3.
晩秋の冴えた風が冷たさを増した。空は一層に高く、乾いた水色を呈する。
歌麿の言付を聞いてから半月ほどが過ぎ、気付けば神無月も末になっていた。絵の仕事が立て込み、なかなか石燕の元に行けずにいる。
そんな長喜の元に、石燕から文が届いた。
「兄ぃが、気が向いたら、なんてぇから、すっかり頭から抜けていたぜ」
小さくぼやいて、長喜は頭を掻いた。
石燕の用事は、わかっていた。絵本の校合だ。これまで石燕が出した本の総ての校合は、長喜の仕切りだった。時に合作で絵を載せもする。
板本を出すのは年明けと聞いていたので、のびのび構えていた。だが、石燕は様子が違ったようだ。今回は、今までに出した妖怪絵本の連作の、最終巻だ。文からは、石燕の発奮と急く気持ちが伝わってくる。しかも、次の
「そろそろ行かねぇと、流石の師匠も痺れを切らすよなぁ。……それだけでも、ねぇようだが」
ついでのように書かれた最後の一文に、目を眇める。
『他に、火急の要件あり。急ぎ梧柳庵に来い』
石燕が、こんな文を寄越す時は、決まって妖怪絡みだ。文を握り締め、長喜は重い腰を上げた。
ちょうど立ち上がった時、勇助が血相を変えて飛び込んできた。
「急いで来てくだせぇ、長喜さん。一大事だ! 早く、こっちです! お喜乃が……」
長喜の腕を引っ張って、勇助が早足で歩き出す。暖気に構えていた長喜も、早足になった。
「お喜乃が、どうした? 怪我でもしたのか?」
勇助が首を振り、蒼い顔をした。
「絵を、描いているんでさぁ。長喜さんが貸した絵本を見ながら」
ぞっとした声を顰める勇助に、肩の力が抜けた。
「何が一大事だよ。脅かすんなら、もっと凝った仕込みを考えろよな」
からからと笑う長喜を、勇助が振り返る。
「とにかく見てくだせぇよ。長喜さんだって、あれを見りゃぁ、俺と同じ顔になりやすよ」
真面目な顔で訴える勇助に、長喜は笑みを仕舞った。
二人は忍び足で喜乃の部屋に向かう。静かに障子戸を開き、中を窺った。
「こっからなら、絵も筆運びも、見えやす」
長喜が、そっと中を窺う。
喜乃が、真剣な顔をして、紙に筆を滑らせる。手元に置いてあるのは、長喜が以前に貸した『画図百鬼夜行』だ。
(女の絵、か……。まんま写しているんじゃぁねぇな)
開いているのは、恐らく死霊と生霊の項だ。しかし喜乃の目は、ほとんど本を見ていない。
喜乃の筆が進むにつれ、長喜は息を飲んだ。
(絵そのものは、子供の落書きってぇなところだが……)
五歳の童にしては、それなりに巧い。
喜乃が描いているのは、綺麗に髪を結った女の立ち姿だ。顔は穏やかに笑んでいる。
(死んだってぇ母親を、描いているのかな)
引く線は歪んで、太さは疎らだ。顔と体の大きさも釣合が悪く、落書きの域を出ない。だが、出来上がると、一つの絵に仕上がって見える。
(こいつぁ、育てたら一端の絵師に、なるやもしれねぇぞ……)
ぞくりと、背筋に痺れが走る。気付けば長喜も、勇助と同じ顔になっていた。
「お喜乃の描く絵は、なかなかのもんだろ。いつもお前ぇの傍にいるせいか、見て学んだのだろうよ」
廊下の向こうから足音を忍ばせてきた重三郎が、部屋の前で足を止めた。
「蔦重さん、ありゃぁ……」
「絵師にぁ、してやれねぇがな。好きで描くだけなら、止めはしねぇ」
長喜の声に被せて、重三郎がきっぱりと言い切った。
重三郎の目が細く開いた障子戸の中に向く。その瞳には、憂いが浮かんで見える。長喜は思わず、出し掛けた言葉を飲み込んだ。
重三郎が表情を改めて、長喜に向き直った。
「お前ぇ、石燕先生に、さんざ呼ばれているだろう。さっさと根津に行きやがれ」
「これから行こうと思っていたんでさぁ」
何となく歯切れが悪くなった長喜に、重三郎が付け加えた。
「ついでに、お喜乃も連れて行ってやりな。ずっと籠りっぱなしでも、飽きるだろう。たまにゃぁ、遊びに連れて行ってやれ」
「俺ぁ、遊びに行くんじゃぁ、ねぇんですがねぇ」
困り顔で笑って見せる。重三郎が口端を上げた。
「お喜乃にとっちゃぁ、お前ぇと出掛けるだけで、遊びだよ。それに、石燕先生が喜ばぁ。勇記から話を聞いて、関心を持っていたみてぇだからよ」
勇記とは、歌麿の名だ。この界隈で歌麿を幼名で呼ぶのは、重三郎しかいない。二人の関係の濃さを、改めて感じる。
長喜は再び、部屋の中の喜乃を覗き見た。一枚の絵を描き上げた喜乃が得意な顔で、筆を置く。
(楽しそうな面ぁ、しやがるなぁ。気に入った絵が、描けたんだろうな)
満足のいく絵が仕上がった時の自分と重なって、嬉しくなった。
「ま、確かに師匠は喜びやしょうし、連れて行きやすかねぇ」
喜乃の姿に安堵したような気持ちになって、長喜は自然と微笑んだ。
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