4.
根津権現の隣には、小さな竹林がある。人の行き交う参道より奥まった竹林の中に入る者は、ほとんどない。
根津門前町を抜け細い路地から竹林に足を踏み入れようとした時、喜乃は長喜の袖を掴んだ。喜乃を見下ろす。日本橋の賑やかな通りを嬉々として眺めていた顔から、笑みが抜けていた。
「この奥に庵があるんだ。俺の師匠の住んでいる家だ。怖ぇ場所じゃぁねぇが、妖が出るかもしれねぇなぁ」
喜乃が掴んだ袖を引いて、長喜を見上げた。ちらりと横目に見る。喜乃の目には、好奇の心情が浮かんでいた。
(怖がってんのかと思ったが、違うな。こいつぁ、楽しみにしている目だ)
気が付けば、喜乃が耕書堂に来て半年近くが過ぎていた。共に過ごす時が増えて、長喜も喜乃の性格を少しずつ飲み込んでいた。
喜乃は平素、あまり口を開かない。鉄蔵と喧嘩をする時も、長い言葉を使わない。表情の変化も、一見しては乏しい。しかし、よく見れば、目に感情が現れる。
長喜は喜乃の小さな手を、きゅっと握った。
「梧柳庵ってぇ所でな。今は小さな庵しかねぇが、昔は大勢の弟子を住まわせて、絵を教えていたんだ。賑やかだったんだぜ」
喜乃が長喜の手を握り返す。二人は揃って、竹林の中に歩みを進めた。
「どうして、小さな庵にしたの? もう弟子は、いないの?」
鬱蒼と茂る笹の葉が、陽の光を遮る。小さな歩に速さを合わせて、薄暗い道をゆっくりと歩く。
「今は二人かなぁ。石鳥と月沙ってぇのがいるが、あの二人は只の弟子とは、違うしなぁ。今は、新しく弟子をとっちゃぁ、いねぇな」
「どうして、弟子をとらないの?」
門前町の賑わいが嘘のような静けさの中に、喜乃の声が響く。少しの風で揺れた笹が、さらさらと音を立てた。
「師匠も老齢だからなぁ。一人で気ままに、絵を楽しみてぇんだろうよ」
石燕は御年七十一になる。弟子をとらなくなった今は、板本を続々と出している。筆は全く衰えを知らず、それどころか勢いを増すばかりだ。
「七十一歳だが、全くそうは見えねぇ、元気なお人だぜ。お喜乃が、いつも大事に持っている百鬼夜行を描いた本人だからな」
喜乃が目を輝かせた。握る手が熱を持つ。高鳴る胸の音が伝わってくるようだ。
長喜が貸した百鬼夜行の本を、喜乃は大層、気に入ったようで、暇さえあれば読み耽っている。さっきも本を開いて、絵を描いていたくらいだ。
(お喜乃も師匠に会えるのが、楽しみなのかもしれねぇな。蔦重さんの言う通り、連れてきて良かったかもな)
喜乃の姿を微笑ましく眺めるうちに、庵の前に着いた。喜乃が胸に手をあてて、大きく呼吸をする。息を整えたのを見守って、長喜は庵の戸を叩いた。
「師匠、おりやすかぃ? 長喜ですよ。入りやすぜ」
「……長喜? あぁ、子興か。さっさと、中に入ぇりな」
静かな嗄声が地を這うように響く。喜乃が長喜の手を、ぎゅっと握り締めた。ちらりと見やる。喜乃が彊直した面持ちで背筋を伸ばし、戸を真っ直ぐに見詰めていた。
長喜は、古びた戸を開いた。
庭に面した障子戸を開け放った庵の中は、戸口より陽が射している。外に向いた文机を覆うように丸まっていた背中が、にょきりと伸びた。
ぎょろりとした目が、長喜をじっとりと睨めつけた。
「ようやっと来たか。あんまり遅ぇから、そろそろ黄泉に逝っちまおうかと思ったよ」
悪戯っぽさを目尻に湛えた石燕の目が、にっと笑む。
「死神様が迎えに来たって追っ払いそうなお人が、よく言うや」
長喜は悪びれもせずに笑う。
「追っ払うなんて勿体ねぇ。来てくだすったら、まずは絵を描いて、それから歓迎の盃だ」
小さな背中を丸めて、石燕がくっくと笑う。
「祝杯が後とは、順序が逆ですぜ。ま、師匠らしいがね」
長喜は、ほっと息を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます