3.
師走も末になった。煤払いも終わり、新しい年を迎える用意もすっかり整えた頃に、唐突に鉄蔵が庵を訪ねて来た。
「よぉ、長喜。お喜乃も息災けぇ。酒ぇを持ってきたぜ。一献、付き合えや」
徳利を前に突き出す鉄蔵の顔は、瘦せこけていた。
「待て、鉄蔵。お前ぇ、下戸だし、酒は好まねぇだろ。いや、それより何より、その面ぁはどうした。体のどっかが悪ぃんだろ。酒より薬が入用な面ぁだぞ」
浅黒い顔色で、目の下が押し削ったように窪んでいる。
「酒も薬みてぇなもんだろ。飲みゃぁ体もあったまらぁ。さっさと座れ。呑むぞ」
どっかりと腰を下ろすと、前に倒れた。
「お喜乃ぉ、葛根湯を煎じてくれ! 鉄蔵、湯を持ってくるから、そこで寝ていろ。酒に手ぇを付けるんじゃぁねぇぞ」
土間にいる喜乃に声を飛ばす。
喜乃が顔色を変えて頷いた。
「体は、どこも悪くねぇ。ここ何日か、飲み食いを忘れていただけだ。ひたすら絵ぇを描いていりゃぁ、忘れる時くれぇ、あんだろ」
畳に額を付けたまま、消え入りそうな声で鉄蔵が呟く。
「何してんだよ。絵ぇを描くのはいいが、飲み食いを忘れんな。お喜乃ぉ、何か食うもん、持ってきてくれ! 蒸かした芋があったろ。あれでいい!」
喜乃が部屋に上がり、湯を持ってきた。
「一先ず、白湯を飲む! 急に食べたら胃の腑が驚いてしまうわ。今、粥を作るから待っていて。葛根湯も、すぐに持ってくるから、飲んでね。お酒は取り上げます」
徳利を持って、土間に戻る。
喜乃の勢いに、二人は呆気に取られた。
「お喜乃はいつの間に、ずいぶんと女房らしくなったなぁ。胆力が違わぁ」
感心した顔で、鉄蔵が湯を啜る。
「女房じゃぁねぇよ。嫁入り前ぇの娘に何てぇ言い草でぇ。さすがに俺も、黙っちゃぁいねぇぜ」
じろり、と鉄蔵を睨む。鉄蔵が力なく笑った。
「悪ぃ悪ぃ。そうだったな。嫁じゃぁなくて娘だった。相も変わらず大事に育てていんだなぁ、長喜よ。十郎兵衛様も安泰だろうぜ」
鉄蔵の表情と言葉に、少しの違和を感じた。
「まぁ、安心はしてくださっている御様子だがよ。ところで、鉄蔵。何だって今頃になって訪ねてきたんだ。耕書堂に顔を見に行った時は、部屋から出ても来なかっただろうが」
重三郎の頼みもあり、長喜は何度か鉄蔵を訪ねていた。だが、鬼気迫る様子で絵に向かう鉄蔵に声を掛けられず、障子の隙間越しに覗くだけで帰る日々が続いていた。
喜乃が葛根湯を持ってきて、鉄蔵に差し出す。
温い葛根湯を一気に飲み干すと、鉄蔵が顔を上げた。
「俺ぁ、旅に出ると決めた。絵を極めるための修行だ。その前ぇに、二人の顔を拝みに来たんだよ。せっかく何度も訪ねてくれたってぇのに、話もできなかったからな」
今度は長喜と喜乃が呆気に取られた。
「旅だと? この年の瀬に、か? いや、その前ぇに、耕書堂から出している役者絵の組物は、どうすんだよ。年明けに、また新しく始めるって蔦重さんが息巻いていたぜ」
鉄蔵にとっても、春朗で絵を描き出してから初めての纏まった仕事だった。どれだけ鋭気を注いでいたかを、長喜も知っている。
「俺ぁ、断った。年明けの組物は春英が描く。蔦重さんも頷いてくれたよ。今のままじゃぁ俺の絵は勝川の真似事で終わる。あの組物で、思い知ったんだ。俺が描きてぇ絵は、そうじゃぁねぇ。もっと、こう、俺にしか描けねぇ絵が、あるはずなんだ。それを探す旅だ」
