぇは、板本の校合に来たんだろうが。さっさと始めやがれ」


 怒り顔の石鳥が、山と積み上げられた絵を指さす。


「少しくれぇ片してくれても、良かったんだがなぁ。お前ぇだって、校合くらいできるだろう、石鳥」


 恨めしい目を向ける。石鳥が、さらに眉間の皺を深くした。


「校合の仕切りは子興にって、師匠が聞かねぇんだ。俺だって、早くお前ぇと絵が描きてぇのに、お前ぇは来ねぇし、月沙は酒を飲んじまうし」


 石鳥が、しょんぼりと肩を落とす。


「そうだよな、酒まで用意して待っていてくれたんだよな。ぼちぼち、始めようぜ」

 石鳥の肩に手を置いて、山積みの絵に目を向けた。


「絵を描くって? 私も描く! 石鳥、紙と筆を持ってきてくれよ」


 月沙が部屋に上がり、徳利を放り出した。石鳥が慌てて受け止める。


「酒を放り出すな! 高ぇ酒なんだぞ! 絵を描くのは校合を終えてからだよ! ったく、手前ぇは、いつもいつも!」

「石鳥は煩いねぇ。楽しけりゃぁ、何だって、いいだろうが」


 座り込んだ月沙が、鬱陶しそうに石鳥を眺める。

 前にのめる石鳥を、長喜が押さえた。


「落ち着けよ。月沙の奔放振りは、昔からだろう。お前ぇも、いい加減に慣れろよ」


 石鳥が、怒った肩を渋々と下げた。


「子興の言葉には、耳を貸すよなぁ。石鳥だって、昔から変わらねぇだろ。ほら、あんまり騒ぐと、師匠に譴責されるぞ」


 月沙が石燕を指さす。長喜と石鳥が、石燕に目を向けた。

 石燕が喜乃に、筆の持ち方を指南していた。


「肘が浮ついているから、線が揺れるんだよ。筆は柔らかく握るんだ。肩の力を抜いて、脇は緩く締めな」


 強張った喜乃の肘と肩の位置を整える。喜乃が真剣な面持ちで筆を下す。石燕もまた、同じ顔で喜乃の筆の動きを追う。長喜たちの存在など、すっかり抜け落ちている様子だ。


「ずいぶんと気を入れて教えているなぁ。俺らの声なんざ、聞こえちゃぁいねぇ」


 思わず零れた長喜の声に、石鳥が当然と頷く。


「当たり前ぇだろ。本気で弟子入りを志願した奴を、あの師匠が体良くあしらうかよ」


 月沙も頷きながら、クックと笑う。


「お喜乃の意気込みは、私らにも伝わったからねぇ。師匠が思わず弟子入りを許すくらいだ。大物になるよう仕込むぜ」


 確かに、あの石燕が絵に関わる事柄に手を抜くはずもない。相手が誰であろうと、自分の総てを尽くしてくれる人だ。長喜も、よくわかっている。


(だけどなぁ、お喜乃の未来を考えると、可哀想な事体になったりしねぇかな)


 一抹の不安が頭を過った。

 喜乃が筆を走らせる姿は真剣だ。巧くなりたい気持ちは痛いほど伝わってくる。


(この先がどうなるかなんざ、わかりゃしねぇんだ。今は存分に、描かせてやろう)


 喜乃の気に中てられる。長喜は意気込んで、山積みの絵に手を伸ばした。


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