4.
年が明け、寛政六年の如月中旬(一七九四年三月中旬)。
長期は長喜は喜乃と連れ立って大川堤に来ていた。江戸彼岸が満開とあって、見物衆も多い。
「やはり大川の桜は美しいですね。毎年のように眺めているのに、飽きない。散る様がまた、儚く潔い」
散る花弁に手を伸ばして、十郎兵衛が微笑む。
喜乃に桜見を進言したのは十郎兵衛だった。遠出する時は、十郎兵衛が付き添う決まりだ。平素は長喜から
有難くはあるのだが、長喜には懸念があった。鉄蔵からの忠告だ。
年が明ければ、十郎兵衛から、それらしい話があると腹を括っていた。しかし、十郎兵衛からは何も話がない。それどころか、以前より喜乃を外に連れ出す機会が増えた。
(鉄蔵の話は、何だったんだ? 思い違い……って、訳でも、ねぇだろうな。旅立つ前ぇの忙しい最中に、わざわざ話に寄ってくれたんだ)
鉄蔵が、何処で話を仕入れたのかは、わからない。だが、武家の出で川村の姓を持つ鉄蔵は、おそらく一介の絵師には、留まらない。詳しい事情は知らないが、漫然と、そう感じていた。
平素、他人の事情に踏み入るような振舞をしない鉄蔵が残した言葉だからこそ、気に懸かる。十郎兵衛に尋ねたいところだが、なかなか巧く言い出せず、二月が過ぎていた。
「あちらに川下りがありますよ。お喜乃様、船から桜見などは、如何ですか?」
十郎兵衛が指さすほうを向いて、喜乃が目を輝かせた。
「待ってくだせぇ、十郎兵衛様。船なんざ、他人目に付く。危なかねぇですかぃ?」
ただでさえ川沿いは見物衆で混雑している。長喜は慌てて十郎兵衛に耳打ちした。
「案ずるな、長喜殿。今なら近江の刺客もおるまい。国元も江戸屋敷も安定しておる」
「何で言い切れるんです。お喜乃は、いまだに一人で竹林を出るのを禁じられていんだ。年が明けてから、緩んじゃぁいやせんか?」
「一人で出歩かれては困るが、我らが共におれば良い。それに、感じはせぬか。もう一つの気這いが、常に傍にあるだろう」
長喜は、背後を振り向いた。黒い影が、後ろを付いて来ている。夜ほど、はっきりとは感じないが、確かに傍にいた。
年が明けてから、黒い影は竹林に現れた。喜乃が母の幽霊と呼ぶ影だ。それには、長喜も気が付いていた。
「お志乃様が常にお喜乃様を見守っておられる。危険が迫れば、すぐに気が付く。儂も其方と同様に、敏い質だからな」
それでも、長喜の胸の内の不安は晴れない。
「あの影は、自分に危険が迫ると教えてくれると、前ぇにお喜乃が話してくれやした。影が傍にいるってぇのは、つまりお喜乃に危険が迫っているってぇ教えているんじゃぁねぇのですか?」
出見世に夢中の喜乃を眺める。嬉しそうに浮かれる姿を見られるのは、長喜にとっても、喜ばしい。しかし、憂慮は尽きない。
十郎兵衛が長喜と喜乃を茶屋の席へ促した。注文した団子と茶がすぐに運ばれてきた。
「後ほど、話そうと思っておったのだが。実は、阿波守様の姫君の御輿入れが決まってな。御相手は、越中守様の御子息だ。大炊頭様の件で越中守様に睨まれておった蜂須賀家だが、阿波守様の御尽力で良好な関係を築けた。近江らがお喜乃様を狙う必用は、もう、ない」
長喜は、目を瞬かせた。
老中首座兼将軍輔佐であった松平越中守定信は、隠居後も豪奢な暮らしをする蜂須賀大炊頭重喜に苦言を呈していた。
写楽の一件で謀反を疑われ、改易言渡しの危惧に駆られた近江派の家老たちにとり、重喜の奔放な振舞と定信からの弾圧は、今もって恐怖の種だ。
蜂須賀家と松平家が良好な関係を築ければ、定信からの圧力も弱まる。近江派が写楽の顔である喜乃を狙う因果もなくなる。
「かつてより阿波守様は、越中守様の信用の回復にお努めになられておった。ようやっと、成し遂げられた。それこそが、蜂須賀家の安泰、ひいては、お喜乃様の安泰に結び付く。今しばらくは用心せねばならぬが、時機を計れば、お喜乃様が自由に外に出られる日も来よう」
にこりと笑んで、十郎兵衛が茶を啜る。長喜は、隣に腰掛ける喜乃を振り向いた。
「お喜乃は今の話を、知っていたのけぇ?」
さほど驚く様子のない喜乃に問い掛ける。喜乃は小さく頷いた。
「今朝、十郎兵衛が持ってきてくれた文で、知ったの。長喜兄さんに話しそびれて、ごめんなさい。私も十郎兵衛と同じで、後でゆっくり話すつもりだったのだけれど」
どっと体の力が抜けて、肩が下がった。
「何でぇ、そうだったのけぇ。はぁ……。急に体の力が抜けたぜ」
大きく息を吐く。喜乃と十郎兵衛が顔を合わせて笑った。
「自由に外に出られるなんて、まだ想像もできないけれど。少しずつでも、そんな日が増えると、いいな。お忙しいのに私を気遣ってくれる兄上には、感謝しても、しきれない。今日の内に返事を書くから、持って行ってね、十郎兵衛」
「もちろん、御預かり致します。書き上がるまで、いつまででも、お待ち申し上げますよ」
二人の穏やかな遣り取りを眺める。
長喜にも自然と笑みが湧いた。
「そうとわかれば、桜見を楽しもうぜ! お喜乃、船に乗ろう。初めてだろ? 船から見上げる桜は、また風流だぜ。絵の種には最上だ!」
喜乃の手を引いて立ち上がる。
「待って、長喜兄さん。まだ、お団子を食べ終えていないの。お茶も残っているわよ。もう一度、ちゃんと座って。お団子を食べながら桜を見上げるのも、風流よ」
喜乃に諭されて、長喜は腰を下ろした。
「違ぇねぇ。風流は一個ずつ楽しまねぇとな。まだ陽は高ぇんだ。何だって、できらぁ!」
串を手に取り、団子にかぶり付いた。
「みたらしが口に付いているよ。私より
喜乃と十郎兵衛と、三人で笑い合う。
鉄蔵の忠告と黒い影は、長喜の中で、まだ引っ掛かったままだ。
(十郎兵衛様が大丈夫と仰ってくれるんだ。お喜乃にも文が届いたんだ。今くれぇは何も考えずに、お喜乃と楽しんでも、良いよな)
安堵して笑う喜乃と十郎兵衛を眺めていたら、これ以上の不安を口にできなくなった。胸に痞える小さな憂慮を飲み込んで、はらはらと散る桜の花弁を見上げていた。
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