拳を握り締め、鉄蔵が力強く笑む。
その手を、喜乃が握り締めた。
「鉄蔵なら描けるよ。鉄蔵か描きたい絵が描ける日が、きっと来る。耕書堂で組物を描いている時の鉄蔵の威力は凄まじかったもの。今度の旅で、きっと見付かるよ」
喜乃が鉄蔵を真剣に見詰める。鉄蔵の目が潤んだ。
「お喜乃、お前ぇ……。なんてぇ良い娘に育ったんだよ。やっぱり長喜の娘だなぁ。長喜によく似ていらぁ」
喜乃が不満そうな顔になった。
「私は、長喜兄さんの娘ではないけれど。でも、育ててくれたのが長喜兄さんで良かったと思っているわ。私は、長喜兄さんが大好きだもの。鉄蔵にも、育ててもらったと思っているよ。筆を折った私を、最初に叱ってくれたのは、鉄蔵だもの」
驚いた顔をした鉄蔵の表情が、和らいだ。
「そうだったなぁ。あれからもう、十年も経つのか。早ぇもんだ。本当に良い娘に育ったよ。いいや、お前ぇは最初から良い娘だったんだ。素の顔を見せられる大人が、周りにいなかっただけだよな。俺らの贈った筆は、使っていんのけぇ」
鉄蔵が喜乃の頭を撫でる。
喜乃が、あからさまに顔を顰めた。
「私は、もう子供じゃぁないのよ。幼子のように扱わないで。筆は、まだ使っていないの。ここ一番で、使うつもりよ。今は、絵を描く時に文机に出しているよ。三人が見守ってくれている気がするから、心強いの」
喜乃が、にっこりと笑む。
その顔は本当に可愛らしいと、長喜は思った。
「そうかぃ。早く、ここ一番が、来るといいな。筆は、使い込んで手前ぇの筆にしていくんだ。手前ぇの筆になりゃぁ、描きてぇ絵にも近付く。山ほど描けよ、お喜乃」
喜乃が素直に頷いた。
土間のほうから、焦げた匂いが流れてきた。
「お喜乃、粥はどうした? 火に掛けたまんまか? 焦げていねぇか?」
長喜が立ち上がる。
喜乃が慌てて土間に走った。
「兄さん、一大事! 粥が焦げた! 鉄蔵に食べさせるものが、なくなっちゃう。ごめんなさい」
粥は、鍋底の米が黒く焦げていた。
「火事にならなくて、良かったぜ。火の扱いには気を付けねぇとな。俺も、うっかりしていた」
「その粥を食わせてくれ。腹が減って死にそうだ。焦げも味の内だぜ。あと、芋もくれ」
失望する喜乃に、鉄蔵が声を掛ける。
来た時より、顔色が良くなっているようにも見える。
喜乃が支度を整えている間に茶を淹れて、鉄蔵へ差し出す。
「旅は、どの辺りに行くんだ? もう決めていんだろ? 出立は、いつ頃だ? 見送りくれぇ、行くぜ」
「ここを出たら、すぐに立つつもりだ。行先は西だな。上方の絵を学びてぇ。半年くれぇで戻るつもりだ。学びてぇ絵を学んだら、すぐに江戸に戻るぜ」
「今すぐに立つのかよ。しかも、この年の瀬に本当に行く気か? 年明けに、ゆっくり支度して立てばいいだろうよ。
呆れる長喜に、鉄蔵が当然のように言い放った。
「年明けなんざ、今日が明日になるだけだろ。いつ立っても同じだ。思い立ったが吉日なんだよ。それよりよ、お喜乃は蜂須賀に関わりのある娘、なんだよな」
唐突に出た家名に、長喜は思わず口を閉じた。
「答えなくっていいぜ。十郎兵衛様は、蜂須賀家の御抱えの能役者だ。その程度は、察しがつかぁな。気を付けろ、長喜。蜂須賀は今、何やら騒がしいぜ。お喜乃に関わるかは知らねぇが、身辺を守っておきな」
鉄蔵が身を寄せ、小声で囁く。
「何だって、お前ぇが、そねぇな話を知っていんだ。有名な噂って訳でもねぇだろ。どういういった仔細だよ」
鉄蔵が更に声を潜める。
「俺が聞かねぇんだから、お前ぇも聞くな。友人の
「身辺を守れって、どうすりゃぁいいんだ。まさか、お前ぇが上方に行く訳は……」
鉄蔵が長喜の口を塞いだ。
「だから聞くなよ。答えられねぇ。十郎兵衛様にも話すなよ。ただ、巧く話して、腕の立つ野郎にでも側にいてもらえ。お喜乃を
鉄蔵が長喜から身を離した。
喜乃が飯を持って、やってきた。
「二人で内緒話をしているの? やっぱり長喜兄さんと鉄蔵は仲が良いよね」
盆の上には、焦げを除けた粥と、昨晩の残りの煮物と沢庵が載っていた。
「匂いはあると思うけど、できるだけ焦げは避けたから、何とか食べられると思うの。残り物で悪いけど、食べてね」
鉄蔵が目を輝かせた。
「充分に豪華だ。有難く頂くぜ。こんだけ良くできりゃぁ、お喜乃は、いつでも嫁に行けるなぁ。だが、もうしばらくは長喜の傍にいてやれよ。父親は娘が嫁に行くと悲しくって弱るからよ」
飯を掻き込みながら、鉄蔵が面白尽に笑う。
喜乃が頬を膨らませて、外方を向いた。
「お嫁になんか、いきません。私は、これからも長喜兄さんと一緒に暮らすの。それが一番、幸せだもの」
「ふぅん、そうかぃ。ずいぶんと好かれたなぁ、長喜。父親離れは、まだまだ先になりそうだぜ。良かったな」
ニヤリとして、鉄蔵が長喜を見やる。
「揶揄うんじゃぁねぇよ。元より、下手な男にお喜乃をくれてやる気はねぇんだ。十郎兵衛様から御預かりしている大事な娘なんだからな」
思わず外方を向いたら、喜乃と目が合った。
喜乃が頬を染めて、笑んでいた。
(日を追うごとに娘らしく可愛らしくなるんだから、参っちまうよなぁ。お喜乃も、もうすぐ十六になるんだなぁ)
この感情が親心なのか、馬琴の苦言のような恋情なのか、長喜にも、はっきりしない。只、大切だとは思う。明確な名を付ける必用はないと、思っていた。
飯を食い終えた鉄蔵が、茶を飲み干して立ち上がった。
「腹も膨れたし、俺ぁ、そろそろ行くぜ。世話になったな。助かったぜ。それじゃぁ、二人とも、達者でな」
「もう帰るの? ゆっくりして行けば良いのに。ここで、三人で年越ししてもいいのよ。鉄蔵が持ってきたお酒も、あるんだし」
鉄蔵が、じっと喜乃を見詰める。ぽん、と頭を撫でた。
「俺は忙しんだ。年越しは長喜と二人で過ごしな。旅から戻ったら、土産を持って、また来るからよ。良い子にしていろよ」
喜乃が、頬を膨らませる。
膨らんだ頬を人差し指で突いて、鉄蔵が笑った。
「戻ったら、号を変えるぜ。次に会う時は北斎宗理だ。勝川春朗を超える絵師になって帰ってくるからよ。楽しみにしておけよ」
手を振り、庵を出ていく。
「鉄蔵! 危ねぇ所には行くなよ。危ねぇ振舞もすんな。俺らは絵師だ。体を張るのは絵を描く時だけで、いいんだからな」
鉄蔵が振り返り、頷いた。
「違ぇねぇ! 互いに絵を描く時だけ、命を張ろうぜ。またな、長喜、お喜乃」
竹林を歩いていく鉄蔵の背中を、見えなくなるまで見送った。
言い得ぬ不安が、胸中に静かに渦巻いていた。
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