5.

 桜見を終えて帰ると、庵の戸口の前に重三郎が立っていた。


「おぅ、帰ぇったか。ちぃっとばかり待たせてもらったぜ。十郎兵衛様も、御一緒でしたか」


 重三郎が頭を下げる。


「どうしたんでぇ、蔦重さん。急ぎの用事けぇ? 俺の下絵に手違でもあったのけぇ?」


 慌てて駆け寄る。

 頭を上げた重三郎の目は真剣だった。


「大事な話があって来た。十郎兵衛様もいらっしゃるなら願ったりだ。少し時を貰えねぇか」


 重三郎の目に宿った気魄に、長喜は気圧けおされた。

 ごくりと唾を飲んで頷き、庵の中に促した。

 人数分の茶を淹れて喜乃が差し出す。依然、重三郎からは攣縮した気が放たれている。

 腰を下ろした喜乃に向かい、重三郎が深々と頭を下げた。


「今日は、お喜乃に折り入って、頼みがあって来た。耕書堂から役者絵を出してくれ。絵師として、俺からの仕事を受けてくれ。頼む」


 重三郎の唐突な申し出に、長喜は息を飲んだ。

 隣に座る喜乃が、瞬きを忘れて重三郎を見詰めている。

 重三郎がゆっくりと頭を上げ、筒から数枚の絵を出した。


「睦月から始まった、豊国の役者絵の組物だ。この絵が大当たりなのは、知っていんだろ」


 歌川豊国は少し前から役者絵で人気を博した。役者絵のみならず、美人の絵、景色の絵、肉筆画、挿絵と、何でも描ける。

 自らを画工と恢弘かいこうに名乗り、絵の職人と称していた。


「耕書堂は春朗、春英で役者絵を出したが、二人とも勝川の絵を抜け出せねぇ。鉄蔵は手前ぇから辞めちまった。春英も、長くは続かねぇ。次の一手が肝要だ。今、豊国と渡り合えるだけの画力がある絵師は、お喜乃以外にねぇと思っていんだ」


 重三郎の掛ける期待の重さに、目を白黒させる。


「気持ちは、わかるけどよ。待ってくれよ、蔦重さん。お喜乃を絵師には、してやれねぇんじゃぁなかったのかよ。何だって今更、そういう話になるんだ」


 喜乃の絵に目を奪われていた重三郎を思い返せば、得心が行く。だが、喜乃を絵師にするのを反駁してきたのも重三郎だ。


「お喜乃の事情を考えれば、絵師にはできねぇと、あん時は思った。だが、今なら、どうだ。吾柳庵で長喜と暮らす許しも得た。これからも市井で暮らすなら、金を稼ぐ手段は、あっていいだろう。仕事の傍らで戯作や絵を描く御武家様は他にもいらぁ」

「そりゃぁ、確かに大勢いるだろうがよ。お喜乃とは事情が違うだろ。それに、俺と暮らすのと絵師で金を稼ぐのは別の話だ。暮らしにぁ、困っちゃぁいねぇよ。十郎兵衛様から、お喜乃に掛かる金は頂いていんだ」


 十郎兵衛に目を向ける。頷く十郎兵衛の隣で、喜乃が長喜に目を向けた。


「でも、長喜兄さん。あのお金に手を付けてくれないでしょう。私が使ってとお願いしても、使ってくれないんだもの」

「そりゃぁ、お前ぇ……。あの金は、お喜乃が嫁に行く時のために貯めてんだよ。今は、俺の稼ぎで暮らせているんだから、良いだろうよ」


 割って入る形で、十郎兵衛が重三郎に問いを投げた。


「儂には重三郎殿が焦燥を抱いておるように感じるが、焦りの訳は何であろうか。豊国に押され、耕書堂が役者絵で後れを取ったのも、訳の一つではあるだろうが。その程度で早まった策に走る男ではないと、儂は重三郎殿を買うておる。何か他に考えがあっての話だろうか。そうであれば、聞かせてほしい」


 真一文字に口を引き結んだ重三郎が、小さな笑みを零した。


「十郎兵衛様にぁ、敵いませんなぁ。そうまで見透かされちゃぁ、話すしかねぇ。俺ぁ、娯楽の威力を見せ付けてやりてぇんでさぁ。倹約令だ御禁制だと衆人の娯楽を悉く足蹴にする御公儀に、どれだけ踏み付けられても、締まられようとも娯楽は死なねぇと、突き付けてやりてぇんだ」


 重三郎の目が、鋭くなった。


「倹約令が出ても、戯作は伝蔵を始め、馬琴も他の戯作者も書く奴ぁいる。極印だの名入れの禁止だのと小細工をしても、歌麿は美人の絵で大成した。今は、豊国が役者絵で耳目を集めている。ここで、名も知らねぇ画力のある絵師が出てきたら、どうだ。役者絵が華々しく隆盛するに決まっていらぁ。前に縄に掛かっている俺が出すから、意味があるんだ」


 重三郎の勢いに、長喜は押された。

 喜乃と十郎兵衛は前にのめって話を聞いている。


「豊国に比肩する絵師を、俺ぁ、お喜乃の他に見付けらんねぇ。お喜乃の事情は知っている。だから、お喜乃自身と長喜、それに十郎兵衛様にも許しを請うつもりでおりやした。あの日、昨年の霜月にお喜乃の絵を知った時の、あの衝戟は今でも忘れられねぇ。この気持ちを江戸中の人に味わってもらいてぇんだ。どうか、頼みやす」


 重三郎が、また深く頭を下げた。

 初めて重三郎の本音を聞いたと、長喜は感じた。重三郎の覚悟の程を知り、身が引き締まると同時に、肝が冷えた。


(けど、お喜乃が絵師になって、本当に大丈夫なのか。ようやっと外に出られるようになったばかりだってぇのに。目立つ振舞をして、また危険に晒す羽目には、ならねぇのか)


 長喜の懸念を余所に、喜乃が半身程、前に出た。


「私は、お引き受けしたいです。私の絵を評してくれて、心意気を語ってくれた蔦重さんに、私ができる最上の礼は絵を描く以外にないわ。自分に礼を尽くしてくださる相手に無礼を働くのは、蜂須賀の名折れです。十郎兵衛も、そう思うでしょう」


 きっぱりと言い切り、喜乃が十郎兵衛に向き合う。


「ですが、お喜乃様。懸念が消えた訳ではござりませぬ。礼を尽くされるのは御立派ですが、阿波守様と大炊頭様が、何と仰られますか」


 困り顔の十郎兵衛に喜乃が尚も迫る。


「もちろん、父上と兄上に文を書きます。私は蔦重さんと役者絵を出したい。娯楽の隆盛の一助になりたい。ご飯を食べて寝るのと同じくらい、心を元気にする娯楽も大事よ。そう考えたから、父上は阿波国文庫を作られたのでしょう。私の絵は、父上の想いと同じよ」


 困り果てた十郎兵衛が、長喜に目の先を変えた。


「えっと、その、阿波国文庫てぇのは、何です?」


 言葉に詰まり、問いを投げる。


「大炊頭様が集めた写楽、つまりは芸事や医術、学問に優れた人々が、それらの技や知識を本にしたためた。その本を纏め、集めたのが阿波国文庫だ。大炊頭様は、人力失くして国は成り立たずとお考えだ。お喜乃様の仰る通り、人は体が元気でも気が滅入れば病む。心の有様の大切さを強く説いておられる」


 なるほど十郎兵衛が困り顔をするはずだと、長喜は得心した。

 喜乃が長喜を振り返る。気魄の籠った目で、長喜を見詰めた。


「長喜兄さん、私は描きたい。こんな機会は滅多にないわ。今なら、描けると思うの。お願い、お願いします。私に描かせてください」


 重三郎と同じように頭を下げる。

 今度は長喜が困った。


「やめろぃ、お喜乃。お前ぇが絵を描くのに、俺の許しは要らねぇだろ。十郎兵衛様や、お喜乃の父ちゃんや兄ちゃんが許しを出すなら、俺は賛成するぜ。元より俺ぁ、お喜乃を絵師にしてやりてぇと思っていたんだ。お前ぇの才を埋もれさせるのは、勿体無ぇからな」


 ぱっと顔を上げて、喜乃が嬉しそうに笑った。


「ありがとう、長喜兄さん。私、気張って描くわ。今まで以上に精進するわ。ありがとう」


 燥ぐ喜乃が長喜の手を握る。何だか少しだけ、照れ臭くなった。

 小さく息を吐いて、十郎兵衛が重三郎に向き直った。


「では、重三郎殿。お喜乃様の文は儂が預かり、阿波守様と大炊頭様に届けるよう図らおう。返事は二月ほど後となるだろうが、宜しいか」


 重三郎が、十郎兵衛に平伏した。


「勿論でございやす。お心遣いに感謝致しやす。良い御返事を期待してございやす」


 十郎兵衛は相変わらずの困り顔だったが、先ほどより微笑んで見えた。


「それとな、長喜。お喜乃の絵を助けてやっちゃぁくれねぇか。お喜乃は、売りに出す絵を描くのが初めてだ。慣れているお前ぇが、指南してやってくれ」

「そらぁ、構わねぇが。お喜乃なら、すぐに慣れるだろうし、俺が口を出す所は、そうないと思うぜ」


 重三郎が首を振った。


「耕書堂が役者絵で後れを取っていんのも事実だ。俺ぁ、お喜乃に期待を掛けている。注文は、煩ぇぜ」


 にやり、と重三郎が口端を上げた。


「お手柔らかに頼むぜ、蔦重さん。俺ぁ、手前ぇの絵の仕事もあるしよ。兄ぃのようには仕事をこなせねぇからな」


 及び腰の長喜に、重三郎が活を飛ばした。


「愛娘のためだ、気ぃを張りな。お喜乃と長喜、二人で一つの号を使うくれぇの意気込みで頼むぜ」


 重三郎の気概に、背筋が寒くなった。


「今日まで絵を描き続けて、本当に良かった。長喜兄さんと庵で暮らせるだけで、幸せだと思っていたけれど。生きていると、こんなに嬉しい報せを貰える日が来るのね」


 笑んだ目が潤んでいる。重三郎に初めて褒められた顔見世の帰りと、同じ顔だ。


(五歳の時から絵を描き続けていんだ。嬉しいのは当然だよな。絵師になるなんて、諦めていたろうからな)


 喜乃が泣くほど喜ぶのは、いつも絵に関わる事柄だ。喜乃の気持ちは、絵を生業とする長喜にも痛いほどわかる。

 命を守るために生きてきた喜乃が、好きな絵で生を感得できる喜びは、長喜が思う以上に大きいだろう。


「良かったな、お喜乃。お前ぇらしい絵を山ほど描いて、市井を驚かせてやろうぜ」


 長喜が手を差し出す。

 その手を喜乃が、しっかりと握った。


「改めて指南を、宜しくお願いします。長喜兄さんと一緒に絵を描けるなんて、今から、とても楽しみだわ。父上と兄上から、良い返事が来るといいな」


 喜乃の嬉しそうな顔を眺める。長喜の胸が喜びに満ちる。

 歓喜の広がる胸の奥で、消えずに痞える小さな不安には、気付かぬ振りをした。

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